第四六話。レイモンド・ゴダール。

 戦場では、再び乱戦が始まっていた。

 ギャラルホルンの音により、一瞬武器を振る手が止まった。だがその直後、魔笛の音に触発された戦士たちは、さっきまでの何倍も激しく戦い出した。怒号と唾を撒き散らし、来るもの来るものを切り伏せる。

 その効果は、この二人とて例外ではない。

 雨男レイモンド・ゴダール。

 獅子エドガー・ライムシュタイン。

 拮抗していた二人の戦いも、激しさを増していた。

 獅子は文字通り雄叫びを上げて、その巨大な顎を開く。


 雨男は雪を変形させ、盾を作り出す。せり上がった雪の壁を、ケルベロスは二つの首で破壊した。だがその壁の下に、既に雨男はいない。

 レイモンドは雪上を走る。足跡は足が離れるそばから消えていった。雪を跳ね上げて、通常では飛べない高さまで飛ぶ。背後からケルベロスの背中に取り付いた。すかさずケルベロスの背中に付着している雪を、鋭利な棘へと変えた。

 ぐさりと刺さる感触があった。無数の針が、エドガーの背中を貫く。少しだけ呻くが、ダメージは大きくないらしかった。巨大な体躯に秘められた膨大な筋肉の壁が、針による攻撃を抑えている。

 内臓まで、届いていない。


 エドガーは体を振り回し、レイモンドを振り払った。雪上を器用に滑りながら着地する。前足による踏みつけ。レイモンドの体を悠々と踏みつぶせる大きさの足が、頭上に振り上げられる。その一瞬の攻撃を、レイモンドは見切った。雪を氷柱のようにせり上げる。勢いよく振り下ろされる足は、止まることはなかった。ぐさりと、三本の長い氷柱が、ケルベロスの右前足を貫通した。

 今度こそ、大きな悲鳴を上げる。

 レイモンドが距離を取ろうとした瞬間だった。雨男は油断していた。忘れていたのだ。ケルベロスの唾液が、普通ではないことを。

 激痛による悲鳴と共に飛び散った唾液を、レイモンドは全身で浴びてしまう。

 じゅう、と。

 皮膚が、焼けた。


「——っぎゃああああああああああああ!」


 煮えた湯をぶちまけられたような痛みに、レイモンドは膝をついて転げ回った。雪で冷やそうと、悲鳴を上げようと、痛みが取れることはない。

 擦り傷やかすり傷から、じゅくじゅくとどす黒く泡立った血が出た。傷口にも、かかってしまったのだ。服も焼けたように破れる。顔面も、ひどい有様だった。瞬時に両手を掲げなければ、最早二度と見れる顔ではなかっただろう。顔を防いだ手のひらは、皮が黒く焦げ破れ、赤黒い肉がところどころ見えていた。右目に熱を感じた。眼球が溶けている。もうその目は、二度と開かない。


「ぐ、ぐぐぅぅ……」


 激痛に歯を食いしばって立ち上がる。

 エドガーも氷柱から足を引き抜くところだった。ぶしゅ、と貫通した傷口から血が吹き出た。

 両者とも、引くことはない。


「よ、ヨルムンガンドが魔人であるならば……貴様の言う力を本当に有しているのならば、早く、早く……王の元へ行かねば……」

「だから、てめえはここで死ぬんだよ!」

「なんの義理があってヨルムンガンドに加担する!」

「馬鹿か、テメエ!」


 レイモンドは痛みをかき消すように叫んだ。

 唇が切れた。頬が一部破れている。奥の歯茎が吹雪の外気に触れ、冷えた。


「俺はお前を殺すためにここに来た! お前は俺の親父の腹を破った! お前は俺の母親の心臓を貫いた! お前は俺の妹の首をへし折った! お前は俺の国を殺した! お前は俺の故郷を殺した! お前は俺の家族を殺した!」


 豪雪の中でレイモンドは発破が堂々轟く。


「わかるか、クソ犬! 俺に理由を与えたのはお前だ!」


 長い髪は焦げ、一目でレイモンドが重症であることがわかる。絶え絶え吐き出す息は、内臓の煮えた匂いが混ざっている。

 しかし、しかし雨男は——


「その首残り二つ、順繰り順繰り潰してやるぜ……」


 闘志を緩めることは、ない。

 使える左目だけで、エドガー・ライムシュタインを睨みつけた。鬼気迫る圧力。退くことのできぬ戦士の瞳。焼ける喉で、沸騰したような声で唸った。


「お前が忘れていようが俺は宣言した! 絶対ぶっ殺してやるってなァ……」


 どん、と足下の雪を炸裂させて、弾丸のようにエドガーは飛び出した。

 焼けて破れた皮膚から、赤く黒い血が飛び散る。

 エドガーは巨大な尻尾でレイモンドを払う。避けられない。打撃の面積が広過ぎる。レイモンドは雪の壁をせり上げた。それを予見していたエドガーの尻尾は、壁をも砕く力で振られていた。一瞬の時間を稼ぐ間もなく、壁は木っ端微塵に破壊される。しかしレイモンドもそれを予想していた。雪を使って丸いカプセルを作り、その中に閉じこまっていた。尻尾はその白いカプセルを打つ。打撃の寸前に、レイモンドはカプセルの下から飛び出した。カプセルは粉々になった。だがレイモンドは、完全にエドガーの裏を取っている。


 その身のこなしにエドガーは目を剥いた。

 帰還兵士であるエドガー・ライムシュタインがここまで苦戦することなど、今までに無かった。相手が同じ帰還兵士ならばまだ分かる。たかが、たかが水を操る程度の帰還者に手こずるとは、まさか思っていなかった。

 背中を向けてしまったエドガーは、何も出来なかった。先ほどと同じくレイモンドは飛び上がる。雪原から伸びる白い槍がレイモンドの手に握られていた。長い。レイモンドの背丈の、何倍もあった。黒い獣に、白銀の巨槍が襲いかかる。

 ケルベロスは二つの首に、同時におののいた。焼け焦げたレイモンドの顔は、まるで鬼のようだった。右目が潰れ、頬が破れ、鼻は半分削げていた。血走った左の眼から溢れる生気の光が、ケルベロスの恐怖を煽る。


「っらああああああああああ!」


 レイモンドの氷の槍が、ケルベロスの頭を貫く。脳天から顎まで、折れることなく貫通した。頭蓋骨を貫く音が雪原に響く。尋常ではない量の血液が吹き出した。氷の槍は、熱い血を浴びて徐々に細くなる。レイモンドは槍を離した。雪をマット状に変化させ、レイモンドは背中から落ちる。


「ぐ……!」


 ケルベロスの最後の首が、呻いた。

 左右に飾りとなった二つの首をぶら下げ、残った真ん中の首が、充血した目でレイモンドに襲いかかった。

 顎を大きく開き、倒れたレイモンドを食い殺そうとする。

 レイモンドは跳ね起き、なんとかかわす。だが衝撃で散る雪と岩に体を持っていかれ、吹き飛ぶ。壁に強く背中を打った。体中が痛かった。火傷が酷い。外気に触れるはずのない筋肉や頭蓋骨の中が、やけに冷たいような気がした。体が弱っている。小さなダメージは確実に蓄積していた。腕がぶるぶると震え、上体を起こすことができない。


 怒り狂ったケルベロスの首が、レイモンドの方を向いた。

 レイモンドは動けない。

 狂犬の顎が開かれる。

 垂れ落ちる唾液が雪を溶かした。

 獰猛な牙が、凄まじいスピードでレイモンドに迫る。

 破れた口で、レイモンドは雄叫びを上げた。

 最後の、最後の断末魔を上げた。


「おらああああかかってこいやああああああああああああああああああ!」


 大きく開かれた闇がレイモンドを飲み込んだ。

 体が蒸発する醜い音が立つ。

 閉じた口から煙が漏れた。肉の焦げた、生々しい死の匂い。凄まじい悪臭が立ちこめた。

 エドガー・ライムシュタインが勝利を確信した——そのとき。

 顎の中に違和感を感じる。


「——がっ……!」


 醜い音がくぐもった。白目を剥き、血の混ざった涎が溢れる。裂けた巨大な口の端からは、赤い泡が吹き出す。

 びくびくと全身を震わせ始め、遂に——


 無数の、無数のが、口腔内から突き出した。


 それ以上、呻く余地もない。

 頭蓋を破り脳を貫かれていた。

 よろめいた足は動くこと無く、そのまま、雪原に沈黙する。

 溢れ出す唾液が、白い雪を蒸発させた。

 頭を貫く赤い槍は、ゆっくりと溶解した。

 力なく開いたケルベロスの顎から、ぞうきんのようなぼろ切れが風に舞った。粉々になった人骨が、転がった。茶色い長髪がへばりついた髑髏が、音も無く雪の上に落ちた。

 レイモンド・ゴダールは、その血をもって……獅子を倒した。

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