第四五話。魔王覚醒。

 エイク・サルバドールは、虹色の粘液から解放された。

 いつの間にか座り込んでいた切り株から、立とうとはしなかった。

 整理すべきものが、多すぎた。

 しかし、愚かなエイク・サルバドールは……


「俺は今から、神様を殺すんだ」


 リリーの命令を、成し遂げようとするだけだった。

 リリー・エピフィラムの正体を知ってもなお……魔人であるリリーが有する能力の正体を知ってもなお、エイクは、リリーに何の疑いもなく従うだけだった。


「俺はリリーが好きなんだ」

「お前、気付いてるんだろ」


 エイクは、アルフが言おうとしていることがわかった。


「『帰還兵士量産計画』は、ラジゴールが最初に言った、ってこと?」

「そうだ」


 クルセリアルツ・イエーガー。

『帰還兵士量産計画』原文を書いた者。エイクが帝王に見せられた書類に、その名が刻まれていた。

 あの文書に書かれていた『ある男』というのは、ラジゴールのことだろう。ヨツンヘイムを出たエピフィラム一族は、着々と準備を始めていたのだ。

 ラジゴールは恐らく、アルフに従う者、そうでなくとも人間に味方し神を殺す者として、『帰還兵士』の可能性を説いた。


「でも、俺が人間の味方になるとは、限らないじゃないか」

「ところがそれが、そうでもないのさ。お前は『完全』じゃない。レイラの映像で見たかリリーの話で聞いたかまではわからねえが、地獄にいる魔人ってのは人形さ。ゼペットが作った人形。あいつらは自分たちで子どもを作っても抜け殻しか産まれない。そういうシステムなんだ。そこで、外界の人間を母体に使う。すると不完全な魔人が産まれる。魂を必要としない、人間みたいな魔人が。まあこれは要検証ってところだが、そいつらはやっぱどこか欠けてんのさ」


『帰還兵士量産計画』の話を聞いたあと、エドガー・ライムシュタインが同じことを言っていた。


「魂が、欠けている」

「そう。空っぽだ。だから誰かに依存する。番犬の野郎の場合はアルセウス・イエーガーだった。で、お前の場合はトム・バス、俺、そして最後にヨルムンガンドちゃん」

「関係無いよ」


 エイクの気持ちに、嘘は無い。

 魂が欠けているだろうとどうだろうと、エイク・サルバドールはリリー・エピフィラムが好きなのだ。


「そうかい。なら大好きな女の子がいる世界を、救いにいくか」


 道化師が指を鳴らすと、光の柱がどこからともなく差し込んだ。光の柱は数を重ねて巨大になる。

 そこには無数の、無数の人形がいた。

 ペルット人の、魂の器が。エイクに向かって微笑んでいる。


「今からお前は、こいつらの無念を晴らすんだ」

「…………」


 エイクは圧倒されていた。

 ペルット人たちが右手を差し出すと、体が光り出した。青白い光は左手の先に圧縮された。魔人はがくがくと震え出し、膝から崩れ落ちる。尋常ではない数の魔人たちが一気に倒れ伏す光景に、鳥肌を禁じ得ない。圧縮された光の粒がエイクの目の前に浮かび、一つに集まっていく。肥大した光は、エイクの頭ほどの大きさになった。光量が強すぎて、とてもではないが直視できない。


「喰え」

「……腹は、破れないのか」

「お前なら大丈夫だ。世界を喰らう不死の大蛇、ヨルムンガンドの息子だからな」

「……ヨルムンガンド」


 神々の軍勢を丸呑みにした、あのヨルムンガンド。リリーの二つ名にもなった、あのヨルムンガンドの血を、エイクは引いていた。


「やっぱりアルフ、知ってたじゃないか、俺のお父さん」


 エイクは少しだけ笑い、そして光に手を伸ばす。

 青白い光は、指先からエイクの体へと這入り込んでいった。力が漲るのを感じた。今までに無い、超大なパワーが、エイクの全身を駆け巡った。足下から風が吹き上げるようだった。体が軽い。凄まじい高揚感に、エイクは息をするのも忘れていた。伽藍洞に、魂が満ち満ちていく。


「さあ、最後にこの手も取れ」


 アルフは手を伸ばす。最後までエイクの前で仮面を外すことはないようだ。

 だがわかっている。アルフが微笑んでいるのが、エイクにはわかっている。魂をエイクに渡せば、アルフは死ぬ。だが、六百年の想いを託せる者に、やっと巡り会えたのだ。アルフが泣いているはずがない。長い年月をかけて、ずっとこの瞬間を夢見ていたはずだ。道化師として、始まりアルフとして。旧い友人たちや父親の無念を果たすために、六百年間、孤独を歩き続けた。そしてこの時代に、全ての決着を決心した。魔人の力を全て託し、己の魂をも託す。後が無い全力の拳を、エイクに預けたのだ。

 エイクはアルフの手を取った。アルフは強く、握り返した。


「笑ってるじゃねえか、伽藍洞の小僧」

「うん。気分が、良いんだ」


 高揚感を感じていた。単純に力を得たから、というわけではない。積み上げた石が遂に天を突くような、暗闇の中で光を見つけたような、心の底からわき上がるような高揚感だった。


「ふん。あの口下手が、言うようになったねえ」


 アルフの体が、青白く光り出す。

 黒い礼服が力の奔流に踊り出した。ばたばたとはためく礼服にも光が移り、道化師アルフの、奇神ナルヴィの体が、一層強く光った。


「さあ行け! 魔王エイク・サルバドール!」


 ふ、と一瞬、光が消えた。

 エイクを握り返す手に力が抜けるのを感じた。

 エイクは目を逸らさなかった。

 アルフが崩れる様から、絶対に目を背けようとしなかった。

 道化師アルフが膝をついたと同時に、光の柱がエイクの足下からわき上がった。

 青白い光がエイクの全身から漏れ出した。アルフは幾百もの魂を取り込んでいた。その力も全て、余すところなくエイクに吸収される。伽藍洞の器は、それほどまでに巨大だった。

 光が落ち着く頃に、エイクはいつの間にか黒い衣を纏っていた。

 奇神の礼服と同じ色ではあるが、もっと凶悪なフォルムだった。

 流動し脈打つ黒い布が、全身に緩く巻き付くように胎動していた。禍々しい。それに尽きる。


 地獄は、一層暗くなったような気がした。生きるものがいないからだろうか。支えるものがないからだろうか。だが崩壊が始まらないということは、誰かまだ、魂が残留しているのかもしれない。しかしアルフがこの場に呼ばなかったということは、ラグナロクにはいらないということだ。もっと他の役目が、その魂たちにはあるのだろう。

 それならばエイクの体は、奇神ナルヴィによって厳選された、戦闘に特化した力に溢れているということになる。

 魂が、一つの体に濃縮されたのだ。

 魔王計画。エイクはその計画を成就させる器だったのだ。アルフが六百年間待ち続けた、魔王たる力を持って産まれた者だった。


 エイクは遠くを見た。淀んだ世界の果てに、巨大な湖が広がっていた。光が差していれば、素晴らしい景色となったのだろう。エイクの目には、その向こう側に地獄の門が見えていた。門を捕捉すると、煙となって消える。

 一瞬にして、地平の彼方まで辿り着いた。アルフの移動法も、使えた。

 そしてそこにある門へと手をかける。低い、地響きのような音を立てて、門は開いた。白く輝く門を通過すると、そこは岩砂漠の真ん中だった。

 小さい石ころが、がらがらと風に流されて転がる。酷く、殺風景だ。辺りを見渡せば、瓦礫の山があった。エイクはここがどこか知っていた。


 亡国ペルジャッカ。

 リリーが生まれた場所であり、ペルットの栄華が集結した場所。

 ふと、エイクの耳に、喇叭ラッパの音が聴こえた。

 知っている音のような気がした。とても懐かしいと思った。そしてなにか、力が湧いてくるような、音だった。破滅的な音色は、あまりにも美しかった。エイクの血に眠る暴力的な記憶が、根こそぎ呼び起こされるような気がした。

「ああ、これが、開戦の魔笛ギャラルホルンか」

 魔王エイク・サルバドールは、集まる雷雲を見ながら呟いた。

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