第四四話。ギャラルホルン。

 アルセウス・イエーガーは遂にリリー・エピフィラムに追いつめられていた。


「貴様がそうだと言うのか。そのエピフィラム家の人間だと」

「ええそうよ。それから六百年間、私たちはずっと近親相姦を続けて来た」


 帝王の顔が青ざめた。帝王を取り囲み守っていた兵士たちは、部屋の外に出て行ってしまった。否、出されてしまった。

 リリー・エピフィラムの、言葉によって。


「お察しの通り、私はラジゴールの残滓。彼の能力と酷似した力を持ってうまれた、純血のペルット人」


 全てが、似ていた。

 リリーの口から語られたラジゴールの軌跡と。


「ただの小娘が世界を救えるわけはないし、ただの小娘がこんなに大きな軍隊を動かせるわけがない。帝国傘下の八万八千の軍人たちを一斉に裏切らせるなんて、魔人でもないとできるわけないわよね」


 そうだ。

 帝王も気付いていたはずだ。いや、帝王だけではない。獅子エドガーも同じことを思った。ウインテル軍楽団団長ヘリオットさえも同じことを考えた。

 考えたはずだった。

 リリー・エピフィラムの魅力は……見る者を惹き付けてやまないその魔的な美貌は……容姿から来ているのではないと。美し過ぎる見てくれに由来しているものではないと。

 全員が、知っているはずだった。

 もっと内側の|魂という部分から来ているのだと、リリー・エピフィラムに当てられた者たちは、感じたはずなのだ。

 それが本当だっただけだ。正真正銘、魂から発せられる力だっただけだ。


「せ、説明が、つかない……。なぜお前はそんな力を持ちながら、アルカルソラズに収監された……」

「あのときはまだ力が未成熟だったのよ。噂を流すような、初期のラジゴールのまねごとは出来たけれど、ラジゴールが最終的に到達した、人を意のままに操るなんてことは、まだできなかった。加えて私の能力は支配オーダーではない。名前をつけるのなら、そうね、誘導……あるいは催眠カリスマというところかしら。捕まったときは必死に力を使って、なんとか即死刑は免れた。そして監獄で囚人たちを煽動し——」

「まさかお前が戦争を起こしたと言うのか!」

「ええそうよ」


『社会性不獲得者の心理的及び肉体的沈静化を測る諸実験』。帝国が研究する人心掌握術の一端。その実験の素体として使われたリリー・エピフィラム。いや違う。使われたのではない。未熟な力で処刑を回避した結果、ここに辿り着いたのだ。そこでリリーは、二分する囚人間の派閥を煽動し、戦争を起こした。


「意思の無い人間を操るのは、練習にはちょうど良かった」


 毎夜毎夜、リリーは身も心も堕落した囚人たちに抱かれた。

 リリー・エピフィラムという美しく気高い女を抱くためだけに、囚人たちは奉仕活動に精を出した。そして見事リリーを与えられた男は、一晩、女の体を貪った。そこでリリーは、自らの能力の使い方を学んだ。使えるものは全て使った。派閥のトップを手練手管ですれ違わせて、遂には内戦を起こさせる。

 監獄島アルカルソラズが潰れた戦争の内実は、垢にまみれた男たちの、リリー・エピフィラム争奪戦だったのだ。

 記録も残らない壊滅状態の島で、真実を見つけられるはずもない。

 イエーガー家に伝わる人心掌握術の研究も、あるいは『ラジゴール』の影響を受けているのだろうか……

 帝王の目は、血走っていた。


「まだ知りたいことはあるかしら。あなたの顔がおもしろいから、よく喋ってあげるわよ」

「……レイラ・エピフィラムとは、何者なんだ」

「レイラは私の母親で、私の姉よ。そして『過去視の力』を持っている」


 ペルジャッカを潰した際に捉えた捕虜。その中にエピフィラムの者が数人いた。一等年配の男が、レイラとリリーのことを『娘』と言っていた。だが、それで関係を決めつけるのは浅はかだった。帝王が足を踏み入れてしまったこの世界で、それはあまりにも、あまりにも単純な考えだったのだ。あの男は、自分の娘であるレイラとまぐわい、そしてリリーが産まれた。

 エピフィラム家の、呪い。

 六百年間も近親相姦を続けてきた一族に、あの程度の、所詮人間のアルセウス・イエーガーが考えつくような拷問が効くはずもなかった。異常さの格が、狂気の格が、最初から最後まで違うのだ。

 そして過去視。

 納得がいった。

 そうだ、全て言っていたではないか。魔人レイラ・エピフィラムは、何度も言っていたではないか。

 ——私が見るのは過去だけよ……と。


「……全て、知っていたのか、俺は……」


 ステージが、違う。

 知っているとは言っても、どこからそんな答えを導き出せるというのだ。

 まさにこれを、想像を絶する——と言うのだろう。


「だがリリー・エピフィラム、貴様……どうするつもりだ……」

「何を」

「この世界だ。神々が降りた後、貴様はどうするつもりだ! 世界が滅びるぞ!」

「滅びは来ない。エイクが倒すから」

「あの赤毛か? そこまで強そうには見えんがな……下手をすると雨男にも勝てまい。所詮は『できそこない』——」


 リリーの瞳は凍てついていた。

 冷たい炎が、帝王の口を閉じさせた。

 だが、帝王は口を噤んだが——代わりに右手でレイピアを引き抜き、目にも留まらぬ身のこなしでリリーの眉間へと突き立てる。

 が、ガラスが割れるのと同時に、レイピアは何者かにへし折られた。

 ガラスの破片が飛び散るなか、リリーは瞬きもせず帝王を睨みつけている。


「な、なにが……」


 反撃の刃が宙を舞い、落下した。


「何が、起きた……」

「流れ弾ね」


 冗談にも思えた。そんなことが信じられるわけがない。この部屋は高い場所にある。あの演説台よりも二階分も高い。こんなところに流れ弾が飛んでくる確率など、ほぼ無いに等しい。ましてや、レイピアの細い刃に当たるなど、あり得るわけが無い。



 リリー・エピフィラムは言い切った。

 ヨツンヘイムで預言者に襲われたときにも同じことを言っていた。


「あなたを殺すまで、私は死なないの」

「まさか……」


 帝王は、何故か道化師を思い出した。道化師はエドガー・ライムシュタインを『獅子』ではなく『番犬』と呼んだ。『雨男』のことを『海獣』と。


「道化師は——」


 リリー・エピフィラムは、帝王の思考を読んだように口を開いた。


「道化師は、獅子のことを『番犬』と。雨男のことを『海獣』と。預言者のことを『神様』と。エイクのことを『伽藍洞』と呼んだ。そして私のことを——」


 帝王の頭の中は既に真っ白になっていた。

 今までの常識がひっくり返されるようだった。なぜ気付かなかったと。盤上に全て答えは書いてあったのだ。そっくりそのまま、一字一句間違えず、書いてあったのだ。

 それがわかっていれば、こんな化け物に喧嘩を売るようなことはなかっただろう。

 愚かにも世界を統一しようなど思わなかっただろう。本物を前にして、魔人のまねごとなど誰がしようというのか。

 神を殺そうなど、世迷い言だと笑い飛ばしていただろう。

 そう、リリー・エピフィラム。この怪物は——


……と」


 ——神の魂を、喰らっているのだ。

 不死の世界蛇ヨルムンガンド。

 その魂を、手に入れていた。

 道化師は、知っていたのだ。


「あの空白の一年か」

「ええ」


 リリーの噂を追っても、アルカルソラズの壊滅からの一年間が、全くの空白だった。

 その一年間、リリー・エピフィラムは地獄に潜っていたのだ。

 自らの二つ名である『ヨルムンガンド』の魂を求めて、さまよい歩いていたのだ。


「ペルット人や神々の体は、各々に備わった力を完全に再現するために作られている。私も私の力を再現するために、それ専用に作られている」


 圧倒的な美貌は、催眠カリスマを完全に発揮するための、道具。


「だからヨルムンガンドの『不死』とて、私の体で完全に再現できるわけがない」


 頭に穴が開けば、それで死ぬ。


「結果、こういう再現の方法になった」


 流れ弾が、レイピアを叩き折る。

 預言者が振るうグングニルが、眉間に刺さる前に気まぐれで止まる。

 投擲された必中の槍が、エイクによって遮られる。

 全てが、ヨルムンガンドの能力だった。


「世界を喰らう不死の蛇。ヨルムンガンドだからこそできた芸当。それもさすがに期限がある。あなたを、殺すまでという、タイムリミットが」

「手足が腐る奇病のことを知っているか」

「ええ。エピフィラム家の遺伝病。呪いの副産物」


 近親相姦によって代々継がれる奇病。発症したのがラジゴールなのかはわからない。だが、少なくとも四百年前からその病はあったということだ。奇病が数百年かけて、完全に血に感染してしまっている。


「俺を殺した途端に発症するかもしれんぞ」

「そうね。だからきっと、私はあなたを殺せば長くとも五年以内には死ぬでしょう。レイラ・エピフィラムは長生きした方だわ」

「それでもやるか」

「そのために、ここにいるのよ」


 リリー・エピフィラムが腰のサーベルに手をかける。

 吹雪が始まった。

 遠くで喇叭ラッパの音がした。

 世界の終わりを告げるような音だった。

 この誇り高き喇叭の音は、世界の全てに響いた。

 全ての人間が震え上がった。

 アルセウス・イエーガー。

 エドガー・ライムシュタイン。

 レイモンド・ゴダール。

 リリー・エピフィラム。

 そして、黒い衣を纏い地獄の門から這い出たエイク・サルバドールの耳にも、確かに届いた。


 ウインテル軍楽団団長ヘリオット・シュトラウドが奏でる滅びのアポカリプティックサウンド

 人々は思い出した。

 ずっと忘れていた絶対的な恐怖。

 神々という圧倒的な存在。

 血に宿る原始の記憶が、全ての人の目を空へと向かわせた。

 開戦の魔笛ギャラルホルンが、遂に鳴り響いたのだ。

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