第四三話。ラジゴール。

「よう、待ってたぜ、兄弟」


 明るい声が響いた。

 地獄は、暗かった。地に咲く花は枯れ、地平線の先は見えずに世界が深淵へと沈んでいる。

 荒れ果てた大地の腐りかけの切り株に道化師アルフは座っていた。


「……アルフ」


 そう、道化師は言っていたのだ。

 悲しそうな様子で、地獄で待っている、と——


「死んだのか」

「死んではいないが、命からがらって感じだ。俺のスペアは俺が壊したからな。お前さん、ヨルムンガンドになんて言われた」

「神様、殺せって」

「そうか。じゃあ見せてやる。神の首に、最も近づいた男の話を」


 アルフがそう言うと、仮面から一筋、虹色の涙が流れた。


「それ……!」


 見覚えがある。そう、レイラ・エピフィラムから昔の話を聞いたときだ。あのときと同じ、不快な粘液。それが何故か、道化師アルフから流れ落ちていた。仮面に開いた目の穴から、だくだくと、虹色の粘液が溢れ出す。


「俺の体じゃ、あいつみたいな高度な技はできん。できれば近寄れ。この液体を拭って、目に塗りたくれ」


 道化師は訥々と言った。害が無いことは前回でわかっているが、気持ち悪いことには変わらない。しかしエイクは、いやいやながらも道化師の言う通りにした。仮面から流れ落ちる粘液を掬い、目に、塗り付けた。

 レイラのときと同じように、視界が光り出す……



*



 うずたかく、人間の死体が積み上っていた。

 足の踏み場も無い。地平線の彼方まで、死体の海は続いているように思えた。

 最後のヴァルキリーが、黒髪の男に斬り捨てられた。

 男は血に濡れた剣を捨てる。からんと音がすることはなかった。倒れ伏す人間の上に、落ちただけだった。

 ぜえぜえと息を切らして、死体の海に膝をつく。


「やってくれたぜ……」


 黒髪の男の隣にいた、仮面を被った礼服の男が唸った。頬まで口を吊り上げて笑っている仮面はしかし、むしろ不愉快そうに黒髪の男を見た。


「お前が二百年も、何もしないからだ、道化師……」


 黒髪の男も負けじと不愉快そうに悪態をつく。

 男の顔は、野性的にも知性的にも見えた。鋭い眼光と、柔和な瞳。見る人によって印象が変わるような容姿をしている。ただ、断言できるのは、美しいということだ。言ってしまえば、あらゆる魅力を取り込んだかのような姿をしている。全ての人間に対して、美しいという感動を抱かせるために生まれかのようだった。長いとも短いとも言える黒髪をかきあげて、男は唾を吐いた。血が混ざっている。


「お前本当に、『追放の日』から二百年も何してたんだ」

「オーディンを追ってたんだよ」道化師アルフも、死体の上に座った。「新約神話を広めまくるあいつを止めようとしてたんだ。無駄だったけどな」

「やるならしっかりやってくれよ」

「うるせえな。俺だってお前に言いたいことはあるんだ。一年間、ずっと一緒に動いて来たが、お前は結局何者なんだよ。追放の日のことも知ってるし、ヨツンヘイムの能力者が遂に絶滅したことも知ってる。地獄についても、天国についても知ってる。いったいお前は何なんだよ、ラジゴール」

「俺はラジゴールだ」


 男は、そうとしか答えなかった。道化師アルフと会ってからずっと、自分の正体はそこまでしか明かさない。生まれも経歴も、何も言わない。

 ただ、『前哨戦』のために、屈強な男を世界中から集めるだけだった。

 ある日、道化師アルフは噂を耳にしたのだ。

 曰く、『世界一巨大な軍隊を率いるラジゴールという男がいる』と。

 こういう話には敏感なはずだったが、道化師アルフがその噂を耳にしたときには既に、世界各地がその噂で持ち切りだった。


 不思議なことと言えば、その噂を誰も疑わないということだ。どんな男なのかも、どこにいるかもわからないラジゴールという男は、何故か疑われることは無かった。霞のようなもやもやとした英雄譚を、誰もが信じていたのだ。オーディンが触れ回って説いたノワル教教典が、盲目的に信仰されているかのように。

 道化師アルフはそれが不思議で堪らなかった。噂を妄信する市井の人々もそうだが、なにより『世界一巨大な軍隊』をたった一人で動かしているような男に、今まで気付けなかったことが、アルフにとってはあり得ないことだったからだ。オーディンを追い回し、世界中を飛び回っていたのだ。そこまで派手な噂が立つような男ならば、察知できたに違いない。


 そしてある街の酒場で、遂にラジゴールとの邂逅を果たした。アルフが一人で座るテーブルに、ローブを深く被った男が座る。不審に思ったアルフが誰だと尋ねると、フードの男は言うのだ。

『いくらお前が道化師だと言っても、自分から名乗るのが礼儀だろう』と。

 道化師は眉を顰めて名乗ろうとする。

『アル——』

『アルフ。道化師アルフ。捨てた本名はナルヴィだろう。お前の名前くらい、知っている』


 いやなやつだという印象はあった。あったが、だが嫌いになったかと言われるとそうでもなかった。不思議と、苛立つことは無かったのだ。何か、得体の知れない魔的な魅力を秘めている男だった。

 男はそのまま話を続けた。

『お前、これからどうするんだ』と。その問いをアルフは適当に流そうと思っていたのだが、つい、正直に答えてしまった。どうしようもない、と。

 二百年間、オーディンを追い続けて、アルフは疲弊していた。自分にはやはり、父である奇神ロキや、ゼペット、マルセリアのようには強くない。オーディン一人を止めることすらできない。人々を殺し回ったり神話を説いたりと、無軌道な動きを見せるオーディンはやがて人々に『預言者』と恐れられるようになり、預言者が現れる場所に彼の邪魔をする者として現れるアルフは、『道化師』と呼ばれるようになっていた。どちらもラジゴールの噂ほど広まっているわけではなかったが。


 焦燥して、仮面すら外して酒を飲んでいるアルフに、フードを被った男は言うのだった。

『ラグナロクの前哨戦を始める。俺が世界軍を作るから、お前が天国への道を拓け』と。

「ったく、大した男だ」

 死体の海で、道化師は隣に座るラジゴールに毒づいた。

「『世界一巨大な軍隊』ね。その噂を流してから『世界一巨大な軍隊』を作るとは、したたかな男だ」

 この地の果てまで横たわる人間たちが、その『世界一巨大な軍隊』の残骸だった。


 たった三ヶ月で世界中から戦士をかき集め、残りの年月で練度を叩き上げる。一年で組み上げた『世界一巨大な軍隊』は、ラジゴールを残し全滅したが、しかし天国の戦士であったヴァルキュリアの部隊を殲滅することに成功した。そしてアルフが何体かの神々を喰らうという戦果を上げている。

 人間が、神の眷属を滅ぼしたのだ。


「そろそろ退こう、アルフ」


 ラジゴールの顔色が悪かった。

 元々、体は強い方ではないらしかった。時々気付いたように発作を起こし、一晩ずっと嘔吐し続けることがあった。


「体きついのか」

「それもあるけど、雷神が来たらまずい」


 分を弁えている。いくらラジゴールが単体で強いと言っても、さすがに一対一で神々と戦えるわけではない。幾億人の『世界一巨大な軍隊』を率いて初めて、たかが神の眷属を蹴散らすことができたのだ。


「それもそうだな。もうそこまで来てるようだし、とっととトンズラさせてもらおう」


 道化師アルフは立ち上がる。ラジゴールの肩を支えて、地上へと消えた。


 それからラジゴールの体調は、悪くなる一方だった。

 発作の間隔は短くなる一方で、意識を失うことまであった。

 中央大陸の港町で療養していたが、ある日ヨツンヘイムに行きたいと言った。

 アルフはその願いを叶えた。アルフがヨツンヘイムに行くのは、まさに二百年ぶりだった。ナルヴィ・コピーが行けと言った日に訪れて以来、アルフは、無意識にヨツンヘイムを避けていた。


 逃げたペルット人は、全部で八人。

 ヨツンヘイムの原住民の中で能力が使える者はいなかった。ただ、ラジゴールの話では、『門』をくぐり魂を手に入れて、来たるラグナロクに備えているということは聞いていた。その健気さが、アルフの胸を苦しめていた。逃げた八人の血も、二百年の歳月で極限にまで薄まったのだろう。ヨツンヘイムには、もう純粋な能力者はいないということも、ラジゴールから聞いた。

 その極寒のヨツンヘイムを、療養の地としてラジゴールは選んだ。


「療養では、ないんだよ。死に場所さ」


 ラジゴールは、衰弱していく体で、懸命に言った。


「死ぬのかよ、お前」

「ああ。もうこれはだめだ。大して悲しそうじゃないな」

「そりゃそうだ。二百年ちょい生きてきて、お前とつるんでたのはたかが二年だぜ」


 そうかとラジゴールは笑った。窓から見える景色は、雪で埋まっている。


「今から、凄いことを言ってやる。お前が泣き崩れて、俺に謝ってくるくらいの、凄いことだ」


 ラジゴールは、真っすぐと道化師を見た。

『前哨戦』から道化師はずっとラジゴールの面倒を見ていた。預言者が暴れていたら追い回しに出かけたが、それ以外はほとんど付きっきりの状態だ。ほぼ一年間、みるみるうちに衰弱していくラジゴールを、看取るかのように。

 ラジゴールは手足の末端から、腐り始めていた。奇病だ。二百年以上生きている道化師でも見たことがなかった。

 道化師から目を離し、切り落とされた左手を眺めながら、ラジゴールは、呟くように口を開いた。


「俺の名前はラジゴール。ラジゴール・エピフィラム」

「なんだよ、死に際になって自己紹介かよ。俺がそんなもんで驚くとでも——」


「近親相姦で血を繋ぐ、世界最後の純血のペルット族だ」


 絶句した。

 ラジゴールは静かに目を閉じる。柔らかく、笑っているように見えた。

 道化師は、口を開いたまま、何も言葉を紡ぐことができなかった。ただただ、声にならない声で呻くだけだった。その事実に、膝を、膝をつくだけだった。

 アルフがぐずぐずと燻っている最中、ペルット人は二百年間戦っていたのだ。

 神に敵うことのないその短い寿命を、どうやって来世に繋げるか。それを追求した結果なのだろう。


 八人のペルット人が、二百年の間に一つの家系に収束してしまったのだ。

 エピフィラム家。

 それが、最後のペルットの血の名前。

 近親相姦で生きながらえて来た、古代の血筋。

 悪夢の、ようだった。


「俺の母親は俺の姉で、俺の父親は、姉の父親でもある。姉は俺の子を孕んだよ。生まれる前に前哨戦を始めちまったから、どうなったかはわからんが。俺の弟もそろそろ年齢的に子種を吐ける。いま空いてる腹は、姉の母親か、妹がもう産めるなら、妹も——」

「やめろ」


 狂気の沙汰。

 まさにその言葉通りだった。そんな話は、聞いたことがなかった。

 母親に、子を孕ませる。姉妹に、子を孕ませる。機械的に。『空いている腹』など、そんな言葉を、使ってまで。

 そんなことをしてまで、血を守りたかったのか。


「そんなことをしてまで、神を、殺したいのか……」


 アルフは泣いていた。あまりに絶望的だった。奇神のように強くなれないと。ペルット人のように……

 ペルット人のように……


「なんでお前ら、そこまでして」


 道化師は泣いていた。仮面の縁から、涙が、流れ落ちる。


「どうして……」

「俺が、ペルット人だからだよ」


 そうだ。

 先祖のためにあそこまで体を張った、ペルット人なのだ。強靭な魂を持った、ペルット人だからだ。

 月下美人エピフィラム

 短い命でありながらも、世代を経て同じ花を永遠に繰り返す。自らの枝を折り地に刺すことで、脈々と血が受け継がれる。

 道化師にとっては、それが良くない冗談のようにも聞こえた。


「天国を作る者がいれば地獄を作る者がいた」


 ラジゴールは、吹雪いている窓の外を見た。


「だから恐らく、俺と同じような能力を持ったやつも、何百年も待てば、出てくるさ」

「能力……」

「そうだ。能力。たった一人の人間が、『世界一巨大な軍隊』を先導できたような力」


 たった三ヶ月で、幾億の人間を動かしてしまう力。

 ラジゴールの能力。ラジゴール・エピフィラムのペルット人としての能力。

 神の首に最も近づいた人間が秘めた、圧倒的なまでの能力。


支配オーダー


 ラジゴールは言った。

 自分の正体を、遂に明かした。


「俺の噂が広まったのも、あんな巨大な軍隊を動かせたのも、それにお前の力を借りることができたのも、全部その力のおかげだ。さすがに神様に向かって大きい命令はできんけどな」


 だから、最後まで言わなかったのだ。

 最後の最後まで、自分の正体を明かさなかった。

 それを言ってしまえば、能力としての効果を失ってしまう。不思議な魅力で片付けば良いものが、それが特殊能力だとわかってしまえば、人々にかかった魔法は解けてしまう。いや、魔法が解けても人はラジゴールに従い続けるのだ。ラジゴールは、それを避けたかっただけだった。

 幾億の人間を、たった一人で操れる者など、所詮普通の人間ではないのだ。


「……どうして、何も言ってくれなかった。俺なら協力するに決まってるだろ……」

「オーディンにばれると、まずい。それにこの力は、信用を失う」


 人に強制する力。


「……俺には、俺には何ができるんだ……。ラジゴール……ラジゴール・エピフィラム! 済まない……俺は、俺は……」

「お前がやりたいようにやれば良い」

「絶対だ……絶対、お前の、ペルットの無念を果たす。もう約束は違えない。道を見失わない。何百年かけても、神々を殲滅すると誓う……!」

「そうか。お前がやりたいならそうしたら良い」


 ラジゴールは、そうとしか言わなかった。正体を明かした今、迂闊な言葉は、吐けない。


「最後の頼みだ、アルフ」

「……何だ!」

「もう俺の看病は良いよ。今までありがとう」


 ラジゴールの言葉と同時に、道化師の足が動いた。立ち上がり、後退を始める。だがアルフは泣き叫ぶ。自分の足を殴りつけ、止めようとする。だがそんなものは無駄だった。アルフの足は、ずんずんと部屋の出口に向かった。


「ゼペットは地獄で俺の人形を用意しているのかもしれないけど、その場で破壊してもらうよ。俺の力は、危険だ」

「止めろ! 止めろラジゴール! まだ話は終わってないだろ!」


 ラジゴールはそれに答えない。低く呻きながら、右足を抱えているだけだった。痛いのだ。どんどん腐っていっている。腐食はやがて、内臓まで達するのだろう。

 これは呪いか。アルフはドアノブを掴む右手を左手で抑えてながら思った。

 神々がかけた呪いなのかと。もしそうならば、その呪いは腐食のことではない。奇病のことなどではない。

 肉親を孕ませてまで血を繋ぐような、血に巣食う狂気のことだ。

 道化師アルフは雄叫びを上げながら、病室を出た。

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