第四二話。トム・バス。

 三面あるうちの一つの顔に、水の槍が突き刺さっていた。

 左下の顔の左目。そこから刺さった槍は、頭蓋を破り後頭部から出て来た。その首が甲高い悲鳴を上げ続けていたが、つい先ほど沈黙した。脳に穴があいた一つの首は、完全にオブジェと化している。巨大な首飾りは邪魔らしく、獅子エドガー・ライムシュタインの動きは、明らかに鈍くなっていた。

 血塗れの犬と対峙するのは、レイモンド・ゴダール。

 だが雨男も、酷い怪我を負っていた。

 エドガーが繰り出す鋭い爪の斬撃と、牙による咬撃。そして岩石のような筋肉で放たれる打撃は、並の人間であるレイモンドにはどれも重い一撃となる。レイモンドの身の丈の五倍はあろうかという怪物。それとまともにやり合っている雨男は、やはり世界に名を轟かせているだけはあった。

 ぜえぜえと息を切らしているが、それはエドガーも同じだ。


「雨男……お前はなぜあの女の味方でいる。世界を破滅させたのも同然だぞ、やつは!」

「うるせえな。美女は総じてわがままなもんなんだよ」

「真面目に答えろ!」

「さあ、知るか。あいつには不思議な魅力があったんだ。人を引きつける力がな。その正体がわかった。だからもう良いんだ。あいつにはもう従わない。だがな、最後の仕事の報酬は前払いだったんだよ。世界の真理を教えてくれた。だから、それに見合う仕事はしなきゃならんのさ。それに良いことを教えてやろう。世界は滅びねえよ」

「ラグナロクはまやかしだと言うつもりか?」

「思わんさ。魔人はリリーの味方だし、神様は魔王が倒してくれる。だからこの世界は、滅びない」


 レイモンドの頭の中では、既に全てに答えが出ていた。

 リリー・エピフィラムの正体。それはやはり全てに繋がっていた。

 ずっと奇怪だったのだ。レイラ・エピフィラムによって見せられた映像は、途中で途切れていた。その後を補完するようにリリーが話をした。

 魔王計画。

 あの計画は結局どうなったのか。一番最初のオリジナルである魔王計画は、人形技師ゼペットが造る神の血を再現した人形を使って、魂を管理する。その管理する場所として、建築家マルセリアが世界を造った。あの規模では恐らくペルット全ての魂を守ろうとしたのだろう。そしてそこで軍団を形成し、神を叩く。こういうことだったはずだ。


 だが、それは変更になった。

 いくらゼペットでも、そこまで大量の神の力をも再現する人形を造るには、膨大な時間が必要だった。それでは間に合わない。主神オーディンはすぐに嗅ぎ付ける。だから、神ではない。ただのペルット人の人形を、大量に造った。

 だが、わかるのはここまでだった。変更された魔王計画の概要は、あの映像にも、あの話にも、遂に出てくることはなかった。


「魔王ってのは、恐らく道化師のことだったんだ」


 レイモンドはそう推理した。

 ペルットが全滅し、奇神一族も壊滅。だが大黒柱である奇神ロキは、ナルヴィを逃がした。自分の能力を使って、逃がした。地上に這い出たナルヴィは、自分のコピーがオーディンに乗っ取られているのを目撃する。コピーがまだ残る意思で、僅かなペルットの人間を、『ヨツンヘイム』に逃がしたと言った。


「リライジニアは、唯一ペルット人が生き残る地となった。なぜバレなかったのか。神々の『目』だったオーディンが、その役割を果たせなかったからだ。こいつは罠だったんだよ。主神オーディンの悲劇的なまでの『知識欲』を利用した、奇神ロキの最後の攻撃」


 ナルヴィ・コピーの体へと閉じ込められたオーディンは、その後とてつもなく長い時間、まともに動くことができなくなる。


「だが雨男。神々はペルジャッカを滅ぼしたあと、世界に散って能力者を滅ぼしたのではないのか」

「滅ぼした。確かにそれでほとんどの能力者が死に絶えた。だがペルジャッカが『特別』だったんだ。なぜペルットが世界征服を為せたのか。それを考えろ。神々以外の人間ってのは、元々『才なき者』だろうが。……いや、旧約神話を知らんのか。とにかく、その中で偶然芽生えた才能たちが、人々を導くために集まった。それが恐らくペルットの起源だ。だから世界に能力者はほとんどいなかったんだよ。リライジニアとかいう僻地は、神々にとっては眼中に無かったのさ。そして血がどんどん薄くなり、遂には能力者がいなくなる。これはリライジニアでも同じだろうな。逃がしたとは言っても、数は多くない」


 そこまで言って、レイモンドは言葉を切った。



*



 エイク・サルバドールは、地獄の門の前に立っていた。

 ただならぬオーラを発する岩の扉に、何か懐かしい感情を抱いていた。幼き頃だ。エイクはこれと同じ形の門の前で、泣き叫んでいたらしい。

 トム・バスは、そう言っていた。仕事を終えた夜には、古ぼけたロッキングチェアに深く腰掛け、少しだけ高価な蒸留酒を傾けて、よくその話をしてくれた。


 話が浮かばず、元々売れぬ絵本作家な上に収入がほとんど止まっていた。描く気力も無くなりかけ、いっそ帰還者にでもなって他のあらゆる絵本作家の指を折ってまわってしまおうかとまで思っていたと、笑って話していた。そしてトム・バスは地獄の門に足を向けた。すると大きな声で泣いている。三、四歳ほどの赤毛の幼児がいたのだ。トム・バスは、助ける以外の選択肢を思い浮かべることはなかったそうだ。優しく抱き上げて街に行った。誰かの落とし子かと聞いて回ったが、親を見つけることはできなかった。そもそも赤毛は、その大陸の血ではない。帝国がある北西大陸のものだ。まさか地獄の門をくぐってきたのかと疑ったが、さすがにそれを肯定することはできなかった。それからトムは、赤毛の幼児にエイクという名を付けた。


 そして姓はトムと同じ『バス』ではなく、『救世主サルバドール』を与えた。本当の親が見つかったときに、『バス』を名乗らせるわけにはいかないと思ったからだと言う。なぜサルバドールなのかとエイクが聞くと、トムは笑った。『救世主が好きなんだ』と言った。全てを投げ出してでも大切なものを守るという話を、トム・バスは好んで描いていたのだ。


「サルバドール……」


 結局捨て切れなかった名字を、エイクは自分に言い聞かせるように呟いた。

 トムはよく、最後に底抜けのハッピーエンドを描きたいと言っていた。なぜこんなに後味の悪い話ばかり描くのかと尋ねたときだ。『最後に底抜けのハッピーエンドを描くためだ』と、笑って答えたのを、エイクはよく覚えていた。

 トムが『創造神に会った』ともうろくし始めた頃だった。トムとエイクが静かに暮らす国にも、戦火が及んだ。まともに勉強などしなかったエイクには、その国が戦争に巻き込まれる理由がわからなかった。


 いま思えば、このとき既に自分の異常性に気付いていれば、トムが死ぬことはなかったかもしれない。そう、トムは戦争で死んだ。街が侵略された際の、流れ弾だった。眉間に一発。即死だった。目の前で死んだトムに膝を着くより先に、道化師が現れた。途方に暮れるエイクの腕を引っぱり、有無を言わさず連れ去った。それから数年、エイクは道化師と共に、戦いに明け暮れることになる……


「全部、ここから始まったんだ。この、中から」


 エイク・サルバドールは、ドアノブに手をかける。

 全ての始まりである地獄の門へと。

 ごごごと低い音を立て、深淵がエイクを誘った……

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る