最終章。ラグナロク。
第四一話。雨男の答え。
喉の真ん中を突き破っていた。
並の人間ができる自害ではない。
だくだくと溢れる血は、赤いカーペットに染み渡る。編み込まれた金色の装飾を、覆い隠していった。
レイラ・エピフィラムは死んだ。
「さようなら、お母さん」
リリーはレイラに聞こえるように、少し強めの声で言った。棒読みではあったが、その言葉には強い感情が籠っているように思えた。
帝王は体を引きずりながら歩いていく。
エドガーも帝王のあとをついていった。
突如、地鳴りのように城が揺れた。廊下の壁の向こう側から、何かが叩き付けられているようだ。壁には亀裂が入り、遂に破れる。埃を舞い上げながら、壁に開いた風穴から拳が突き出ていた。
派手に開いた穴からは、エイク・サルバドールとレイモンド・ゴダールが歩み出て来た。
「エイク」
リリーはそれを予期していたかのような態度だった。平然と、エイクに呼びかける。
「獅子を突き落とせ」
エイクは返事する間もなく腰を落として、大砲のようなタックルを繰り出した。身構えた獅子を抱えると、廊下の窓を破って遥か下の地面へと落下していった。取っ組み合いの声が、みるみるうちに小さくなる。
「やりやがるぜ、軍神さんよ……。毎晩毎晩どこほっつき歩いてるのかと思えば、このための根回しだったか。だいたい、おかしいと思ってたんだ。ヨツンヘイムから帰る船で、おまえ、レイラが生きてることわかってたような口ぶりだったくせに、牢屋で泣きやがって。怖いねえ、策士さんよ」
「雨男。最後の仕事の報酬は、前払いよ」
リリーは歩き、レイモンドの横に立った。帝王は兵士に囲まれ、奥へ奥へと進んで行く。無様に逃げる帝王の背中を見送りながらも、リリーの表情は固かった。
レイモンドは期待に胸を膨らませている。
どんな報酬をくれるのか。どんな真実を教えてくれるのか。レイモンドは、故郷の復讐と、世界の真実のためだけに、リリー・エピフィラムについてきたのだ。
「あなたが知りたがっていた私の正体。私は『帰還者』。帰還者ヨルムンガンド。そして——」
時が止まったようだった。
それについては、レイモンドの予想の遥か斜め上をいった。
だが、だがしかし、今までの旅でのリリーの言葉、挙動を振り返ってみると、否定する材料はなかった。
伏線は、あまりにたくさんあったのかもしれない。
そう、軍神ヨルムンガンドの正体は。
リリー・エピフィラムの正体は——
「……私は純血の——」
血が沸き、肉が踊るのを感じた。
そうだ、それさえわかれば、もう未練は無い。
レイモンドはこの瞬間、全ての謎が解けた。
「さあ、舞台は約束通り用意した」
「最後くらい、名前で呼んでくれても良いじゃねえか。エイクだけじゃなくてよ!」
レイモンドは笑った。気持ちが良かった。
帰還兵士と戦って無事で済むとは到底思えない。死んでもおかしくはない。だが負けることも、ない。『設計士』であるリリー・エピフィラムが用意してくれたのだ。
雪原の戦場を。
雨男の能力を存分に発揮するための、この上ない決戦の舞台を。
「さっさと行って獅子を殺せ、雨男!」
リリーも笑っているようだった。
雨男レイモンド・ゴダールは、破れた窓から飛び降りる。
満足そうな顔で、落下した獅子を追いかけた。
積もった雪がうねりを上げて立ち上がった。巨大な腕となった雪の柱は、レイモンドを柔らかく受け止める。
白い雪に覆われた戦場には、黒い巨大な三面犬が四本足で立っていた。
三面犬のよだれが雪に落ちると、じゅうと音を立てて雪が溶け出す。普通の唾液ではないようだ。
エイクはレイモンドのところへと走ってくる。
「ようエイク。どうやらこいつが最後の仕事らしい」
「……そう」
「ここでさよならだ」
「…………うん」
「リリーによろしくな」
「……うん」
「幸せになれよ」
「…………」
「じゃあな、エイク・サルバドール」
「……じゃあね、レイモンド・ゴダール」
すれ違い様に、拳を合わせた。
エイクは城の壁を破って、もう一度上へと向かった。走って。本気で走って、リリーのところへと。
「貴様ら……気でも狂っているのか……」
三面犬は地響きの如き声で怒鳴った。
「俺とお前は場外なんだよ。ラグナロクとは関係ない。あの王様もな。こいつは俺たちの物語じゃねえんだ。外野は外野で祭りを上げようや。ずっとお前を、殺したかったんだよ……!」
*
仮面は粉々になっていた。
眼球は爛れ、右半身は、消えている。
ぐねぐねと蠢く触手が、それらを再生していくが……
「限界か、幼き奇神」
左手で道化師アルフの首を。右手に白熱する雷槌ミョルニルを。
力の差は圧倒的だった。
神々の中でもっとも強い神。
その位置づけにある雷神を殺そうなど、奇神の息子ナルヴィには、到底叶わないことだったのだろう。
体の再生が全部終わった。だがアルフに動く気力は無いようだった。生え変わった四肢をだらりと垂らし、宙づりになっている。
トールはミョルニルを握り、横っ面を叩いた。首から上が爆散する。赤い筋張ったものがトールに飛び散った。ずるりと左手を抜け、無様な音を立てて地面に落ちる。純白の地面は、既に真っ赤に染まっていた。
びちびちと触手はのたうち回り、どうにか元の形へと戻っていく。
アルフは、動かない。
「三千回は死んだか、奇神」
ぴくりと指先が反応するだけだった。
左手の中指を、雷神に向かって立てていた。
弱々しく震える中指を、トールは踏み割る。踵でぐりぐりとすり潰した。悲鳴は、上がらない。どすりと腹を蹴り上げると、衝撃で背が破れ脊椎が粉々になって散った。なす術無くごろごろと転がり、死んだように止まる。
「強い魂だな」
「……根性と……言うんだよ……」
錆びた喉で、答えた。
「その根性とやらも、そろそろ打ち止めだろう」
雷神は雷槌を掲げた。小さな稲妻が、ばりばりと音を立てて雷槌の上を泳ぐように走った。
雷神はアルフを軽く持ち上げ、手を離す。飽和まで雷を漲らせたミョルニルが横薙ぎに振られた。
アルフの側頭部を容赦なく捉える。道化師は粉々に散り、残った左足の先が血に染まった白い花びらの上を遥か彼方まで転がった。足先から触手が生え、再生する。
「化け物め」
遠くまで吹き飛んだアルフに向かって、雷神は歩き出した。
「お、お、おまえは負けるさ……」
道化師は声を絞り出した。
「誰に負けると言うのだ。この俺が」
「どうしようもない……不器用な……男、に……」
「そのざまで、よく言えるな。地上で貴様より強い者などいないだろう」
「愛の力を、なめんなよ」
この期に及んでふざけたような奇神の口ぶりに、雷神はもはや聞く耳を持っていない。
激しくスパークする雷槌ミョルニルを、全力の力で——振り下ろした、が……
「……消えた」
煙となった道化師アルフの破片を、その目に捉えることはできなかった。
*
リリー・エピフィラムは窓から戦場を見下ろしていた。
背後のエイク・サルバドールの気配には、気付かぬふりをしていた。
兵士たちは全て、下に降りている。リリー・エピフィラムただ一人を置いて、戦場へと駆け出してしまっていた。
下では血しぶきが上がっているというのに、空からは美しい雪が降り続いていた。
「リリー」
エイクに呼ばれていたが、リリーはしばらく振り返らなかった。エイクの声を、ゆっくりと噛み砕くように、リリーは目を閉じた。
不器用な声で呼びかけられた、自分の名を、心の中でずっと聴いているようだった。
「……エイク」
そしてリリーは、腹から声を絞り出す。俯きがちに、振り返った。
やはり、リリー・エピフィラムは美しかった。後ろでまとめられた黒い髪も。銀色のプレートが映えるその白い肌も。紺色のドレスが似合う、気品あるオーラも。何もかもが、美しかった。
「エイク。最後の命令よ」
リリーは時間をかけて、顔を上げた。
エイクの顔を、真っすぐと見つめる。窓から見える雪が、リリーを際立たせた。エイクは、微かに動くこともない。完全に、見とれていた。リリー・エピフィラムから、目を離すことはできなかった。
「神を、殺して」
「ここは。ここは、大丈夫なのか」
エイクは声を荒げること無く言った。恐らく、レイモンドは死ぬだろう。ならばリリーを守ることができる者は、他にいなくなる。帝王の元へと、辿り着けることができるのだろうか。
「大丈夫。私は、死なないのよ」
ヨツンヘイムでも、リリーは同じことを言っていた。
エイクが聞いたかどうかは定かではないが、リリーは、確かにそう言った。
こんなところで私は死なないと。
「……そういう、能力なのか」
さすがのエイクでも、リリーが帰還者だということに感づいていたのだろう。ヨツンヘイムでの行動を思い返せば、エイクでもわかることだった。ただ、リリーが言わないのなら、それを聞くべきではないと思っていたのだ。
「死なない、ちからなのか」
「ええ。死なない力」
「大丈夫、なんだな」
「ええ、大丈夫」
時間が、止まっているようだった。
こんな戦場のまっただ中で、ここだけの時間が取り残されたような。エイクとリリーだけが、息づいているような。
不思議で、そして気持ちのよい浮遊感だった。
「エイク」
「…………」
「今まで、ありがとう」
「……俺も、い、今まで……ありがとう」
「さあ、行って」
エイクは無言だった。口を固く閉ざして、頷いた。振り返り、城の出口を目指し走り出した。
階段を降りながら、エイクは目を潤ませていた。
こんなに胸が痛いのは、初めてだった。歯を食いしばらずにはいれなかった。階段を飛び降りながら、かき乱れる頭の中を整理しようとしたが、うまくいかない。
「くそ!」
わけもわからずに悪態をついた。
対象は、恐らく自分なのだろう。不甲斐ないエイク・サルバドールに対してなのだろう。
リリーの、泣き出しそうな笑顔を見て、何も言えなかった自分に、心の底からいらついた。
復讐を果たそうと歩き出したリリーとの距離は、どんどん離れていってしまった。
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