第四十話。宣戦布告。

 帝国軍五百名。世界軍三百名。

 もうすぐ千に至る兵士たちが、演説広間に集まっていた。

 世界軍の残りの八万八千幾百の兵士は、城のすぐ外で隊列を組んで待機していた。

 地獄攻略。帝都から西に半日歩いた距離に、地獄の門がある。エルズアリア城の裏にもあるにはあるが、如何せん大軍が歩けるような場所ではないために、西の門を使うことになった。そこは荒野だ。何万もの軍勢でも行軍ができる。

 この大軍勢を従え、リリーは地獄を攻め落とす。世界を守るために、それ以上に、レイラ・エピフィラムを取り戻すために。

 軍勢は、リリーの演説を今か今かと待っていた。三百の世界軍を監視するために配備された五百の帝国軍さえも、かの軍神ヨルムンガンドのスピーチを、首を伸ばして待っている有様だ。


「ひぃー……キンタマ縮まるぜぇ……」


 雨男レイモンド・ゴダールは城の中から計八百の屈強な軍人たちを見下ろした。レイモンドとエイクは、リリー、帝王、獅子が待機している下の階にいるため、緊張はあまり伝わって来てはいないようだ。念のためか、隔離されているのだ。

 雪が深々と降り続ける。演説の時間が、刻一刻と続いていた。

 レイラは拘束はされずに、しかし獅子のすぐ側に座らされていた。

 レイモンドとエイクは上の階の音を気にしながら、世界軍を見渡していた。


「なあ、エイク。エイクくんよ、お前、言えたのか?」

「……言ってない」

「……ふーん、ま、それも一つの答えかな、つってな」


 レイモンドが鼻を鳴らすと、上の階で扉が開く音がした。遂に始まるのだ。


「わ、レイモンド、ここじゃ、見えない!」


 エイクは窓から身を乗り出して上を見たが、見えたのは演説者ではなく演説台の床だった。慌てて早足で移動して、演説者が見える窓を探した。レイモンドもそれに従う。にやにや笑っていた。

 遂に見える窓を見つけた。

 そこから見えたリリー・エピフィラムに、二人とも絶句した。

 黒い髪。

 白い肌。

 紺色のドレス。

 甲冑が、モデルなのだろう。肩と腰には白銀の美しいプレートが張られ、そこから美しい紺色のドレスが見える。金色のポイントが絢爛さを演出している。豪華に膨らんだスカートには華やかな装飾がなされていた。

 長い黒髪はまとめられ、そこから首から背中へのラインが見える。

 あまりに、美しかった。

 リリーはゆっくりと、石の柵の方へと歩み寄る。

 ざわついていたギャラリーが、一瞬にして静まり返る。八百人の目が、リリー・エピフィラムただ一人に釘付けだった。

 リリーは、一人一人の顔を見るようにじっくりと、世界軍と帝国軍を見下ろした。音は何も無い。この静謐さが、リリーの魅力を一層引き立てているようにも見えた。


「…………」リリーは一息吐いて、そして吸い込んだ!「皆よ!」


 リリーの声に、全員が息を飲んだ。

 この美貌を魅せつける女の声は、途方も無い威厳に満ちていた。


「我が名は軍神ヨルムンガンド! 世界軍よ……誇り高き貴公らの指揮官となるものだ!」


 リリーの声は、雪の空によく響いた。


「敗者たちよ! 強き者の答えを聞いたか! 誉れ高き帝国は、神に仇なすという! 我が祖国を屠った軍国が、神をも殺すというのだ! なんと、なんと愚かな! だが聞いてみろ、この者たちの話を! 我らが世界を蹂躙してみせた、圧倒的な男の話を! かの帝王は私に言った! 世界を救えと。そう、世界を、救えと! 帝王は言った! 世界は滅びる! 神々によって、滅んでしまうと! かの帝王は本気で言っている! 神が降り、魔人が現れ、彼らの大戦に巻き込まれ、人間は滅びると! 私は……私は確かに祖国を帝国に滅ぼされた。豊かな国であったペルジャッカは滅ぼされた。私は確かに、復讐を遂げるためにここまで歩き続けた。だが……だが! 世界が滅んでしまっては、それも儚い夢と散る! 私はそれを望まない! 貴公らはどうだ!」


 リリーの問いかけに、八百の戦士たちが怒号のような声で答えた。

 石造りの城が、僅かに震えている。


「そうだ! 世界が滅んでしまっては、復讐の余地もない!」


 おおお、と地鳴りは続く。


「私は! 復讐のためにここまで来たのだ!」


 幾百もの槍が掲げられる。


「復讐のためにここまで来たのだ!」


 男どもの声にも、リリーの声は埋もれることはなかった。


「どうだ、貴公ら!」


 下の階で、レイモンドとエイクは窓から体を戻した。無言で階段へと歩き始めた。


「その槍は何のために持っている!」


 レイラ・エピフィラムは唇を釣り上げて笑っていた。


「その鎧は何のために着ている!」


 兵士たちのボルテージが上がっていった。


「我が名は軍神ヨルムンガンド! 我が名は! リリー・エピフィラム!」


 階段を守っていた兵士はエイクの拳で伸びていた。


「ゆくぞ、我が蛇腹たちよ!」


 五百の帝国軍が、雰囲気に飲まれ始めていた。


を上げろ——」


 帝王は目を見開いた。


!」


 リリーがレイピアを掲げると同時に、城門が叩き破られた。

 外で控えていた八万八千の世界軍の暴挙。鋼鉄を張った三本の丸太が、鉄の壁を破壊した。


「裏切ったな貴様あああああああああああああああああああああ!」


 帝王が吠えた。

 獅子エドガー・ライムシュタインは、兵士にレイラ・エピフィラムを囲ませる。軍靴を鳴らして歩き帝王の隣に立った。神経を張り巡らせ、エイク・サルバドールとレイモンド・ゴダールを警戒した。

 威風堂々と、黒色の髪を揺らした。軍神ヨルムンガンドは、盛大に吠えた。これが王者の凱旋。これが軍神の光臨。世界でたった一つの対帝国兵器と恐れられた女が、今復活した。地獄の淵から這い上がり、耐えて耐えて耐え抜いた先に現れる修羅の道を、止まることなく駆け抜けた。神々しいほどの威圧感。圧倒的な存在感。軍神、ヨルムンガンドが、遂に帝国に牙を剥く。


「さあ、剣を抜け! 機銃を構えろ! 我が軍門のつわものども!」


 その強く気高き雄叫びは、さながら英雄の凱歌と言うべきか。鼓舞するべき者を鼓舞し、畏怖するべき者を畏怖させる。怒涛の迫力は戦場を打ち鳴らし、大銅鑼のような歓声が湧き上がる。狂おしき戦士たちが咆哮し、強靭な魂に火をつける。

 戦場にて反逆の狼煙を上げた女は、猛り狂う士気を統括し、一匹の魔物へと変貌させる。一匹の魔物。そう、まさにあの二つ名に相応しい。大国を飲み干し、世界を蹂躙する、この光景はまさしく世界蛇ヨルムンガンド——

 蜷局を巻いて身を潜め、激しく昂ぶりながら、冷静に機会を待った。待ち続けた。燻る殺気を押し殺し、目を見開いて機会を待った。絶大な一匹の大蛇の猛攻が、いま始まろうとしているのだ。

 そしてヨルムンガンドはレイピアを掲げる。その高い碧空に黒点を穿つがごとく――轟きを上げた。

 磨き上げられたカリスマを、疑う者は一人もいない!


「き、き、貴様っ……! 貴様! ヨルムンガンドぉ! 貴様自分が何をしたかわかっているだろうなあ! 世界の終わりだ! もうラグナロクは止められん!」


 帝王はこめかみに青筋を立てて怒鳴り散らす。エドガーが抑えていなければ、今にもリリーに飛びかかろうとしていた。

 リリーはすぐに兵士に囲まれた。しかしそれでも、にやにやと笑っていた。


「世界はどうする! この世界の人間たちは! 復讐! 復讐だと! 貴様、大義の尺度も計れんか! レイラ・エピフィラムも殺すぞ!」


 レイラを囲んでいた兵士たちはじゃきりと槍を構えた。

 リリーは、首筋に当てられている槍の柄を握った。



 リリーは大蛇のような鋭い、獰猛な目で言い放った。兵士はがくがくと震え出し、そして——槍を取り落とした。


「何をしている、貴様!」


 帝王の怒りは収まらない。

 リリーは奪い取った槍を、滑らせる。レイラの足下で止まった。

 レイラは当然のように、その槍を拾おうとする。レイラを囲んでいた兵士たちが槍を持つ手に力を入れた瞬間……



 またしても、リリーの重く響く声に、兵士たちは従ってしまった。かたかたと腕を震わし、動悸が激しくなっている。

 状況を把握できるはずもない獅子は、一層警戒を強くした。中腰になり、戦闘態勢を取る。

 そしてレイラは槍を拾い上げる。エドガーがその柄を叩き折ろうかと身構えたが、だが、その次の行動を実行するには至らなかった。

 帝王アルセウス・イエーガーも。

 獅子エドガー・ライムシュタインも。

 レイラの『目』に釘付けだった。


 空っぽのはずの眼腔に収まっている目玉から、視線を反らすことはできなかった。レイラ・エピフィラムの目玉は、二つも存在するはずもない。

 ましてや普通の人間が……の眼球など、もっているはずがない。

 気色悪く光るその眼球は、よくよく見ると流動していた。白目部分がマーブル模様に蠢き、黒目の部分には虹色の輪が中心から外へと脈打っている。

 恐ろしく、醜い光景だった。


「…………お前、何者だ……」


 帝王は、かろうじて声を絞り出した。


「『何者だ』ね。帝王さん。あなたは普通だわ。普通過ぎる。創造神がこの場にいたら、きっとこう言うでしょう。『きみは主人公に向いてない』」


 レイラは訥々と喋り始めた。その気味の悪い虹色の眼球を、爛々と輝かせながら。


「王族だから仕方ないのかもしれないけれど、あんまり母親の愛情を受けずに育ったのね。可哀想に。褒められるために、小さい頃から『帰還兵士量産計画』の実行を立案したのね。あらまあ、童貞を捨てたのも随分と早い——」


 帝王の全身に鳥肌が立つ。

 そんなこと、知っているはずがない。帝王自身が小さい頃、レイラ・エピフィラムは未だ生まれていない可能性さえあるのだ。


「王に成ったばかりのときは、随分と心をやられたようね。もう薬は飲んでいないようだけれど、ふふ、知らないことは、怖いことなのかしら」


 絶句したアルセウスは、じりじりとレイラ・エピフィラムから離れ始めた。

 レイラは動かず、ただけたけたと笑うだけだ。


「なに、もの、だ…………」

「知っている者よ。ああそうそう、私は人質でしたっけ」


 そう言ってレイラは、槍の柄を持った。穂先の根元を両手で固く握った。


「幸せになるのよ、私のリリー」


 そう言って。

 リリー・エピフィラムに向かって優しく微笑みかけて。

 聖母のような笑みで最後の言葉を遺して喉笛を突き刺して死んだ。


「…………っ!」


 帝王は声にならない悲鳴を上げた。

 顔はこれ以上無いほど青ざめている。

 この世の光景ではない。

 兵士たちは全身を痙攣させて汗を垂れ流し動けない。

 床がせり上がり壁がもたれかかってくるような幻覚を見た。

 真っすぐ歩けているのかわからない。

 心臓が動いているのかどうかさえも、わからない。

 あり得ない。

 こんなことが起きて良いはずが無いと、帝王は心の中で悪態をついていた。

 こんなことがあり得るはずがないと。

 人質が、笑顔で自殺するなど。しかも目の前で。妹であるリリー・エピフィラムの目の前で。


 帝王は何も考えられない。

 そうだ。

 さよならお母さんというリリーの声も、理解するのに時間がかかった。

 お母さん。リリー・エピフィラムは、レイラ・エピフィラムの妹ではなく娘だということか。

 それを追求する気も起きなかった。知らない。そんなものは知らない。

 知らないものは恐怖の対象だ。そう育てられてきた。だから、そう、だから、今は逃げるしかないのだ。

 世界軍の反逆で、城もいつまで持つのかわからない。今はとにかく、一番安全な部屋で、身を隠して策を練るしか、帝王には選択肢が残されていない。

 とにかく、この場を離れるしか、なかった。

 リリー・エピフィラムがいるこの場所こそが、地獄に思えてならなかったのだ。

 あまりにも常軌を逸脱している。

 ここは最早、帝王の世界ではなかった……

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