第三九話。不器用な。

 純白の世界。

 地面に敷き詰められた白い花びらを、堂々蹴散らしながら、道化師は歩いていた。

 青空に突き刺さるように聳え立つ白銀の塔。どこに首を向けても地平の果てを望むことができる、広大かつ平坦な純白の大地。

 ここは神の国。

 かつて人間と違え、天才だけの血統を作り上げることで完成した、正確無比であり完全無欠の、純然たる魂の集大成。

 ここは神の国、アースガルズ。

 しかしそこに神は一人しかいなかった。

 主神オーディンが座るはずの『世界を見渡す腰掛け』に深く座った、雷神トールの一人しか、いなかった。

 禊ぎの雨は枯れ、こびりつく腐神の血は流れ切った。

 いざ降臨せんとしたとき、時は既に遅かった。

 地上からの刺客が、アースガルズに現れたのだ。


 奇神ナルヴィ。またの名を、道化師アルフと言う。


 仮面を外した道化師は、足を止めた。

 雷神は腰を上げない。堂々たる朱色の髭。同じく燃えるような色の髪を、後ろへと流している。鋼鉄のような筋肉が隆起する体。それだけで怪物を破壊してしまいそうな眼光で、道化師を睨みつけていた。

 とつとつと、肘置きを人差し指で叩く。


「そうか……貴様、ナルヴィだったか……。奇神のせがれが、そんなにデカくなったか……」


 足下が揺れそうな重低音で、トールは言った。


「ラジゴールのときは、そうか……気付かなかった……」

「他の神様は、どうしたんだよ」


 とてつもない重圧を発しているトールに向かって、道化師は極めて軽々しい態度だった。

 煙に巻くかのような。東と西を同時に指差すような。奇醜なる神の名に相応しい、軽薄な態度だった。


「殺した。新世界にはいらんやつらだ」

「……新世界、ね」

「俺は創造神を越える。正義の元凶であるオズを殺し、新たな世界を造る。彼奴の世界に乗り込むのも良い」

「あんたの親父も同じことを言ってたよ」

「オーディンがどこにいるのか知っているのか」

「あいつは好奇心に負けた。ペルットの人間が能力を自由に着脱しているのを見て、あいつもやりたくなったんだろ。人形技師が造った俺の完全なコピーの体に這入って、そして出れなくなった。そしてついさっき、俺が殺したよ。知恵の神らしい最後さ」


 その話を聞いても、雷神は怒り狂うことはなかった。憤怒の神である雷神らしからぬ態度に、アルフは眉をひそめた。


「怒らんのか」

「元より、死んだものだと思っていた。父親と同じことを考えたというだけで、その置き土産だけで、十全。思想を遺すというのも、いかにも知恵の神らしい」

「殊勝なこって。だがあんたは知恵の神じゃない。短絡的な憤怒の神だ。オーディンの野郎は、人間に教えられたと言っていた。格上殺しが可能ならば創造神を狩ることも可能だと。そして世界を一から造ると。もう二度と追放の日のような過ちを犯さない、神による完全統治の世界を創り出すと。あんたはどうなんだ、単細胞」

「俺の世界を創り出すまでだ。恐怖による絶対服従! 叩き込んでくれるわ! 堕落した神々も! 傲り猛る人間も! 我が完全なる新世界にはいらん!」

「良いねえ!」


 道化師は手を叩いた。

 目の前に漆黒の箱が現れた。時空を歪めて出てきたそれは、何よりも暗かった。世界の暗闇の全てを集めても、恐らくこの箱ほど暗くなることはないだろう。禍々しい、触れるだけで祟られそうな正六角形。箱の角に打ち込まれた眼球、唇、鼻、耳、舌、そして心臓は、びくびくと、生きているように胎動していた。アルフは仮面を被り、深く被り、こめかみにずぶずぶと指を突き刺した。関節をぐりぐり動かし、何かを指先に引っ掛けると、ずぶり、ずぶりと引き抜き始める。赤い繊維で結ばれた、九つの鍵。血反吐のこびりついた銀色の鍵を、それぞれ、箱を繋ぐ南京錠に差し込んだ。腸のような生臭い鎖を結ぶ南京錠は、いちいち爆音を轟かせながら外れていく。全ての南京錠が落下し蒸発すると、醜怪な箱が邪悪な深淵から照らされる如き紫色の光を吐き出した。

 その中から這い出てくる、神々しい一本の大剣。この世を両断すると謳われた、覇剣レーヴァテインが現れた。


「シンプルで良いじゃねえか……世界を滅ぼし、新世界を創り出す! 良いねえ、良いねえ!」


 道化師は覇剣を取った。白刃を圧倒的な火炎が包み込む。


「最後の敵は、こうでなくっちゃなあ!」



*



 本格的に雪が積もり始めた。もう足跡がつくほどになっている。

 リリーとエイクは城にいた。帝王が臣民に向かって演説する場所だ。謁見の間の向かいにある、外に突き出たテラスのような場所だ。屋根が無いため、例外なく雪が積もっていた。

 眼下を見下ろすと、地面は遥か下だった。だが城がそこを囲うような構造のため、声はよく響くのだろう。

 ここに翌日、世界軍が集う。さすがに全ては収容できないため、選抜された数百人がリリー・エピフィラムとアルセウス・イエーガーの奮起の演説を聞くことができる。他の兵士たちは、城下と城を繋ぐ橋まで伸びる大行列となってしまう。


「……ここで私が、明日喋るのよ」


 リリーは、白い息を吐いた。


「久しぶりだけど、できるかしら」


 エイクのそのリリーの言葉に驚いた。

 リリーが、失敗の可能性を案じている。

 もちろん、普通の女が、数百人の屈強な男たちの士気を上げるような大演説をするとなれば、足は震え、翌日に控えた日など緊張で口も聞けないだろう。そう考えれば、リリーの肝の大きさに感心するが、しかしリリー・エピフィラムなのだ。今まで失敗を恐れた弱音など、聞いたことがあるだろうか?


「やることはやった」


 リリーは、自分に言い聞かせるように言った。ローブの袖から手を出して、石の柵に触れる。音も無く、積もった雪が落ちた。

 リリーの吐息は、きらきらと光っている。


「……エイク」


 呼びかけたが、その次の言葉はなかなか出てこなかった。何か言いたくて呼んだわけでは、ないらしい。冬に雪が降るように、リリーの口から、その名はこぼれ落ちたらしい。

 エイクは、それに声を出して答えることはなかった。口下手ではあるが、ここで、この静寂の中で、そんなことをするのは野暮なのだろうと、理解していた。

 随分と長い時間、二人は微動だにしなかった。石造りの柵に手を掛け、遠くを見つめるリリー・エピフィラムと、その背中を見つめるエイク・サルバドール。まるで世界に、二人しかいないような静けさが、その場を包み込んでいた。

 日は傾きかけ、夜に向けて一層寒くなってきた。


「私が、世界軍を……」


 そのプレッシャーはやはり、生半可なものではないのだろう。

 地獄を攻めるのだ。無事で済むとは思えない。

 しかし、それをしなければ、レイラは死に、そして世界は滅びるかもしれない。


「私は、お母さんがとても大好きよ」


 守らなくてはいけないものが、リリーにはある。果たさなければいけない責任というものが、リリーの背中には乗っているのだ。

 リリー・エピフィラムは、かつてないほど、弱気だった。エイクは返事をすることができない。エイク・サルバドールの口では、慰めの言葉を紡ぐことはできなかった。


「どうして、こんなことになったのかしらね」


 リリーは、これまでのことを振り返った。

 エピフィラム家に生れ落ち、若くして大国ペルジャッカの軍師として成り上がる。そして秘密の恋に落ちた。初めての恋だった。知らない気持ちが胸に溢れ、知らない痛みで、夜も眠れなかった。それこそが帝国の罠であり、自身の人生の巨大な転機となってしまったというのは、良くない皮肉だ。監獄島アルカルソラズで二年に渡る陵辱を受けた末に、脱獄した。道化師の手を借り、そこから這い上がった。一年間は力を溜め、そしてエイク・サルバドールと共に旅に出た。ヨルムンガンド復活という、薄い煙のような噂が立ちこめる頃に、雨男レイモンド・ゴダールを従える。更に旅を続け、遂にリライジニアにて帝国正規軍を打ち倒した。憎き石細工アーノルド・コーウェンを殺し、リリーは思いがけぬ一つの復讐を遂げた。しかし預言者の襲撃を受け、頼りにしていたヨツンヘイム軍が壊滅する。そして今、レイラ・エピフィラムを人質に取られ、帝国の元で地獄を攻め落とせと命令が下っている。

 一本道のように見える。だがその道の幅はあまりに広大で、とてもじゃないが、真っすぐと歩けていたとは思えなかった。


「初めてあなたと会ったときのことを、まだ覚えているわ」


 あれは監獄島アルカルソラズでのことだった。

 アルカルソラズが、囚人の大暴動によって破壊される中、リリーは、命からがら、這い出てきた。道化師に連れられて来ていたエイク・サルバドールはまだ幼かった。髪はほとんど刈り上げたような短さで、活発な少年のようだった。少年らしからぬ虚ろな目を除けば、エイク・サルバドールは、普通の子どもと何ら変わりはない。北西大陸に多い赤毛。小さめの体躯。とても、魔人とのハーフとは、思えなかった。

 リリー・エピフィラムはぼろぼろの、布切れのような、引き裂かれた男物のシャツを一枚だけ着ていた。頭には包帯が巻かれ、左目には血の滲んだ眼帯が被されていた。鼻血を擦り拭った跡が頬まで伸びていた。左手の人差し指と中指の骨が折れていた。石膏で固められた二本の指が、酷く、痛々しかった。ふとももには殴打の跡が無数にあった。

 覚束ない足取りで、炎上しながら崩壊する監獄から離れた。


「あなたは、口を開けていたわ」


 それはエイクも覚えている。

 幼きエイク・サルバドールは、リリー・エピフィラムを見て言葉が出なかった。その圧倒的な——圧倒的な、美しさに。神々しさに。目が釘付けになってしまって、呼吸することも、忘れていた。血と泥にまみれた全身から、なぜこうも美しい迫力が出てくるのか、エイクにはわからなかった。

 そして、リリーは言ったのだ。ぜいぜいと荒れる呼吸を一息で整えて、一層瞳をぎらつかせて。


「さあ私を助けろ。代わりに神を殺してやる——だったかしら」

「うん。そうだった」

「大口を叩いた割りには、ここまで来るのにも時間がかかってしまったけれど」


 懐かしい、とエイクは笑った。

 エイクとリリーが再会したのは一年後。リリーのあらゆる準備が整ってからだった。

 リリーの顔は見えない。ただ、背中は少し、小さく見えた。


「エイク」


 リリーは、またエイクの名を呼んだ。

 さっきよりも、はっきりと。


「休みなさい。明日は早いわ」


 エイクは、はっと顔を上げた。

 口を開けて、何かを言おうとしている。ぎゅっと目を閉じ、歯を食いしばった。拳を強く握った。ぐっと息を飲み込み、いざ、もう一度リリーの背中に向かって、口を開ける——が。


「早く、休みなさい。明日から、あなたも、私も、戦争なのよ」


 リリーの声が、震えていた。

 その震えを、聞き漏らすエイクではない。

 目を落として、拳を解いた。


「……わかった」

「おやすみ、エイク」

「おやすみ。おやすみ……リリー」


 エイク・サルバドールは、踵を返して、部屋へと帰った。

 取り残されたリリーは、なお振り返らない。フードせいで、表情は見えないが、俯いていた。


「これで良いのよ、リリー・エピフィラム」


 リリーは小さく、呟いた。

 手すりに積もった雪に、温かい雫が落ちた。

 頬を伝った涙の跡が冷えた。


「私の人生に現れてくれて、本当にありがとう、エイク・サルバドール」


 握った拳が震えているのは、きっと寒さのせいなのだろう。

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