第三八話。魔笛。
深々と雪が降る夜、道化師アルフは帝都エルズアリアに現れた。
しかしアルフは紺色の厚いローブを羽織り、フードを深く被っている。この暗さでは、ちょっとやそっとでは誰なのかわからないだろう。
城下町と城を繋ぐ橋を、暗がりからじっと見つめていた。城門が開くと、こちらも防寒用の分厚いローブを羽織った男たちが、ぞろぞろと歩いてきた。足下に軍靴が見える。軍人だ。それも統一されていない軍服が、それぞれのローブの隙間から見えた。
城の中で、いよいよ迫ってきた地獄攻略戦の打ち合わせが、毎夜行われているのだ。帝王が王座に座り、軍神ヨルムンガンドが作戦を指示している。
今さら軍の練度を上げることはできない。ヨルムンガンドは、戦力差の凹凸が激しい『世界軍』に、さぞかし頭を抱えているのだろう。地獄に行くとなっては、士気を上げるのにも一苦労だ。兵士たちは、得体の知れない魔人と戦おうとは思えないだろう。
世界中のばらばらの軍隊を一つにまとめあげる作業が先日ようやく終了し、命令系統がやっとこさ機能し始めた。ラグナロクはいつ起きるかわからないのだ。とてもではないが、時間があると言うことはできない。ヨルムンガンドの焦りも、恐らく相当なものだろう。
軍人たちが橋を渡り切り、しばらくすると、一つの影が歩いてきた。今までの軍人よりも、若干小柄だ。
小柄なローブの影は、真っすぐと道化師の元へと歩いてきた。
道化師アルフは小柄の影の後ろに従い、建物と建物の隙間へと、入る。そこは完全に街の死角だった。雪雲に月も隠され、明かりが漏れる窓も無い。目を瞑っているような暗闇の中、小柄な影はフードを外した。
「ここにいるということは、預言者を倒したのね、道化師」
女の声だった。
紛れも無く、リリー・エピフィラムの、威厳に満ちた声だった。
「ああ。これでどうにかなる。あとは雷神が上でどう動いているかが問題だが、それも何とかしてやる。好きに始めろ、ヨルムンガンド」
「わかった」
リリーは、一言で答えた。この密会がバレると大変なことになるのか、両者とも、声を極限にまでひそめている。
「おいヨルムンガンド。あの指揮者と警備隊長殿には、本当のことを言ったのか」
「ええ」
リリーは即答した。数日前の日が沈む頃。帝都に到着したウインテル軍楽団団長ヘリオット・シュトラウト、ラクエール警備隊隊長ヒルグレン・シーワウスの対談。その終わり際にリリーは現れた。道化師はそのことについて言及したのだろう。
「それであいつらは納得したのか。協力すると言ったのか」
「ええ」
「夜な夜な動き回ってるようだが、ちゃんと真実を言うべきやつと隠すべきやつは見極めろよ」
「あの二人以外に私の正体を話すつもりはないわ。……もういいかしら」
「…………ああ」
道化師は即答しなかった。何か言いたい様子だったが、それを飲み込んで、道を開けた。リリーは小路を抜けようと道化師を追い抜いた。ローブを被り直す。リリーがすれ違う瞬間、リリーの白い息が、ローブから溢れてきらきらと光って消えた。雪をブーツが踏む音がした。
「ヨルムンガンド」
道化師はリリーを呼び止めた。
リリーは、ぴたりと足を止める。だが振り返ることは無かった。何も、言うことは無かった。
「全部終わるんだ」
僅かに吹いていた風が止んだ。雪は落ちる方向を変えた。一瞬舞うように止まった。
「お前くらいは、幸せになっても良いはずだ」
「……そんな話——」
「そんな話さ。こいつは所詮、そんな話なんだ。陳腐な陳腐な、恋物語……」
リリーはそのまま背中を向けていた。振り返る気は無いらしいが、立ち去る気も無いようだ。
じっと動かず、リリーは道化師の言葉に耳を傾けていた。
「トム・バス。伽藍洞の育て親、トム・バスは、最後にラブストーリーを描きたいと言ってた」
「トム・バスが描くのなら、きっと悲恋ものね」
「あの絵本作家がそんな安易なこと、やるわけないだろ。あいつは言ってた。最後に描きたいと言ってた。底抜けに最高な、途方も無くとびきりな、馬鹿馬鹿しいまでのハッピーエンドで終わる、並外れた恋物語を、描きたいって。あいつは最後の最後で本物の喜劇を描くために、ずっとずっと、本物の悲劇を追求したんだ」
「…………」
リリーは俯いた。肩に張り付いていた雪が、滑り落ちた。
「トム・バスにとって。あのどうしようもない物書きにとって、伽藍洞は最後の主人公で、そしてきっとお前は、最後のヒロインなんだよ。お前も伽藍洞も、最後にひとつくらいわがまま言ったって、誰も怒りゃしねえよ」
リリーはそれを聞いて、ローブの中で拳を握った。
「……さようなら、道化師」
ざ、と雪を踏み、歩き出した。そのまま、振り返ることなく、リリーが休むはずの宿舎ではなく城下町へと消えていく。雪は、リリーの背中を道化師から隠した。
「……奇神の末裔が、聞いて呆れる。随分と、人間臭くなっちまって」
道化師は鼻で笑った。
「悪くないねえ……」
くつくつと笑いながら、道化師も歩き出した。
まだ仕事は終わっていない。ナルヴィ・コピーとの決着も終え、仮面の重みも消えた。今すぐ暗い酒場に入って、きつい酒をゆっくりと飲みたい気分にもなっていたが、足は酒場ではなく、世界軍の施設の方へと向かっていた。
道化師が地上で果たす、最後の仕事とも言えた。目的の宿舎を見つけると、煙となって消える。そしてとある一室のドアの前に現れる。ノックを三回すると、礼儀正しい声で返事が聞こえた。
ドアを開けたのは、ウインテル軍楽団団長、ヘリオット・シュトラウド。軍服ではなく、暖かそうな部屋着を着込んでいた。部屋の中から、暖炉にくべられた薪がぱちぱちと弾ける音が聞こえる。部下はこの部屋にはいないようだった。
「……どなたでしょう」
ヘリオットは警戒していた。扉のすぐ横にかけてあるサーベルに手をかけようとする。
道化師はローブのフードを外す前に、人差し指を立ててヘリオットを黙らせた。
ヘリオットは、生唾を飲み込む。
道化師がゆっくりとフードを外すと、ヘリオットの顔が青ざめた。
「ま、まさか……道化師……」
会うのは初めてのようだが、どうやら道化師のことを知っているらしい。長年、放浪の旅を続けた中、こういう類いの噂を耳にすることは多かったのだろう。
「黙れ。黙ってこれを受け取れ」
道化師は低く、腹に響くような声でヘリオットを脅した。ローブの懐から、ゆっくりとそれを取り出した。ゆっくりと、ヘリオットがパニックに陥らないように、時間をかけて取り出す。
「それ……は……?」
取り出されたのは、角笛だった。
甲虫の殻のようなものでコーティングされた、紫色とも紺色とも、そして黒とも言える、不思議な色をしていた。
神々しいとも、禍々しいとも感じた。奇怪な、それこそ魔的な引力を秘めていた。
「来たるべきときに吹き鳴らせ。ヨルムンガンドからの指名だ」
道化師はその角笛を、ヘリオットに押し付ける。
ヘリオットはなされるがままに受け取った。
「これは……?」
「
それだけを言い残し、道化師アルフは、ヘリオットの目の前から消えた。
世界が動き始める、大いなる予感だけを残して……
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