第三七話。静謐。

 世界中の兵士たちが集まっていた。

 秋も暮れ、冬が来ていた。

 ヨツンヘイムほどではないが、帝都エルズアリアもなかなかの寒冷地帯だ。ここ最近では雪の降らぬ日も珍しくなってきた。

 帝都の壁の周りで寝泊まりとしていた兵士たちも、宿屋へと移されている。宿では足りないほどの大部隊は、城下町の広場に立てた仮設の兵舎で寒さを凌いでいる。

 エイク・サルバドール、レイモンド・ゴダールは、城下町へと降りていた。拘束を解かれたのだ。かと言ってリリー・エピフィラムの指示が下るわけでもない。どころか、リリーの顔を見ることも満足には叶っていない。城の中で、地獄を攻め入る算段を立てるのに忙しいようだった。


「寒いな」


 レイモンドは赤いマフラーに顔を埋めながら言った。厚手のコートを着て、随分と厚着をしているが、それでも芯に来るような寒さがあった。

 吐く息は白い。ぱらぱらと降る雪は、僅かずつだが、確実に積もっていた。


「なあエイク。地獄には、雪降らねえのか」

「ずっと降ってるところと、ずっと降らないところが、あるんじゃないか」


 エイク・サルバドールは、レイモンドと比べると薄着だったが、それでもマフラーを巻いていた。青地に白いドット模様が入っている。


「こんな大軍隊、あのヨルムンガンドさんは動かせるもんなんですかねえっと……」


 レイモンドは眼下を見下ろした。

 三階建てのカフェテリア。その屋根付きのテラスからは、様々な旗が見えた。

 どれも帝国のものではない。帝国に敗れた、敗戦国の僅かな誇りだった。

 マグから出る湯気は頼り無さげに揺れていた。レイモンドはマグカップを口に運んだ。帝国のコーヒーは、悔しいことに美味かった。酸味が押さえられ、甘みが増している。レイモンドの生まれ故郷であるフロミシタイトで採れるコーヒー豆の味と、よく似ていた。

 エイクは甘い柑橘の匂いのするお茶を啜っている。レイモンドの問いに答える気はないようだった。


「そりゃあ、どうにかしちまうんだろうけどなあ……」


 ある種何かを諦めたような声でレイモンドは言った。


「あの女なら、どうにかこうにか、クールにやり遂げちまうんだろう。おいエイク。お前、寂しいか。リリーに会えなくて、寂しいか」


 その質問には、エイクは素直に頷いた。口の中に、柑橘の香りが広がった。


「いよいよ決戦、って感じだが、お前、どうするんだよ」

「……どうするって」

「リリーだよ。リリー・エピフィラム。好きですって言うのか、どうなのか」


 その直接的な問いかけにも、エイクの表情は動かなかった。中身が見えない、くすんだ氷のように。


「言って、何か変わるのかな」


 エイクはマグカップを両手で包み込んで、テラスの柵に肘を置いた。屋根を避けて微かに吹き込んでくる雪が、柑橘茶の中に一粒、入った。はぐれた雪粒は、すぐに溶けて消えてしまった。


「リリーは、帝国に復讐したら、帝王を倒したら…………それから、何するのかな」

「お前と一緒に暮らせば良い」

「俺は化け物だよ」

「人間さ」


 レイモンドは即答した。

 澄ました顔で、マグカップに口をつける。乾燥した肌が、ぴりぴりとして痛かった。髭剃りの後が、マフラーの毛先に引っかかる。冷気を吸い込む鼻は赤い。背中を、柵に預けた。


「……そうだとしても、もし俺が、人間だとしても」


 エイクの目は遠くを見ていた。レイモンドほど、冷えが顔には出ていない。だが、やはりレイモンドと同じく、吐く息は、白かった。雪は、二人を等しく、冷やしていた。


「……俺は、男だよ」

「見りゃわかる」

「レイモンドと同じ人間で、リリーに乱暴したやつらと同じ、男なんだ。リリーが復讐しようとしてる、男なんだ」


 二年間。牢獄に閉じ込められ、汚い男たちに辱められた。下種な実験の素体として、生かされた。リリー・エピフィラムは、男によって、破滅させられたのだ。


「んなこと気にしてたら一生童貞だぞ、馬鹿野郎。決めるのはお前じゃなくてリリーだろ。お前はただ、ガキらしく、不器用なりに、リリーの目を見て好きですと言えば良いんだ。それだけで、良いんだ。お前は今まで、頑張っただろ」


 エイクは黙った。

 遠くで揺れるどこかの国の旗から、柑橘茶に目を落とした。お茶はマグカップ越しに、エイクの両手を暖めた。


「ま、良いさ。言うのも言わないのもお前次第だ。言わない後悔の方がデカいなんて言うのは、ありゃ嘘だよ。言ってフラレても言わずに逃げても、どっちも辛いにゃ変わりない。お前のやりたいように、やれ。こいつが大人のアドバイスってやつだ」


 エイクはそれを聞くと、柑橘茶を一気に飲み干した。


「しっかし、皮肉なもんだぜ、なあおい。お前らと旅を始めて、こんなにゆっくりした時期なんてなかった。街から街へ、戦場から戦場へ。ヨルムンガンドの手腕でどれもこれも大勝利。ヨツンヘイムに渡ってからは少しばかり大変だったが、あの預言者の手にかかっても今ここでピンピンしてる。そんで、英気を養う地が帝都エルズアリアとはねえ……」


 レイモンドはコーヒーの湯気に、今までの旅路を見た。

 故郷を滅ぼしたエドガー・ライムシュタインを殺すために帰還者となり、帝国が関わっている戦場に蹂躙の限りを尽くしていた。そんな不毛なことを続けている中、道化師が目の前に現れ、リリーと手を組めと言う。そしてある戦場でリリーの使いのエイク・サルバドールとの邂逅を果たし、今までの数ヶ月の間、共に旅をしてきた。リリーの頭脳に驚愕し続けた。ヨツンヘイムへの海を渡り、そこでも戦争が待っていた。エイクの暴走もあったが、初の対帝国軍戦は勝利を収めた。直後に預言者が現れ、エイクは何度も破壊され、リリーの策も、潰れた。別案のために、港で待ち伏せする帝国に自ら捕らえられた。そこでリリーは今や唯一の肉親であるレイラ・エピフィラムと会う。弱みを握られたヨルムンガンドは、帝国の言う通りに『ラグナロク』の阻止を目論む。牢獄で語られたペルットに関する数々の真実は、レイモンドを震え上がらせた。そしてそのペルットが眠ると言っても良い『地獄』を攻略するための準備が、着々と進み、既に終わりに近づいている。


「凄い話になってきやがったぜ……」


 故郷の恨みを果たすための旅が、いつの間にか、神魔を交えた物語へとすり替わっていた。

 エドガー・ライムシュタインは魔人と人間の混血であり、エイク・サルバドールもそれは同じ。

 道化師は神話に出てくる奇神の末裔で、預言者の正体はその奇神の末裔の体に憑依した主神オーディン。


「神様って、おいおい……」


 しかし預言者の圧倒的な強さを思い出してみれば、確かに神という表現は妥当に思えた。

 そんな次元の話に、レイモンドは首を突っ込んでいるのだ。

 ただ故郷の怨恨と、知的好奇心のために。


「好きですとも言えないガキどもが、よくもまあやってくれるぜ……ったくよお」



*



 道化師アルフは、サイドテーブルから仮面を取り、被った。

 ヨツンヘイムの図書館の奥にある、マリアの自室から出た。

 マリアはカウンターで作業をしている。


「そろそろ行く」


 アルフの声に、マリアは振り返らずに頷いた。


「オーディンは、本当にオズを倒そうとしていたの?」

「たぶんな。神をも啓蒙してしまうくらいには、『追放の日』は壮絶だった。もしかしたら、あの頭の悪い雷神の野郎も、その考えに至ってるのかもな。タイミングは、たぶんぎりぎりだ」


 礼服を引っぱり、皺を伸ばす。仮面の位置を正すと、図書館のドアノブに手をかけた。


「じゃあな、マリア」

「ええ、さようなら」

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