第三六話。主神オーディン。
覇剣レーヴァテインが預言者オーディンの頭蓋を割った。
眉間を裂いたレーヴァテインは炎を上げ、オーディンの体を包み込む。燃え盛る炎の中でのたうちまわりながら、雪で火を消す。消し炭になったオーディンは内臓までもが破れていた。
黒煙を吐き出す割れた髑髏から、びるびると血液を撒き散らしながら赤い触手が無数に伸びる。素早く剥き出しの骨に巻き付き、体の再生を始めた。
道化師アルフは再生の途中でも躊躇しない。神経器官が機能を取り戻す前のまともに動けないオーディンの心臓に向かってレーヴァテインを突き降ろした。炎は触手を焼き切る。雪の上に落ちた触手は一瞬で酸化し黒い炭に成り果て崩れる。
道化師は雪の上を駆け抜けてオーディンと距離を取り、振り返りざまに左手を掲げた。青白い光が左手に集まる。アルフが光を握りつぶすと、オーディンの周りの雪が蠢き始める。
「か……
預言者オーディンを取り囲むように氷柱の牙が生える。道化師アルフは足下の雪を掬いそれを鋭く尖らせた。全力の投擲。氷の投げ槍は振り向きざまのオーディンのこめかみに突き刺さり、反対側の耳殼を破壊しながら貫通した。ぐらついたオーディンを捉えるように、氷の牙は一斉に伸び上がる。四方八方から串刺しになったオーディンは、破壊と再生の狭間で喘ぐように笑った。
「く……」
潰れた喉から漏れる哄笑に、アルフの背中が泡立つ。
白骨の左腕が黒く鈍く輝いた。オーディンの体を捉えていた無数の氷柱は一瞬にして粒子へと分解される。間髪入れずに右腕が白く輝き、微細粒子化した氷柱が流動して一本の美しく巨大な杭へと変貌した。
オーディンは身の丈の幾倍もある氷の杭をアルフに向かって撃ち出す。膨大な質量を持つ杭の鋭過ぎる先端をアルフは何とか躱したが、とてつもない太さを持つそれを、完全の避けることはできなかった。鋭利な刃物としてではなく、重い鈍器としても十分な殺傷能力を持っていた。杭はアルフの体を出鱈目に圧迫する。肩が潰れ抉れ反動はそれだけでは収まらずアルフの右半身を引き千切る。
声にならない悲鳴があがる。首の筋から右側が力任せに引き裂かれた。即死の量の血液が散るが、それと同時に触手が生え、破壊と同じ速度で治癒が進む。破れた組織から順に瞬時に再生していった。
先ほどのお返しだと言わんばかりに、預言者はアルフが動き始める前に追撃を開始した。右手に輝くグングニルを召喚し、同時に投擲する。目映い穂先は吸い寄せられるようにアルフの眉間に突き刺さり、頭部を爆散させた。残った体に黒く光る左手で掌底を叩き込む。アルフは内臓を撒き散らしながら後方へと吹き飛んだ。
空中を滑空する最中にも触手は再生を続行し、地面を滑る頃にはアルフの傷は塞がっていた。
乱打に次ぐ乱打が、一撃必殺の応酬が、ここ数日、休むこともなくずっと続いている。
互いの存在を否定し合う、超常的な暴力。
あり得るはずのないエネルギーの衝突が、吹雪の大地で幾度となく繰り広げられている。
立ち上がる敵を破壊し、再生する体を蹂躙する。アルフは立ち上がり、オーディンは吠えた。
これが神々の戦い。
以前ヨツンヘイムでエイク・サルバドールと預言者が拳を交わしたが、そんなものの比ではない。あのとき預言者は、自身の言う通りにまだ目が醒めきってはいなかったようだ。
これこそが主神。
主神の体から奇神の末裔へと魂が移り、多少なりともスペックダウンしているはずなのだが、異常なまでの強さだった。
「なかなか、死なねえなあ……」
アルフは呟く。
人形技師ゼペットが、己のために作ってくれた『ナルヴィ・コピー』。一瞬でも自我が長く保てるようにナルヴィの名を譲ったその体を見て、アルフは、拳を握った。
ゼペットは死んだ。
その形見であるコピーを、いま破壊しているのだ。
しかしアルフの心は穏やかだった。
形見を、最後の絆を破壊するために、ここまで膨大な時間をかけてきた。
覚悟を決めるために、幾百年も歩いてきた。
アルフは立ち上がった。レーヴァテインを持つ手に力を込める。
「……消耗しているな、アルフ……」
「そのままあんたに返すよオーディン」
吹雪は強くなる一方だ。常人では前もほとんど見えないだろう。レーヴァテインの炎が、アルフの足下の雪をじりじりと溶かした。
「アルフよ……なぜそこまで抗う。貴様には既に父親もいなければ、兄弟もいない。帰るべきアースガルドにも帰らない。……なにがお前を駆り立てる」
「お前には分からんさ」
「知恵の神にそれを言うか」
「だからお前には分からない」
アルフは半身を引き、レーヴァテインを構える。欠けた仮面が再生し、破れた礼服が修繕されていった。
「……分からない、だと」
「ああ、ああ、そうだ。お前には分からない。たかが……たかが叡智の神なんざには、分かるわけがない!」
アルフは雪を巻き上げて突進した。オーディンとの距離が一瞬で縮まる。
薙ぎ払われたレーヴァテインをオーディンはグングニルでいなす。
「気でも違ったか、奇神! 叡智の神に分からぬことなど……」
アルフは今までの何倍もの速度でレーヴァテインを切り返した。オーディンの脇腹を炎の刃が抉る。
「叡智の神だからわからねえんだ……!」
「貴様には分かるというのか、愚か者が!」
オーディンの脇腹が触手によって縫い合わされる。
「お前が寝ぼけてる間に人間に教えてもらったんだよ、馬鹿野郎!」
「それならこの俺も——」
「一朝一夕で理解できるか、阿呆があ!」
振り下ろされるグングニルをかいくぐって、がら空きの懐に到達した。
豪傑の一撃が、預言者の腹に叩き込まれた。レーヴァテインの焼ける刃が背骨を突き破る。
「俺たちはそれを忘れたから、神様なんざ名乗っちまったんだ」
預言者の体を串刺しにしたレーヴァテインの炎が、一層強くなる。暴れる炎の中で、預言者は消し炭になった喉で必死に叫んでいる。
「ああああああああああああ! き、ききききさまああああああああ!」
触手による再生と、炎が触手を炭化させるスピードは、ほとんど拮抗していた。灼熱の無限地獄の中で、オーディンはアルフへと手を伸ばそうともがき続ける。雪が一瞬で蒸発するような熱量になったと同時に、オーディンが召喚したグングニルを白骨化した右手で出鱈目に投げた。
必中のグングニルは、あり得ぬ方向に曲がり、アルフの喉笛を突き刺した。
力が抜けた瞬間を狙って、オーディンはのたうち回って炎から逃れる。
じゅうじゅうと焼ける体を、なんとか起き上がらせた。
「にんげんが……強い、ことならば……重々、承知、して……いる、が……」
アルフは刺さったグングニルを引き抜く。勢いよく血が吹き出るが、一瞬で塞がった。拘束を解いてしまったことに舌打ちしながら立ち上がる。
「だから、そういうことじゃあ……ねえんだよ……」
「忘れたとは……我々が忘れたものとは……いったい何なんだ……」
「俺たちは、忘れたから……逃げたんだ。覚えている者に怯えて、逃げたんだ!」
アルフは再びレーヴァテインを手に取る。オーディンもグングニルを手に召喚した。
アルフは仮面の綻びが直る速度が遅くなっていることに気付いていた。同時に、オーディンの両腕の輝きがくすんできていることも、見逃さなかった。
弱ってきている。
互角の削り合いが三日三晩続いたのだ。蓄積したダメージを、そろそろ隠し切れないのだろう。
「……逃げただと……違う。神々は人間を見捨てたのだ。いつまでもうだつの上がらぬ、そして弱者の権利の上に居座り安心している、被害者面をした畜生共を見限ったのだ! 実力も無い! 意思も無い! のし上がろうという気概も無い!」
「『追放の日』の時代の人間にはそれがあった」
ぞくりと、オーディンの顔が青ざめた。
「だからお前らは怯えて芽を摘んだ。草しか食わないと思ってた動物が、獰猛な獣へと変わっていたから。お前らは怖くなったんだ」
預言者のこめかみに、一筋の汗が流れ落ちる。
「かつて分裂した人間と同じなんだよ、オーディン。お前らは、大切なものを、忘れたんだ」
「だ、黙れ……」
「前にヨツンヘイムで会ったとき、まだ目が曇っていて助かったな」
「黙れ!」
「しゃんとしてたら、きっとお前は——」
「黙れええええええええええええ!」
オーディンはグングニルを投擲した。青い鎧が力を増幅させ、槍は音速を越えて道化師へと到達する。必中の神槍。道化師はそれを無駄に避けようとはしない。どころかグングニルに向かって走り出すのだ。額に突き刺さった穂先は鈍く光る。壮絶な破壊力を持ったグングニルは道化師の上半身を丸ごと吹き飛ばした。木っ端微塵に、吹き飛ばした。慣性に従って走りだした足は止まらないが、やがてもつれ倒れ込む。雪の上を滑走しながら、輪切りになった腰から幾百の触手がグロテスクに跳ね回り、最速のスピードで再生した。ばしんと両手で地面を叩いて跳ね起きる。レーヴァテインを呼び戻し、オーディンの間合いに入った。
だが、オーディンの手元にはまだグングニルが戻ってこない。
白く輝く右手に粒子は集まり始めてはいるものの、実体化にはまだ一瞬間かかる。
「——揺らいだな」
時の隙間に、道化師アルフは到達した。
オーディンが目を剥く。
アルフは仮面の奥で歯を食いしばった。
レーヴァテインを両手で振り下ろす。
腕の隙間を縫ってオーディンの左手が侵入した。
仮面に左手が触れる。腕が黒く輝く。
レーヴァテインは————オーディンを真っ二つに引き裂いた。
頭頂から股まで、一刀両断。炎は傷口を燃やす。燃え移った覇剣の火炎はオーディンの体を一息に飲み込んだ。次の瞬間には皮は蒸発し肉は爛れた。両断されたオーディンは骨となり音も無く雪の上に倒れ込んだ。黒く炭化しかけた血液が、白い雪の上に醜く広がる。
触手は、生えてこなかった。
アルフの仮面が、ぱっくりと、真ん中から割れる。
預言者のそれと全く同じ顔が、息を荒げていた。
道化師アルフは、レーヴァテインの炎を消した。
「……ナルヴィの名は、返してもらう……」
粉粒ほどの炭へと化したオーディンに……いやナルヴィに向かって、アルフは呟いた。
旧友の形見、ナルヴィ・コピーの破壊。六百年の時を経て、アルフは、己との決着を着けることができた。
「お前もあいつと話せば、変われたはずなんだよ」
道化師の目の前に、紫色の歪な箱が現れる。その箱にレーヴァテインを刺し込んだ。見た目の容積とは裏腹に、巨大なレーヴァテインを軽く飲み込んでしまった。腸のようなグロテスクな鎖を繋ぐ南京錠を閉めると、箱は静かに消える。
「四百年前なら、まだ間に合ったんだ」
吹雪は更に強くなった。あっという間に、ナルヴィ・コピーの消し炭は見えなくなった。
「……俺もお前と会わなきゃこうなってたのかもな。ぞっとするぜ……」
ヨツンヘイムの街がある方角を、道化師は見上げた。
レーヴァテインの炎に飲まれた教会は、もう見えない。薄く黒い建物の影が、蜃気楼のようにつかみ所無く浮かぶだけだった。
「なあ、そう思うだろ、ラジゴール……」
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