第三五話。気付く者。

 ウインテル軍楽団が帝国首都エルズアリアに着く頃には、既に大軍勢が行軍を終えていた。首都を守る巨大な壁に沿うように、軍のものと思われるテントがかなりの数張られていた。旗を見れば、やはり大国のものはウインテル軍楽団団長ヘリオット・シュトラウドにもわかる。これほどまでの軍勢を、帝国はここ数年のうちに打ち負かしてきたのだ。敵とはいえ、祖国を蹂躙されたとはいえ、帝国指揮官の手腕は見事なものだ。帝国の指揮官とはつまり……帝王アルセウス・イエーガーなのだが。


 移動で日が暮れてしまうかと心配していたが、夕刻には着けたようで、楽団はほっと胸をなで下ろした。ヘリオットはてきぱきと指示を出し、簡易テントを空いている場所に張らせる。到着を告げるために手続きなどもあるだろうが、この時間から敵国の中を軍服で動き回るわけにもいかないだろうと思い、夜を越す支度を始めた。もう夜は随分と寒い。気を抜けば体を壊してしまう。特にこの大遠征で疲労が蓄積している。


「今日はしっかりと暖を取って、ゆっくりと休むんだ」


 壁一枚挟んで向こうは敵国。こんな状況で精神的な疲れは癒せないかもしれないが、体を休める必要はある。ヘリオットも軍服のボタンを外し、楽な恰好で組み立て椅子に腰掛けた。部下が暖かいコーヒーを持ってきてくれた。ありがとうと礼を言い、ちびちびと啜る。

 するとどこか見覚えのある軍服を着た軍人が、こちらに歩いてくる。もちろん帝国のものではない。


「……こんにちは。ラクエール警備隊隊長ヒルグレン・シーワウスと申します」

「ああ、ラクエールの方ですか」


 港町ラクエール。リリーがリライジニアに渡ったとされる港がある街だ。確かここまで来る道中でも途中から一緒になったはずだった。とは言っても、かなりの数の軍隊がいっぺんに合流してしまい、ほとんど声などかけれる状況じゃなかった。


「ウインテル軍楽団の……ヘリオットさんでよろしかったですか?」

「ええ、ええ。そうです。なぜ私の名を?」

「一度公演に来てくださったのを覚えています。そのとき確か、喇叭を吹いていらっしゃった」

「ああ、随分と昔のことを覚えていてくださって、恐縮です。どうぞ、堅苦しい言葉はよしてください」


 ヘリオットは近くにあった椅子を手早く組み立て、ヒルグレンに勧める。次いで部下に濃いコーヒーを持ってくるよう言った。

 ヒルグレンはよく日焼けをしていて、白い歯が目立つ感じの良い中年だった。遠征のせいか、髭の手入れこそされていないものの、女ならば誰もが振り返るだろう。


「今は指揮者をなさっているとか」

「はは、人員不足ですよ」


 ヘリオットは頭を掻きながら笑った。楽団の演奏を覚えてくれていただけではなく、現在の状況までも追いかけてくれている。エンターテイナーとしてこれほど嬉しいことはないだろう。最近ではタクトよりも剣を振ることが多かったのだ。久しぶりに自分が楽団員だということを自覚できて、ヘリオットは嬉しくなった。


「ところでヘリオットさん、お耳に及んでいるかもしれませんが、軍神ヨルムンガンドの話は聞いてらっしゃいますか?」

「ええ、それはもう。ここ帝都エルズアリアにいらっしゃると」


 ヘリオットの反応に、ヒルグレンは次の言葉を少し躊躇った。


「……そのヨルムンガンドについてなのですが…………ヘリオットさん、どう思いますか?」

「どう、と言いますと?」

「私は……すみませんヘリオットさん、私は正直、本当に噂ほどの実力があるのかどうか、疑わしいと思うのですよ……」


 ヘリオットが小首を傾げるのを見ると、ヒルグレンは慌てるように手を振る。


「いえ、いえ、疑わしいというだけで、断固否定する気は毛頭無いのです……というのも、その……一度、ヨルムンガンドは帝国に捕まっている」


 そうだ。確かにその通りだった。そのせいでヨルムンガンドの祖国ペルジャッカは、帝国に蹂躙されて見るも無惨な姿へと成り果てていたのだ。


「そして数年後、各地で帝国と戦っていたというあの噂ですが、確かに噂を追うと天下無双の活躍ではありますが、しかし凝り固まった戦場で新しい風が吹けば簡単に状況は傾きます。その偶然の躍進を盲目的に信じるのは、あまりにも早計過ぎる気はしませんか……? 加えてペルジャッカで軍師を務めていたという話。確かに帝王アルセウス・イエーガーと互角と言える強さを誇っていました。ですが、それもほんの数年……しかも極めつけには、『リリー・エピフィラム』という、女の名前ではありませんか。私にはどうにも怪しくて……」


 ヒルグレンの話はもっともだった。

 正確なことはわからないが、『軍神ヨルムンガンド』がペルジャッカ参謀の椅子に座っていた時間は、言われてみれば短い。『軍神ヨルムンガンド』という名が広まった直後に、帝国に捕まったとも言えるだろう。本名リリー・エピフィラムに関しては様々な憶測が飛び交っていた。幼い少女だという話もあれば、屈強な女だったという噂もあった。多様な功績を残してはいるが、それも全て噂。ヨルムンガンドはペルジャッカの軍隊しか使役せず、しかもペルジャッカは保守的国家だということもあり、当然といえば当然なのだが……


「大げさとも、言える……」


 ヘリオットの呟きに、ヒルグレンは神妙に頷いた。


「軍神の名の通り、神格化されている、と言っても良いでしょう」

「神格化」

「ええ。世界中の人間の大部分が盲目的に信じているノワル教。それと同じなのです。いえ、信じているというよりは……むしろ……疑い方を、知らない……。まるで彼女が、戯曲の主役のようだ」


 戯曲の主役、という言葉に、ヘリオットは強い同意を感じた。

 ヘリオットは、初めてヨルムンガンドと会ったときの感動を思い出した。

 半ばやけくそでリライジニアを目指して北上中、越えたい山道を山賊が根城としていた。そこで通りかかった少女が参謀を務めると言い放った。その言葉にヘリオットは従った。

 そう、盲目的に、信用したのだ。

 まるで、疑い方を、知らないかのように。

 信用するしないの選択肢は、頭に浮かびもしなかった。

 そして戦いが終わった頃に、自分がした愚かな行為に気がついたのだ。なぜこんな少女に軍を貸してしまったのだと。

 ヨルムンガンドはその後、一団に『死ぬな』と言い残し、消えた……


「軍神ヨルムンガンドは恐らく……帝国と結託している」

「な……!」

「ヨルムンガンドは、一度捕まった。そして今回、また帝国に捕まっている」


 ヘリオットの眉間に汗が伝った。

 そう、リリー・エピフィラムは帝国にとって、いわば天敵。世界唯一の対帝国抑止力と謳われた女なのだ。捕縛したならば即刻打ち首でも誰も疑問は抱かない。疑問は抱かないのだ。

 それならば、なぜ——


「未だ死んでいないことに、誰も疑問を抱かない……?」


 ヘリオットとヒルグレンは、同時に言った。

 ウインテル軍楽団団長ヘリオット・シュトラウトは目を見開き、一方ラクエール警備隊隊長ヒルグレンは神妙な顔で。


「リリー・エピフィラムという女……なにか変ではないでしょうか。跋扈する噂が、あまりにも大げさだ。明らかに実例と釣り合っていない」


 ヘリオットは頭の中が真っ白になっていた。未だリリー・エピフィラムが死刑になっていないことについて不思議に思っていないのが自分だけならば、まだ良かったのだ。自分が愚かだったというだけで済むのだ。しかし、違う。これは世界規模の話だった。世界中の人間が、愚かだという話だった。

 いつの間にか日が沈んでいた。コーヒーはとっくに冷めてしまっている。


「あ、あなたは、ヒルグレン殿はなぜ、それに気付けたのですか?」

「いえ、気付けたというよりは、私は、病的に無学だったのです。ここだけの話、私は捨て子で、拾ってくださった方々は、いわゆる逃亡奴隷でした。それで山での暮らしを強いられていた。それも家が二、三軒しかない、村とも言えないような場所です。そこで体も大きくなった頃、初めて人里というところに降りました。そこで初めて、軍神ヨルムンガンドのうわさ話を聞いたのです。滑稽な話だと、思いましたよ。そんな雲のような女性を、なぜこんなに信用しているのだろうかと——」


 ヒルグレンの背中に、ぞっとした寒気が走った。

 反射的に口をつぐみ、ヘリオットと同時にゆっくりと横を見る。

 茶色い厚手のローブを深く被った女が立っていた。フードの影で顔はよく見えないが、輪郭はよく整っていた。


「久しぶりね、ヘリオット・シュトラウド」


 冷たい夜の空気に凛と走る一声で、ヘリオットはこの女が誰なのかわかった。

 問いかけに答えることができないヘリオット・シュトラウドを鼻で笑い、女は話を途中でやめたヒルグレンの方を向く。


「面白そうな話をしていたわね」

「だ、誰だ……」

「人の名を尋ねるときは、自分から名乗るのが礼儀ではないかしら」

「……ひ、ヒルグ——」

「ヒルグレン・シーワウス。ラクエール警備隊隊長ヒルグレン・シーワウス。知っているわよ、そんなことくらい」


 驚愕するヒルグレンに見えるように、女はフードに手をかけた。

 そしてゆっくりと、ゆっくりと顔を出す。女の顔は、あまりにも美しかった。琥珀のような肌に黒髪が絹を滑るように流れる。微かに嘲笑するように吊り上がる唇は、夜に照らされ淡く光っている。プライドを体現した瞳は鋭くヒルグレンを見下し、にわかに吊り上がった目が、えも言われぬ扇情的な美しさを醸し出している。


「私の母親から、あなたのことは全部聞いている」

「誰なんだ……あ、あなたは……」

「リリー・エピフィラム」


 その名を聞いた途端にヒルグレンの顔が青ざめた。

 愚かなのは自分だったと後悔した。

 噂が本当なのかどうかなど、リリー・エピフィラムの存在が本物かどうかなど、そんな疑問は意味の無いものだった。

 そんな話を真面目にしていた自分を、呪い殺したくさえなっていた。

 無駄だった。

 蒙してしたのは自分だった。


「軍神……ヨルムンガンド……」


 ヒルグレンは椅子から落ち、無様に尻餅をついた。

 体面など、気にしている暇はない。そのぎらつく眼光から目が離れない。この世の美しさを全てかき集めた女の美しさに、最早呼吸すら忘れてしまっていた。


「貴公の愚問に答えてやろう」

 絶世の美女は、無表情で、言うのだった。

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