第三二話。追放の日。アルフ。

 フェンリルの体を、紫色に光る縄が縛り上げた。


 巨大なオオカミは四肢の自由を奪われて地面に倒れる。力を奪う特性を持つ縄が、フェンリルの命を吸い上げていった。薄れる意識の中で、近くにいた神の片腕を食いちぎるが、遂に、うなり声を上げる気力さえなくなってしまう。

 そして間もなく限界が来た。奇神の血を引いていることから、フェンリルもそれなりの再生能力を持っているとは思われるが、魂が破壊されるのを避け、遂に——肉体は、滅ぶのを選んだ。


 ペルット前に残るのは、ヨルムンガンドだけになってしまった。次々と敵を丸呑みにしていくが、天使たちの数が減る気配は一向になかった。オーディンは声を張り上げ指揮を取っている。幾千もの天使を飲み干し、幾十もの神々を喰らったが、波状の攻撃はヨルムンガンドを確実に消耗させていく。

 いくらなんでも、無茶が過ぎた。フェンリルが消えてしまった以上、攻撃の矛先はヨルムンガンドにしか向かない。ダメージが単純に二倍になったことで、ヨルムンガンドから溢れ出る血液が滝のように増えた。

 天空から見下ろすヨルムンガンドにはロキが敗走したのも、フェンリルが敗れたのも、全てが見えた。神の軍勢にペルジャッカが飲まれていくのも、ずっと見えていた。


 雷神が飛び上がるのも、見えた。

 鬼の剣幕で雷槌ミョルニルを振りかぶるトールは、山ほどあろうヨルムンガンドの頭蓋に向かって飛びかかったのだ。ヨルムンガンドは巨大な尻尾で雷神を叩き付けた。地が割れるほどの衝撃が、雷神の全身を打った。大地に墜落した雷神トールは、しかし、両の足で、しっかりと着地していた。そして間髪入れずに、第二撃。ヨルムンガンドは遂に反応できなかった。圧倒的な破壊力を持つ雷槌が目の前に迫る。最後の一撃と言わんばかりに毒液を噴射したが、雷神には当たらなかった。

 大蛇の頭蓋が、割れる。

 雷神は着地と同時に振り返った。ヨルムンガンドの最大の能力は、その半不死性。頭蓋を叩き割ったが雷神は武器を収めなかった。生き返らない可能性の方が、遥かに低い。

 だが、ヨルムンガンドは大量の毒液を撒き散らしながら、頭から溶けるように、消えてしまった。

 散布された毒の雨は神々を襲った。あろうことか、主神オーディンに降り掛かる。


「オーディン!」


 雷神トールは叫ぶ。父であるオーディンに、大蛇から分泌される猛毒が触れようとしていた。ミョルニルを投げようとするが、さすがに間に合わない。トールの頭上にも、毒液は撒かれているのだ。それを無視するわけにはいかなかった。

 数多の大天使たちがオーディンを守ろうと覆い被さるが、無駄だった。ヨルムンガンドの猛毒は、そんなものでは防ぎ切れなかった。大天使の体をみるみるうちに腐食させてしまい、遂にオーディンにまで……達した。



*



 ナルヴィは最後の人形、奇神ロキのものをプールに運び入れたところだった。

 工房から運びながら、これを置いたら一息つこうと思っていた。

 だが、ロキをはプールに運び入れた途端に、目の前の光景を疑った。

 ほとんどの人形が、動き出している。ぎぎぎと、不格好に、微動を始めていた。


「……! フェンリル!」


 兄の姿があった。人間の形状をしていた。右腕をぶるぶると震わせているだけだが、それが意味することはつまり……


「死んでる……」


 ナルヴィは力なく座り込んでしまった。兄であるフェンリルが死んだ。

 しかし、目の前で動いている。

 素直に悲しいとは、言えなかった。そうだ。魂が定着してしまえば、また会話ができるのだ。生前と同じく、また動き出すのだ。地上に這い上がり、神と戦うために。


「ナル……ヴィ……」


 と、耳元で声がした。

 運んでいた人形が囁いたのだ。

 運んでいた人形……つまり、奇神ロキの人形が。


「お父さん……」


 口がうまく動かないのだろう。がちがちと歯を鳴らしながら、ぎこちなく言葉を紡いでいる。


「よ、よく、聞け……ナ、ヴィ……。おれの、たまし、い……を、や、る、から……逃げ、のびろ……」


 そう言うとロキは震える左手をナルヴィの胸に当てる。手と胸の間に黄金色の光が輝き、ナルヴィの体を包み込んだ。一瞬、尋常じゃない眩しさを発したと思うと、みるみるうちに、くすんでしまった。


「お、お父さん……?」


 全く動かなくなってしまった奇神の体は重みを増し、やがてナルヴィは支えきれなくなる。ゆっくりと地面に降ろすと、ナルヴィの目から涙が一筋、流れ落ちた。

 理由は、よくわからない。

 またナルヴィが魂を戻せば、ロキは生き返るのだ。だから、悲しいはずがない。

 また父親と一緒に地上に上がり、色んないたずらをするのだ。

 だから、悲しいはずがない。

 自然とこぼれ落ちた涙に、ナルヴィ自身困惑しながら、ゆらりと立ち上がった。

 ロキの能力を継承したせいだろうか、体に力が満ちあふれていた。とにかく外の様子を見なければならない。人形がまともに動き始める頃にまた来ようと考え、ナルヴィは歩き出す。ここですぐに魂を返しても、ロキは喜ばないだろうと思ったのだ。

 何か理由があるはずだ。

 そう思い込み、ナルヴィは混乱したまま門をくぐる。


 そこには荒野があった。


 建築家マルセリアのアトリエに出てきたはずだった。

 砂漠だ。何もかもが枯れ果てた、岩の砂漠。風は埃に乗った虚しさを運んでいる。神々はまだ帰っていないようで、遠くでなにかの爆音と悲鳴が聞こえる。

 圧倒されたナルヴィの視界に、人影が見えた。


「……コピー……」


 ナルヴィ・コピーだった。赤いローブを乾燥した風にはためかせている。どこか、虚ろだ。あんな様子は見たことが無かった。完成してからずっと、ナルヴィはコピーと一緒に遊んでいたのだ。あんな、魂の抜けたような顔をしたことは、今までに無いはずだ。

 ぎぎぎと、ナルヴィ・コピーはナルヴィを見た。ぎこちない動きで。ぎこちない声で。


「なるほど、これ、は、ぼう、とく、だ……」


 よく見ると、ナルヴィ・コピーの横に、白い棒が突き刺さっている。神々しい光を放つそれに見覚えがあった。しかしそれをナルヴィ・コピーが持っているはずがない。

 神槍グングニルを、ナルヴィ・コピーが持っているはずがないのだ。

 その槍の穂先に。

 見覚えのある白い仮面。柄には、黒い礼服の端が、風にむなしくはためいている。

 父のものだ。奇神ロキの仮面に、奇神ロキの服。それらが、神槍グングニルの懐で、揺れている……


「き、き、きしん、のの、の……ま末裔、いぃぃ……」


 鉄の棒のように固い膝をみしみしと鳴らしながら、ナルヴィ・コピーは立ち上がった。そして神槍グングニルを引き抜き、投擲の構えを取る。


「……え」


 ひゅ、と空気が裂ける音が通過したと思うと、グングニルはプールの門に突き刺さった。柄に彫られたルーン文字が青白い光を上げて門を包み込む。金属を重ねて擦るような甲高い音が鳴り続ける。


「なに、して……」


 理解が追いつかないナルヴィをよそに、光はどんどん膨張していった。それに合わせて音も大きくなっていく。

 そして遂に、破裂する。グングニルごと光の粒子となり、辺りに飛び散った。


「ぐ、ぬ……、封印、が……」

 ナルヴィ・コピーは唸った。次の瞬間、糸が切れたように膝から倒れ伏した。が、今度は滑らかな動きで立ち上がる。


「……ナルヴィ」


 と、ナルヴィ・コピーは言った。


「どうしたの……?」

「ナルヴィ。僕の中に、オーディンが入ってしまった」

「な……!」


 ナルヴィ・コピーは両手を広げる。


「いつまで抵抗できるかわからない。僕をここで、魂ごと壊すんだ!」

「で、できるわけないだろ!」

「いいか、ナルヴィ! きみのお父さんは、! 殺されたんだ! それでも魂だけは確保して、次の戦に備えた! きみがそんなに甘くて、どうする!」


 ナルヴィは首を振る。状況が飲み込めなかった。


「い、いやだよ……いやだ! おまえはゼペットが! ぼくの友達って言って……」

「そんなこと言ってる場合じゃないんだよ、ナルヴィ! ぼくはオーディンなんだぞ!」

!」


 それでもナルヴィ・コピーは腕を下げなかった。


「……わかった。それができないんなら、せめて逃げろ。逃げ、逃げ……ろ」


 言い終える前に、がくがくとナルヴィ・コピーは震え出した。


「き、き、きみのおおお父さん、が……ヨツン、ヘイムに……逃がした、ひとたちが、いる、から……守ってあげ……て……」


 段々と、声が小さくなっていく。ナルヴィ・コピーは自らの中に這入りこんできた主神の魂と戦っていた。

 主神の力は強大だ。奇神の端くれとは言えど、まだ幼いナルヴィ・コピーの体では溢れてしまう。


「おねがい、ナルヴィ……ぼくが、オー、ディンに、なる、前、に……」

「おまえはオーディンじゃない! おまえはナルヴィだ! しっかりしろよ! おまえは、ナルヴィだ!」

「早、く……」


 掠れ声を発しながら、ナルヴィ・コピーは膝から崩れ落ちた。


「…………」


 ナルヴィは、顔を覆った。人形技師ゼペットがナルヴィのために創ってくれたコピー。それが魔王計画のサンプルであろうとなんであろうと、ナルヴィにそんなことは関係が無い。友人がナルヴィの友達を創ってくれた。ただそれだけだった。

 そのナルヴィ・コピーが、奇神の敵であり、そしてペルット人の敵である主神オーディンに、乗っ取られてしまった。


「う……」


 乾いた風が吹き荒れている。神々の蹂躙は止まない。まだペルット人の生き残りを探しているのだ。恐らくもうすぐペルジャッカを離れ、神の軍勢は世界中を荒し回るのだろう。

『能力者』を一人残らず殲滅するために。

 神々の権威を、再び不動のものとするために。

 また、人間を、殺して回るのだ。人間たちに芽生えた才能を、摘んで回るのだ。


「ううううぁぁぁあああああああああああああ!」


 ナルヴィは雄叫びを上げた。黒い液体が地から現れ、ナルヴィを包み込む。液体はナルヴィの体に張り付き、服となった。サイズのあった、黒い礼服。そして顔面には、表情を隠すような、仮面。口が裂けた歪な笑顔の、白い仮面。

 幼き奇神は立ち上がる。


「……おまえは壊せないよ、


 倒れ伏す『オーディン』を見下ろして呟いた。


「ぼくはまだ、そこまで強くない……」


 幼き奇神は父の言葉を思い出した。お前は逃げろと、ロキは言った。身に纏うその力で、お前は逃げろと。

 今なら理解ができた。

 父の意思が。そしてペルジャッカの意思が。

 人形技師ゼペットは、決して死ぬのがいやで人形を作ったのではない。

 むしろその逆だ。完全に死ぬために、ゼペットは人形を作り、マルセリアは不死の世界を作った。ずっと背負い続けてきた先代たちの心意気を果たし、何も考えずに死ぬことができるよう、魂を、保存したのだ。

 絶対に、神を殺せるように。

 命を賭して、可能性を紡いだ。

 ならば受け入れなければなるまい。

 彼らは死んだのだと。ゼペットもマルセリアも、そしてロキも、完全に死んだのだと。もう昔のようにはいかないのだと。

 遺された『魔王計画』を、己が完遂させなければならないのだと。

 そのために、自分は生かされたのだと、幼き奇神は、理解した。


「……ぼくがラグナロクの『始まりアルフ』なんだ」

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