第三一話。追放の日。元凶、その後。

「おいおいリリーさんよ、お前本当に魔人に勝てるとでも思ってんのか?」


 レイモンドはここ数日、同じ質問ばかりをリリーに投げかけていた。

 虹色の粘液が見せたペルットの記憶を、リリーが知らないとは思えない。レイモンドは地獄にいる怪物たちの力をわかっていて、その化け物たちの世界に乗り込む気がまるで知れなかった。

 これではまるで、自暴自棄だ。


「お前、レイラ・エピフィラムが人質に取られてるからって、帝王の言いなりになってるんじゃないだろうな」


 当のレイラは、あの虹色の日から体調を崩し、病室へと移された。まだ死なれるわけにはいかないのだろう。

 エイクがいないことがわかっているからか、レイモンドは容赦なくリリーの痛いところをついてくる。それも無理はない。まともにやって、エイクですらペルット人に勝てるとは思えなかった。


「地獄ってのはつまり、能力を溜めるプールなんだろ。でも納得いかねえのが、子どもが生まれねえんじゃあ、どうやって能力を濃縮するんだ? 殺し合いでもすんのか?……まあとにかくだ、あんな得体の知らねえ場所に得体の知らねえやつらが跋扈してるんだ。行きたくねえよ、俺は」

「あなたも帰還者でしょう。一度行って戻ってきてるのよ」

「それだよ。帰還者ってのは、どうやって能力をもらってきてるんだ。ぶっ倒してんのか? 話し合いなのか? 記憶が残らねえってのもわけがわからん……」


 ハッとした様子でレイモンドは顔を上げた。


「そういえばお前も帰還者だろ、リリー! ヨツンヘイムの教会に入ったこと、俺は忘れてねえぞ!」


 リリーの独房から、ため息が聞こえた。


「うるさいわよ、雨男」

「はぐらかしてんじゃねえぞ、このやろう。こんなに暇なんだ。ちょっとくらい教えろよな」

「もうすぐ忙しくなる」

「さっきからそればっかだぜ……。いったい何が起きるってんだよ」

「世界中の軍隊が、帝都エルズアリアに集まる」


 レイモンドは眉をしかめた。

 世界中の軍隊がここに集まって、いったい何をしでかすと言うのだろうか。

 少し考えたのち、レイモンドはにやりと笑う。


「ははーん。魔人を倒すための軍隊か? お前は帝王の命令を受けて地獄を攻略するわけか。なるほどなるほど……それでリリー・エピフィラムは、その軍隊を使って帝国を潰すわけか」


 リリーは、相変わらずよく頭の回るレイモンドに驚いた。レイモンド・ゴダールは口先だけではないのだ。時期さえ合えば、ペルジャッカの大学でもそれなりの成績を残していたのだろう。

 少なくともエイクといるよりは、話がスムーズに進む。


「でも、母親を犠牲にすることはできない」

「いい加減にしろよこのやろう!」


 レイモンドは立ち上がって鉄格子に掴み掛かる。リリーの独房に向かって罵声を浴びせた。


「てめえ今さら家族がどうこう言うつもりじゃあねえだろうな! 帝国に復讐するんだろうが! ここまで来て、今頃人間っぽくなってんじゃねえぞ!」

「母親よ」


 リリーの声には、一本の芯が通っていた。


「たった一人の、家族なの」

「言ってみただけさ」


 レイモンドはすぐに気を取り戻した。どうやら本当に演技だったらしい。

 家族の大切さは、レイモンドもわかっている。レイモンド・ゴダール自身、家族のためにここまで来ているのだから。

 リリーの答えなど、わかっていた。


「でも、なんだ、そのラグナロクってやつは、魔人を倒したら終わるのか」

「たぶんね。神に対するペルット人の謀反なんだから、魔人がいなくなれば、終わるはず」

「はずってお前……」


 今度はレイモンドがため息をつく。帝国に捕まってから、ずっとこんな調子だった。エイクは前にも増して口を開かなくなるし、リリーは夜な夜な兵士とどこかへと消え、それに日中も地に足がついていない感じがある。レイモンドはレイラ・エピフィラムが見せた映像を思い出し、謎を紡いで時間を潰すほかなかった。


 やはり、ヨツンヘイムでの計画の頓挫は大きかったのかもしれない。リリー・エピフィラムは平気な顔をしているが、思えば元からポーカーフェイスだ。内心、失敗に怯えているのか疑ってみても、否定はできないだろう。

 世界中の軍隊がぞくぞくと集まってくる中、レイモンドとエイクは、何もできずに過ごしていた。

 レイモンドが眠りに落ちようかというときに、牢獄の扉が開いた。帝王が、獅子エドガー・ライムシュタインと共に入ってくる。


「呼んだか、リリー・エピフィラム」

「ええ。ペルットの話の続きをしようと思って」


 がばりとレイモンドが勢いよく起き上がった。



*


 雷神は奇神を睨んでいる。

 奇神ロキは両手を広げる。その手のひらの間に、まがまがしい箱が現れた。黒く、どこまでも黒く、蜥蜴がのた打ち回る様を模したレリーフが刻まれた、グロテスクな装飾。箱の六角にはそれぞれ、眼球、唇、鼻、耳、舌、そして心臓が打ち込まれ、びくびく胎動していた。奇神ロキはこめかみに指で穴を開け、そこからずるずると、赤い筋で繋がれた九つの鍵を頭蓋から取り出した。そしてその鍵で、腸のような鎖を結ぶ南京錠に、一つずつ刺していく。鍵が開くたびに腸が炸裂し、赤黒い血が爆ぜた。その爆音が天空を覆い尽くす雷雲に巨大な穴を開けるが、しかし雷神の力でたちまち塞がってしまう。やがて奇神ロキがすべての鍵を開錠すると、醜怪な箱が紫色の光をあげ、その中から覇剣レーヴァテインが生まれた。


 奇神ロキはそれを手に取り、一振り。すると大地に裂け目が入り、天空が割れる。覇道の剣、レーヴァテイン。世界を焼き尽くす火炎の剣。奇神ロキが構えると、白刃は一息に燃え上がった。揺らめく炎は確実に刃の形となり、目の前の敵を灼熱の渦へ巻きこもうと燃え盛った。その熱は大地の表皮を剥がし、陽炎は歪みに歪み、奇神ロキの姿を醜悪に捻じ曲げた。さながら、げらげらと怒る悪魔のごとく。

 奇神の臨戦態勢に呼応するかのように、雷神の喉も打ち震える。使用者の魂の鼓動を感じ取った雷鎚ミョルニルは、一瞬間白銀の放電で視界をはく奪したかと思うと、雷が持つ熱量で真っ赤に染まり上がる。ばちばちと奔る雷は愛撫するように雷鎚ミョルニルを駆けずり回った。


「いくぞ、ロ――」


 奇神。奇神ロキは待たなかった。所詮は奇神。堂々と名乗る相手に花を持たせるような考えは、頭の隅にも入っていない。レーヴァテインが大気を切り裂く音は、戦場に鳴り響く大銅鑼のように聞こえた。雷神トールは稲妻のように走り、あっという間に奇神ロキの背後を取ってしまった。奇襲にも応じぬ雷神の魂の強さ。雷鎚ミョルニルの巨大な一撃が、奇神ロキの頭部を真横から襲う。


 襲うが、なんと奇神ロキはレーヴァテインを薙ぎ払い、自分の首を掻っ切った。吹き飛ばすべき対象を失ったミョルニルは、大きな空振りで雷神トールごと吹っ飛んでいく。奇神ロキは首が離れた体で、上に跳ねた自分の頭を捕まえ、傷口と傷口を叩きつけた。たったそれだけで、首が再び繋がってしまった。

 雷神は悪態をつく。「貴様、ふざけるな!」

「無茶言うな」奇神はレーヴァテインを振りかぶりながら雷神に迫った。「俺は奇神だ!」

 奇神ロキは、雷神トールの体にぴったりと張り付く。雷鎚ミョルニルの効果、それは投擲による必中。雷神トールが全身全霊を込めて投げるミョルニルは、確実に対象へと衝突する。そしてそのダメージはやはり、尋常なものではい。奇神ごときの防御力では、跡形すらも残らないであろう。


 一瞬の油断で、奇神の魂は破壊されてしまう。その緊張感の中、奇神ロキは間合いから離れることなく雷神へ追撃の手を緩めない。ここで退けば、この世界は滅びる。地上は神々によって砕かれてしまう。せめて雷神、最強と謳われる雷神トールだけは、刺し違えてでも殺す気でいた。

 しかし――


「雷鎚を掲げればいつものように手のひらを返すと思っていたが……」


 雷神トールはでたらめにミョルニルを振り回し、奇神ロキを振り払った。そしてその左手に、ばちりばちりと青白い稲妻が走る。稲妻はやがて小さな球体となって弾けると、青白い籠手と、青白い腰帯が現れた。

 それを見た奇神ロキは、あからさまに慄いた。雷神は今の今まで、まったく本来の実力を発揮していなかったのだ。


「籠手と、腰帯……」


 ロキが言い終えぬうちに、現れた武具は雷神トールの身体に装着された。その途端、雷鎚ミョルニルが先ほどにも増してスパークする。本当の力を解放する準備ができた神具は眩い光を放っている。


「いくぞ、奇神」


 そして、何が起きたのかもわからなかった。奇神ロキの体は、いつの間にか吹き飛んでいたのだ。

 左肩と頭以外を失った奇神は、自ら首を切断したときのように回復することができない。いや、しないのだ。もう一度立ち上がっても無駄なことは重々承知している。何しろ、何が起きたのかもわからなければ、対処のしようが無い。何度も何度も殺害されて、弱った挙句に魂までをも砕かれるのならば、そういう結末を迎えるくらいならば――


「良いか、雷神……人間はゴキブリのように這い上がる。貴様らがいくら滅ぼしても、彼らは必ず這い上がる。我が奇神の血統も、これくらいでは死に絶えぬ。必ず! ラグナロクを引き起こす!」

「無理だ。我々は、貴様ら奇神の一族も、この忌まわしきペルット族も、徹底的に滅却する。今までが甘かったのだ。かつての同胞とはいえ、いまや思想は天地の差。ここまで力をつける前に、早々に滅ぼすべきだった! 見えるか、奇神よ! ペルットの腐れ共が! 我が大天使たちの羽を剥ぎ熱した刃で喉笛を掻っ切っておる! この獰猛な野獣どもに! 仮にも神である貴様ら奇神の一族が、なぜ味方をするのか! 我々は理解ができん! ペルットは! ここで、いまこの場で! 根絶やしにしなければならぬ血脈だ!」

「言っただろう、ゴキブリのようだと! 良いか、世界は決してこの日を忘れん! 俺たち奇神も! ペルットも! そう簡単に絶やせると思っていたら大間違いだ! ラグナロクを先延ばしにするだけだ! いつか、いつか必ず……貴様らと同じ舞台に立てる者が再び現れる……」

「言いたいことはそれだけか!」

「主神に伝えろ。自分の墓は早めに作っておけとなあ!」


 雷神トールは、真の力を解放した雷鎚ミョルニルを掲げ、振りかぶった。


「くたばれ、奇神!」

開戦の魔笛ギャラルホルンは、必ず鳴るぞ!」


 振り下ろされた雷鎚はしかし、奇神ロキの魂を砕くには至らなかった。

 奇神は、どこかへと、消えてしまったのだ。

 雷神トールは辺りを見渡す。しかし奇神ロキは跡形も見当たらない。


「逃がしたか!」


 悪態をつく。感情のボルテージが上がったままだが、ぶつける相手が消えてしまった。血管を浮かせながら雷槌ミョルニルを掲げて、出鱈目に地面を叩き付けた。

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