第二四話。取引。

「伽藍洞があれだけぶち壊されたのは、収穫、、だったが」


 ヨツンヘイムを離れた道化師は、ペルジャッカ跡地に佇んでいた。

 その様子は、かつて虚ろな目で徘徊していた預言者の姿と重なる。


「遂にあんたが負けたよ、ゼペット」


 道化師は俯きながら呟いている。


「……だからこれで、『友達』ともお別れだ。あなたの作品を、壊すよ。木っ端みじんに、しっかりとな」



*



 帝王とヨルムンガンドが向き合って座っていた。ヨルムンガンドは腕を後ろで拘束されている。長い机を挟んで、ヨルムンガンドは帝王を睨みつけていた。ヨルムンガンドの後方には、獅子が立っていた。

 空気は張りつめていた。

 帝王アルセウスは机の上で手を組み、沈黙している。


「……取引の内容を、聞かせなさい」


 先に口を開いたのはリリーだった。

 帝王は獅子エドガーを呼び、机に置いてある資料を渡す。エドガーは資料をリリーの目の前に置き、後ろに下がった。

 リリーが視線を落として、紙の束の表紙を眺めた。


「それに見覚えはあるな」


 帝王は再び手を組み、リリーを睨む。一瞬の表情も見落とさないつもりでいた。


「……ラグナロクを、どうしようというの」


 その資料は、かつてエピフィラム家にあったものだった。

 リリーも読んだことがある。

 その資料には、ラグナロクについての概要が書かれていた。ラグナロクとは何なのか。それは神々と魔人が地上に降臨し、雌雄を決するために行われる大戦争のことだと記されている。天界では神の力が有利に働き、地獄では魔人の力が有利に働く。それならばと、戦う場所を地上に定めた。

 そしてその想像を絶する戦災によって、人間のほとんどが滅んでしまうと、書かれていた。

 神が降臨する方法は記されていなかったが、帰還者を生む『地獄の門』の本来の用途は、魔人が地上に這い上がるために設置されているのだとも書かれている。


 誰が作り出したのかはわからないが、恐らくそれも超常的な何かだろう。

 これが本ならば帝王は何も思わなかっただろう。ただのくだらないおとぎ話だと一蹴していたに違いない。

 だがこれはエピフィラム家にあったのだ。帝国の脅威となっていたペルジャッカの、軍師の家に。それも資料という形で、残されていた。

 それを看過できるほど、帝王は平和ぼけしていない。


「ラグナロクを止める」帝王は言い放った。「俺は世界を支配する。こんなところで、滅ぼされるわけにはいかん」

「……止める、って……。敵は……」


 リリーは驚いているようだった。帝王は神魔の戦争に介入しようとしているのだ。


「俺はお前なら何とかできると思っていたが」

「……! 神魔を相手にしろと……!?」

「お前も神の名を冠しているだろう、軍神ヨルムンガンド」

「そんな屁理屈で!」


 それはそうだ。軍神の名は、ただ大衆が呼び始めただけだ。リリーを世界蛇になぞらえて讃えただけであって、本物の軍神でもヨルムンガンドでもあるはずがない。


「だいたい、どうやって止めると言うの?」

「ペルジャッカの人間でもわからんのか」

「……神々が降臨する前に地獄の門を潰せれば……あるいは……」

「それだ!」


 未知の塊である『地獄の門』を潰すという発想には、帝王は至れなかった。同じく未知数だったリライジニアについては少なくとも対人間であり、微量ながら情報もあったために侵攻することに踏み切れたが、帰還兵士量産計画で怪物を生み出した『地獄の門』に触れることは、さすがに出来ない。


「だが何かまずいことにはならんのか?」

「……恐らく、刺激された魔人が門をくぐってくる」

「それでは……」


 それではだめなのだ。帝王が望むものは神魔を打ち倒すことではなく、人間の存続。ラグナロクによる全滅の阻止だ。

 魔人が地上に出てしまっては、意味が無い。

 だが帝王の心配など、リリーに伝わってはいなかった。

 軍神ヨルムンガンドは、考え込むように目を細めて、呟いた。


「それより先に……迅速に……地獄を攻略すれば……」


 アルセウスは目を剥いた。

 地獄を攻略すると言ったのだ。魔人の住む地獄を、人間の手で攻め落とすと。


「そんなことが……」

「……もちろん完璧な戦はできない。帰還者も必要だし、犠牲もたくさん出る。それを補う圧倒的数量の軍隊も必須になってしまう。どれだけ抱え込んでいるか知らないけれど、それでも恐らく帝国の軍隊だけじゃ、無理よ」


 帝王は震えていた。リリーの口から出てくる言葉の数々が信じられなかった。

 特殊能力を扱える帰還者は必要になるし、戦死者も多い。そしてそれをカバーできるような大量の軍隊が必要になる。そう言った。

 それはつまり、条件さえ揃えば地獄を落とせるということだ。

 リリー・エピフィラムの頭脳を再現するだけの力を与えれば、そんなことができてしまうということだ。

 軍神ヨルムンガンドは、帝王の予想を遥かに超えていた。


「兵士はこちらで用意する」


 帝王の手は震えていた。恐怖ではない。リリーを恐れているのではない。

 アルセウス・イエーガーは、感動していた。リリー・エピフィラムという存在に、心の底から感動していた。

 リリーには自信も余裕も無かった。ただ、『できるかもしれない』と言っただけだ。もしかすると、ラグナロクを止められるかもしれないと。それだけであるにも関わらず、帝王はリリーがそれを成し遂げてしまうだろうと確信した。

 リリーの言葉には、絶対的な魔力があった。

 いや、言葉ではない。もっと深い部分、恐らく魂というものに、魔的な魅力があるのだろう。

 監獄島アルカルソラズで帝王が感じたものを思い出した。あのときよりも、リリーは強く輝いていた。


「世界軍……」


 帝王は感動に震える声を絞り出した。


「我が帝国が統一した国々の軍隊を指揮する権利を、お前にしばらく預ける。足りないのならば帝国軍の一部も渡そう。それを使ってラグナロクを止めてみせろ」


 アルセウス・イエーガーはゆっくりと立ち上がった。巨大な窓から差し込む光が帝王の背中に張り付いた。


「神魔の戦争を回避した暁には、レイラ・エピフィラムを貴様の元へと帰してやる」

「世界、軍……」


 だがこれが軽率な判断ではないことに、リリーは気付いた。帝王が気が気でなくなっているのは確かだ。得体の知れない雷に打たれたように、冷静ではないのは確かだ。

 しかし帝王は帝王だった。世界のほとんどを侵略しつつある王が、軽はずみな考えでこんな決断を下す訳が無い。恐らく世界軍をリリーに引き渡すのはもうずっと前から考えていたことだろうとリリーは思った。


 帝国軍の指揮権はそのまま帝王が持つ。リリーに与えられるのは世界軍。反逆の可能性はレイラという人質で無くなってしまう。リリーが城に着いたときに、真っ先に帝王が会うのではなく、まず牢獄へと連れ行き、レイラと会わせようとしていたのもこのためだろう。リリーの反応を伺っていたのだ。それを見れば、レイラをどれだけ慕っていたのかはある程度は分かる。レイラを助けるためにどれくらいのことまでできるのかが分かる。


 なにもリリーに死ねと言っている訳ではないのだ。世界を救えばレイラを帰すというだけだ。失敗してしまえばラグナロクによって帝王もリリーも、そしてレイラも死んでしまう。リリーが地獄を滅することにデメリットは無い。逆に言えば、リリーがここで世界を救わなければ、全てが終わってしまうのだ。帝王だけではなく、リリーもレイラも、死んでしまう。

 リリーでなくとも、やるだろう。

 これは飲むしかない条件だ。


「……やらせてもらうわ」

「俺を暗殺などしてみろ。レイラの首は飛ぶ」

「暗殺なんてしないわ。正面きって、正々堂々と殺してやる」

「ラグナロクを終わらせれば、お前も自由の身だ。戦争をするのも面白い」

「あら、私を生かしてくれるの」

「それくらいの報酬はやらんとな」


 そこまで言うと帝王は部屋を出た。

 リリーも無言で席を立つ。獅子に監視されながら、帝王とは別の扉から出た。守衛に挟まれ、牢獄に向かった。

 軍神ヨルムンガンドは長い黒髪を垂らしていた。表情が読み取れない。次の敵のことを考えているのだろうか。魔人とどう戦えば良いのか、もう既に作戦を組み始めているのだろうか。

 世界軍。

 リリー・エピフィラムは力を取り戻した。それは確実にペルジャッカ全盛期を超えるものだ。軍神ヨルムンガンドの策に追いつける力であることに間違いは無い。

 一度滅ぼされた大蛇は遂に再び、巨大な蛇腹を手に入れた……

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