第二三話。帝都にて。
「この教会の壁には、ラジゴールの遺灰が混ざってるんだ」
ヨツンヘイム。
道化師は、吹雪く中、雲天を突き刺す教会を見上げていた。道化師に殺された兵士たちの遺体は、墓へと埋葬されていた。
その横に、司書マリア・ノアが佇んでいる。
「ラジゴール……」マリアは呟く。「どんな人だった?」
「鋭い目をした、魅力的な顔の男だったよ。野性的にも見えたし、知性的にも見えた。男からも女からも、子どもからも老人からも好かれていた」
「でもそれは……」
「ああ」道化師は頷いた。「そういうやつ、だったからだろうな。おかげで俺は、死に目に会えなかったが」
そして両手を肩幅に広げる。
「オーディンが完全に覚醒する前に、終わらせることは終わらせねーと」
その手のひらの間に、まがまがしい箱が現れた。黒く、どこまでも黒く、蜥蜴がのた打ち回る様を模したレリーフが刻まれた、グロテスクな装飾。箱の六角にはそれぞれ、眼球、唇、鼻、耳、舌、そして心臓が打ち込まれ、びくびく胎動していた。道化師はこめかみに指で穴を開け、そこからずるずると、赤い筋で繋がれた九つの鍵を頭蓋から取り出した。そしてその鍵で、腸のような鎖を結ぶ南京錠に、一つずつ刺していく。鍵が開くたびに腸が炸裂し、赤黒い血が爆ぜた。恐ろしい爆音が轟く。やがて道化師がすべての鍵を開錠すると、醜怪な箱が紫色の光をあげ、その中から覇剣レーヴァテインが生まれた。
道化師はその剣を手に取る。そして、軽く一振り。白銀の刃から灼熱の炎が吹き出した。驚愕の熱を発する剣の周囲、道化師を囲むようにして雪が一瞬にして気化した。
道化師アルフは覇剣レーヴァテインを構えた。教会の頂点に模された覇剣レーヴァテインには感じることができなかった、邪悪な圧力が道化師を包み込む。陽炎に揺らめく道化師の姿はまるで、げらげらと怒り狂う悪魔のようだった。
「ラジゴール。馬鹿みたいな時間がかかっちまったが……たぶん
道化師は覇剣を振り下ろした。
ヨツンヘイムの教会が獄炎に包まれた。
*
「陛下!」
執務室の扉が叩かれた。帝王アルセウスは、石盤から顔を上げた。
「入れ」
「は!」扉が開き、一人の家臣が一礼をして報告を始めた。「軍神ヨルムンガンドと思しき女と、従者二名を捕獲いたしました!」
「そうか!」
帝王が大きな声で喜んだ。まだラグナロクを止めるチャンスはある。リライジニア侵略を失敗してしまったが、ヨルムンガンドの知略があれば、今の戦力でも十分に神々や魔人と戦えるに違いない。
神々、そして魔人が敵ならば勝てるわけがないだろうが、違う。ラグナロクは神々と魔人の争いなのだ。人間はそれに巻き込まれるだけだ。それを回避することくらいならば、ヨルムンガンドならできるはずだ。
「しかし、様子が変なのです」
「……ヨルムンガンドが、か?」
「い、いえ……」
*
異様な光景だった。
エルズアリア城に着くと、エイクとレイモンドを先に降ろし、エドガーが二人を牢獄に連れて行った。
そこまでは、まだ良かった。
装甲車から降りたリリー・エピフィラムは手錠もしていない。何一つ拘束具が着けられていない。帝国の一軍隊を全滅させた戦犯の処遇ではないだろう。
さらに異様なのは、そのリリー・エピフィラムの周りに人間がいないのだ。軍人が、捕虜を囲んでいない。どころか道を開けるように、屈強な男たちの壁が割れていく。リリーに誰も、触ることができないようだった。
そしてそのままリリーはエルズアリア城にある牢獄ではなく本殿の方に進んで行った。
「帝王はどこだ」
リリーは城の者に聞いた。軍人たちは後方に立ちたじろいでいるが、それ以上近づこうとしない。
「王はどこだと言っている! 答えろ!」
城の家臣は腰が砕けたのか、へなへなと座り込んだ。恐怖で一気に老け込んだような顔をして、言葉が出ない口を開閉させる。震えながら執務室のほうを指差した。
かつかつと音を響かせながら進むリリーを、廊下にいる者は止めることができなかった。誰もリリーに近づけないのだ。鬼の剣幕で歩くリリーは遂に、執務室の扉を開ける。
急に這入って来た女に眉根を寄せたアルセウスに、リリーは言い放った。
「久しぶりだな、アルセウス・イエーガー!」
「リリー・エピフィラム……!」帝王は唸るような声で言った。「お前の行き先は、ひとまず別棟にある牢獄のはずだが」
「まず私の顔を見たいのはあなただと思ってね。ああそうそう、石細工は殺したわ」
「らしいな。アルカルソラズの件は、やはり許してはくれんか」
「許す!」リリーは唾を吐くように笑い飛ばした。「許す! あれを! 許す! 聞こう、イエーガー。貴様の血は何色だ!」
リリーの怒号に、執務室にいた家臣が怯んだ。出て行け、というリリーの命令に一も二も無く従い、腰を抜かしながら逃げていく。
「ヨルムンガンド。軍神の名に頼みたいことがある」
「頼む? いったい何のつもり? 今さら、この私に、頼み事だと! 二年間、激烈に醜い狂人たちに毎晩毎晩なにをされたと思っている! さあ、その下卑た口で叫んでみろ! アルセウス・イエーガー!」
リリーの剣幕には恐ろしいものがあった。
怒り狂う、という表現では到底足りない。寸でのところでわずかな理性が、怒りの洪水をせき止めていた。
「やはり無理だろうな」
帝王は、帝王だけは、リリーの前に怯まない。世界を統一せしめんとする王なのだ。リライジニアでは敗れたが、侵略戦では無敗を誇る。その帝国を、帝王という立場で統治するアルセウス・イエーガーが、小娘に萎縮してしまっては示しがつかない。
「頼みでは無理だろう」
王は、顔に皺を刻んだ。軍神ヨルムンガンド。リリー・エピフィラムを手中に取り込み、神魔の戦争から人間を守り抜くと誓っているのだ。統一する世界を壊されるわけにはいかないと、イエーガー家の血に誓っているのだ。
そのためならば、野望を果たすためならば、アルセウス・イエーガーは穢れることも厭わない。
「取引だ」
「ふざけ——」
「ヨルムンガンド。お前の姉、レイラ・エピフィラムを生きて返して欲しければ、俺に協力しろ」
人質という最悪の手段を使ってでも、リリー・エピフィラムを服従させる。
これが帝王の覚悟。ヨルムンガンドという爆弾の導線を引き抜く方策。このためだけに、レイラ・エピフィラムを生かし続けた。
リリーの目が見開かれた。生唾を飲み込む音が聞こえた。
「……レイラが……」
「ああ、生きている。牢獄にいる」
よろよろと後退した。膝が折れて、地に手をつく。レイラが生きているとは、思いもしなかったのか、リリーは言葉が出なかった。
帝国が侵攻した際に全滅したペルジャッカ。その捕虜の中に、レイラ・エピフィラムがいた。
「……レイラに、会わせて」リリーの声は震えていた。「無事なんでしょうね」
「一度痛めつけたが……なに、もう治る」
そう、と弱々しい声で呟いた。震える手で肩を抱いた。心の底から安心しているようだった。
「ヨルムンガンド。これは取引だ」
リリーは何も言わなかった。
「古代の神の名を与えられた軍神ヨルムンガンドよ。世界を喰らうというその力を俺の下で見せてみろ」
帝王は立ち上がり、踞るリリーの前まで歩く。後ろで手を組み、リリーを見下ろした。
「世界一の軍隊を用意する。それでラグナロクを止めてみせろ」
それを聞いてリリーは背中をぴくりと震わせた。おずおずと立つと、それには返事をせずに、執務室を後にした。ゆっくりと、来た道を戻っていく。足取りは覚束ないようだ。
壁に手をつきながら本殿を出ると、くつくつと、堪えたような笑い声が漏れた。
……リリー・エピフィラムは笑っていた。
息苦しくなるまで笑い続けると、長いため息をつく。一度、目を閉じた。
「世界一の軍隊……」
絞り出すような声で呟いた。広大な門前には、リリーを囲むように取り巻きがいた。だが長い黒髪のせいで、誰もリリーの表情を読み取れない。誰もリリーの声を聞き取れない。
「……エイク、ごめんなさい。やっぱりあなたには応えらえない。ようやく、ここまで来れたから……」
*
牢獄に来たエイクとレイモンドは間に一つの独房を挟み、一人ずつ部屋に放り込まれた。
憲兵が出て扉を閉めると、光は小さな四角い窓からしか入らない。暗く、そして冷たい空間だった。
「あなたがエイクと、そしてレイモンドね」
凛とした声が、青い石壁に響いた。
「……誰だ」声を発したのはレイモンドだった。「女の声だな」
「私はレイラ。レイラ・エピフィラム」
「エピフィラム!」今度はエイクが反応する。「リリーの、家族?」
「ええ、そうよ」
「今まで、捕まってたのか」
ふふ、とレイラは笑った。
「そうよ。ね、ところでレイモンドさん。復讐は果たせそうかしら?」
その声にレイモンドは眉根を寄せた。
「……なんで知ってたんだよ。お前、何者だ」
「知っている者よ。リリーにも同じ質問をして、同じ答えが返ってきたでしょう?」
それはおかしい、とレイモンドは目を鋭く尖らせた。
レイモンドの復讐については、百歩譲って知っていてもおかしくはない。
帝国軍によるフロミシタイト襲撃。その事実は隠すこともないだろう。
しかし、なぜリリーとの会話を知っている?
レイラ・エピフィラムの存在は、エイクもレイモンドも今初めて知ったのだ。リリー自身も、レイラが生きているとは知らないかもしれない。ならば交信は不可能なはずだ。レイモンドとの会話を手紙で送るなど、到底できるわけがない。
この女は、なぜ知っている?
「エイクさん。あなたのお母様は、残念ながら地獄から上がって来てはいないわ」
「え!」冷静に考え込むレイモンドに対して、エイクは素直に素っ頓狂な声を上げた。「知ってるのか?」
「言ったでしょう。私は知っている者。それこそリリーよりも。この世の誰よりも、知っているわ」
狂気じみた言葉だった。
「帰還者か、あんた」
「……そうね、レイモンドさん……尋ねたいのだけれど、エイクさんは帰還者?」
「……違う、な」
「じゃあ私も違うわ」
レイモンドはそれを聞いて黙り込んだ。何もかも知ることができる能力なのかと、馬鹿げたことを考えてしまったが、どうやら違うようだった。
そんなあり得ない力は、帰還者だって手に入れることはできないだろう。
それこそ、世界が崩壊してしまう。
「お前と話してると、不安になってくるよ」
「それは気のせいよ。きっと今までリリーと話していたせいね」
「……? それはどういう——」
レイモンドの詰問を遮るように、扉が開く音がした。ごごごと重い音を石の壁に響かせ、光のスリットが差し込んでくる。
かつん、という靴音を鳴らして入って来たのは、リリー・エピフィラムだった。獅子エドガー・ライムシュタインに連れられている。まずレイモンドの前を通り、そしてエイクの前を通過し、遂にレイラの独房まで着いた。
レイラは暗闇の中で俯き、しかし微笑んでいる。
「……リリーね」無い目を見上げ、リリーと顔を合わせる。「久しぶり」
リリーは口を押さえていた。エドガーは一瞥して引き返し、無言で牢獄の外に出た。エイクもレイモンドも、言葉を発することはなかった。
「……こういう場合……あなたを……」
リリーの声は震えていた。
ぎゅうと目を瞑って、食いしばる。ぶるぶると痙攣する喉を押さえ付けるように唾を嚥下しては、嗚咽を漏らし始めた。固く閉じられた瞼の端から、溜まりに溜まった涙が一筋、つうと流れた。
「あなたをなんと呼べば良いのか……わからない……」
リリーは鉄格子を握りしめて、泣きじゃくりながら崩れ落ちた。
「あなたの好きなように呼べば良いわ」
「……無事で良かった——」
レイラは独房の隅から腰を浮かし、リリーに近づいていった。まだ爪が再生していない左手でリリーの頬に触れた。右手で慈しむように、髪を優しく撫でた。
そしてリリーはレイラの左手に触った。
「——
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