第二二話。着岸。

「リリー。港には着けない」


 エイクは言った。

 リライジニアからの帰り、死海流域をレイモンドの能力で渡っている一行は、遂にエイクの目を使えば岸を視認できる距離まで来た。行きは六日の時間が掛かったものの、帰りはレイモンドが二度目だということとヨツンヘイム製の船ということも相まって、約半分の四日のスピードでここまで来ることができた。


 しかしレイモンドは矢張り体力に限界が近づいているようだ。明らかに口数が減っている。

 リリーの指示でラクエールにまで戻って来たは良いが、港に帝国の軍隊が駐屯しているのが見える。軍艦が見えないということは、上陸させない気はないらしい。


「ということは、捕縛か……」レイモンドは気怠そうに言う。「どうすんだよ。今さら進路を変えるか?」

「無駄でしょうね。おそらく中央大陸の北海岸線は全部がこんな状況でしょうし、だからと言って北西大陸に行くと途端に帝国本国に足を踏み入れることになる……」


 エイクは、じっと岸を見ている。

 レイモンドは座り込んだ。


「なんだ、帝国軍落としたの、バレてんのか?」

「道化師に、私が『広報活動』を頼んだのよ。恐らく預言者が来たときに道化師が少し遅れたのは、帝国軍船から敗戦を帝国に伝えるためになにかをしてたんでしょう。それから私たちが戦後処理をしてる間に、各大陸で噂が広まった」

「お前のせいかよ」


 レイモンドはため息をつきながら言う。エイクが目を下ろしてレイモンドを睨んだが、気付いていないようだった。


「作戦よ。雨男。そのままラクエールに進路を取って」

「はあ? 捕まるだろ! それとも俺とエイクに丸投げか!? エイクはどうだか知らねえが、俺に戦える体力なんて残ってない! 正面突破とは、策士が聞いて呆れるぜ!」

「正面突破なんて言ってない。捕まるのよ」


 リリーの言葉を聞いて、エイクとレイモンドは眉根を寄せて首を傾げ合った。


「予定が変わったのよ。ヨツンヘイムの軍で帝国を叩き潰すつもりだったけれど、もうそれも叶わない。だから、別の策で行く。はあ、準備しておいて良かった」

「捕まるだと? 待てよ、ちょっと待てよ!」

「うん」レイモンドの言葉に、エイクも頷いた。「リリーが捕まることない。俺がなんとかする」


 エイクの強気な言葉に、リリーは驚いたようだった。

 今までエイクは、リリーの言うことに従って来ただけだったはずだ。リリーに危害が及びそうならば自ら動く場合もあったが、リリーの言ったことに反対までしたのは、初めてかもしれない。

 やはりヨツンヘイムで明かされた真実は、エイクの心に巣食い、何かを変えているようだ。


「エイク……。お願い、これも必要なことなの。役者が一カ所に集まる必要があるのよ」


 役者……とエイクは呟き、黙り込んだ。

 リリーに考えがあるならばと思ったのだろう。

 レイモンドも制止を諦めたようだ。

 船の進路も速度もそのまま、帝国軍が待ち構えるラクエールに向かう。


「仕事の報酬は、払ってもらうぜ」レイモンドは船を進めながらリリーに言い放った。「牢屋にぶち込まれたって、無効にはならんからな」

「ええ。それにきっと、私よりも『全て』に詳しい人が、帝都エルズアリアの牢獄にいる。あなたが知りたいことは何でも知ってるはずよ」


 レイモンドはリリーを一瞥しただけだった。今までの手腕を見て、リリーが何の思惑も無しに帝国に捕まるわけがないと理解しているのだ。預言者によって、ヨツンヘイム軍を従えるという方策は挫かれたが、それでも大きく取り乱すことはなかった。

 ならばまだ何か、帝国と戦うための方法があるということだろう。

 本命なのかどうかはともかくとして、帝国を潰すことがリリーの目的なのだ。

 こんなところで旅が終わるわけがない。

 リリー・エピフィラムが、こんなところで終わるわけがない。


「あと、二人とも。帝国に捕まってしばらくは、私のことを、簡単に信用しないで」


 そして船を進めて、港も目測できるようになった。そこまで来ると、帝国軍が武器を構えているのがレイモンドの目にも見えた。リリーは表情を変えない。エイクも、黙り込んだままだ。

 何も指示は下されず、レイモンドは船を港に着ける。

 エイク、レイモンド両名が両手を上げて船を降りた。リリーがその一歩後ろを追う形になっていた。


 そこで、司令官らしき男が隊の中央に現れた。

 枝毛だらけのぼさぼさの金髪。獣のたてがみのようだ。その瞳には、野獣のごとき輝きが灯っていた。男は甲冑を着ていない。帝国の軍服を着てはいるが、腰の短剣以外に武器を持っていないように見える。

 その男を見たレイモンドの足が止まった。

 みるみるうちに目が血走っていく。歯を食いしばった。上げた両手は、わなわなと震えながら下がっていく。


 リリーはハッと気付き、何か声を張り上げようとするが、間に合わなかった。

 レイモンドの上体が沈み、ばねのように弾けて突然その男に向かって走り出した。低い声で盛大に唸りながら飛びかかる。隊の前列が銃を構えた。レイモンドは右手を降った。波止場で砕ける波が集まりうねり、レイモンドに纏わり付いた。銃隊の指揮官が発砲の命令を上げる。鉛玉が撃ち出される音が連続で轟いた。銃弾は水の衣に弾かれ破裂する。

 水の衣は銃弾を防ぐたびに弾ける。銃隊二列目が装填された銃を前列に渡す。前列がまた構える。だがレイモンドの方が速かった。圧倒的に速かった。水の衣がしなり始め、すぐさま銃隊を飲み込んだ。火が消され、使い物にならなくなる。

 そしてレイモンドは真っすぐに司令官に飛びかかった。


 凍り付いた記憶が溶け出す。

 戦火に沈んだ故郷フロミシタイト。首が折れた妹が突っ伏す血だまり。心臓に穴が空いた母親と、半ばちぎれた腹からだくだくと血をこぼし続ける父親。

 金髪。

 手入れが行き届いていない不潔な金色の髪。

 人間として大切ななにかが欠落した、不気味な瞳。

 拳は血に濡れていた。

 レイモンドは柱に、柱に叩き付けられていた。身長を刻んでいた柱。平和と、そして成長の証。家族の証明。

 金髪の男はそれを何なのか教えろと言った。

 答えられない。失禁していた。憎悪、恐怖、そして怒り。めちゃくちゃになった感情は、自分の体と心を縛り付けていた。

 すくんだ足を踏み出す勇気を。力を。

 力を、力を、力を。手に入れる。地獄にくだり手に入れてやる。

 こいつを殺す、力を——


「——エェェェドガァァァァァァァァァァァ!」


 レイモンドは咆哮を上げ、水を巻き上げて透明の剣を練り上げる。刺突用の形を取った剣を突き出し、司令官の頭蓋を狙った。

 司令官は顔色一つ変えずにその剣をかわした。


「……長身痩躯の長い茶髪。なるほど、お前が『雨男』か。本当にヨルムンガンドに吸収されていたとは」

「フロミシタイトを覚えてるか、エドガー・ライムシュタイン!」


 レイモンドは怒鳴りながら剣を引いて構え直した。

 その瞳にいつも理性は宿っていない。


「敬虔の街か。ああ、覚えている。もちろんだ。なるほど、私怨があると見えるが、フロミシタイトの生まれか、雨男」


 フロミシタイト。

 帝国によって侵略された、小さな国の名だった。緑が豊かで気候も暖かい。北西大陸の大陸桟橋の麓にあった。帝国は中央大陸進出の布陣を整えるために、そのフロミシタイトを侵略したのだった。

 フロミシタイトの民は、最初こそ抵抗したものの、やはり敵うはずもない。文学を重んじる国であったために、軍備は足りていなかった。ここが帝国の拠点になってしまえば学術国家であるペルジャッカにまで危害が及ぶことを憂い、負けるとわかっていても最後まで抗った。ペルジャッカの支援もあったものの、本来の力を発揮できなかった。そのとき既に、軍神ヨルムンガンドが帝国に囚われていたからだ。

 そしてレイモンドは、そのフロミシタイトで生き残った。生きている人間がいないわけではないが、捕虜になることもなく逃げ延びたのは、恐らくレイモンドだけだろう。

「エドガー・ライムシュタイン……獅子なんざ大層な名前もらいやがって……」

「身内を俺に殺されたか」

「ああそうだ! だからお前を殺してやる。単純で! わかりやすいだろ!」


 レイモンドは再び地を蹴り上げて獅子エドガー・ライムシュタインと立ち回る。

 水の剣は形を変えて、片刃のサーベルとなった。レイモンドが繰り出す斬撃を、エドガーはかわし続けた。目を大きく開き、刃から目を離さない。

 空気が裂ける音を聞き分けた。しばらくするとレイモンドが振るタイミングを読み始める。達人。この一言に尽きた。エドガーはいくつもの修羅場をくぐって来たようだ。斬撃を完全に読んだ。エドガーが一瞬で身を屈める。レイモンドの視界からエドガーが消えた。獅子はつむじ風を起こすかのように回転し、踵でレイモンドの肩を強振した。完璧なタイミングで打たれた打撃に耐えられるはずもなく、レイモンドは吹き飛んだ。


「手足を撃て!」


 エドガーの指示で銃隊がすかさず発砲する。レイモンドは立ち上がれない。今の蹴りの衝撃で、水は弾けてしまっている。水の衣は纏えない。無数の鉛玉がレイモンドの手足に突撃する。

 が、レイモンドには当たらなかった。

 横たわるレイモンドを、エイク・サルバドールが庇っていた。

 覆い被さるように、レイモンドを銃弾から守り切った。エイクの分厚い体に、鉛玉が突き刺さっている。


「……赤毛の男——」


 エドガー・ライムシュタインは予想だにしていなかった動きをしたエイクに驚いた。だが驚愕は更に続いた。

 エイクの体に空いた穴から、鉛玉がずるずると出て来たのだ。その穴から、何か、暗く赤い触手が少しだけ頭を覗かせ、すぐに引っ込み、穴を塞いだ。

 触手が弾を押し出し、そのまま傷を塞いでしまった。


「…………誰だ……」


 エドガーの額を冷や汗がつたった。エイクはエドガーを睨みつける。


「誰なんだ、お前!」


 獅子は吠えた。するとばきばきと音を立てて両腕が膨張していく。皮膚が限界を超えて裂けると、そこから黒い毛に覆われた、獣の腕が現れる。


「なんだ、あいつは……?」


 レイモンドは目を見開いて変貌を遂げるエドガーを見ていた。


「か、体が……まさか、エイク……お前と同じ……!」


 エイクも立ち上がった。

 エドガーの体は完全に獣のそれに成り果てていた。

 それも、尋常なものではない。鋭いかぎ爪が四肢に生え、獰猛な筋肉が全身をしならせている。犬のような、凶悪な獣の首が三つ生え、全てがエイク・サルバドールを睨んでいた。

 裂けた口からは涎が垂れている。その唾液も明らかに普通ではなかった。粘り気のある液体が地面に触れると、何かが焼けるにおいがした。


「赤毛……」


 獣は地鳴りのような声で唸った。


「何者だ、お前……」


 立ち上がろうとするレイモンドをエイクが制止した。レイモンドは死海流域を渡る間、ずっと能力を使っていた。明らかに万全の状態ではない。いつもの冷静なレイモンドならば、こんなことをするはずがない。精神的にも肉体的にも、レイモンドの限界は近いのだ。エイクはそれを慮り、レイモンドとエドガーの衝突を止めようとしている。


「石細工に……アーノルド・コーウェンに、帰還兵士と、言われた」


 それを聞いて獅子の顔は歪んだ。

 やはり、という気持ちと、どうして、という気持ちが混ざっているようだ。


「……お前もそうなのか、獅子」

「……おとなしくしろ、赤毛の男」

「するよ。リリーがそう言うんだ」

「……雨男も矛先を収めろ」


 三つ首の獣はレイモンドに視線を移した。怒りと、驚愕がないまぜになった顔をしていた。


「レイモンド」


 エイクはレイモンドを制した。レイモンドとて、今が万全の状態ではないことくらいは感じている。だがずっと追って来たものを前にして、そんなことなど考慮に入れることができない。そのことについてはエイクもよくわかっている。しかしここで戦っても敗北は目に見えていた。リリーの策に頼り、ここは怒りを抑えつけるのが、一番良い方策だろう。


「……あいつは絶対殺す」


 レイモンドは唸り、目を閉じた。

 軍人が手際よくレイモンドとエイクの手を縛った。

 リリーにも詰め寄るが、なかなか縛ろうとしない。リリーがその者たちを強くきつく睨んでいた。その目にたじろいでいるのだ。


「リリーは、良いだろ!」


 エイクは食って掛かった。


「暴れたりしない! それは、俺たちがやる仕事だから、リリーは暴れたり、しない!」

「ですって」


 リリーは軍人たちに言った。


「そうしろ」


 エドガーも頷き、リリーを解放させる。


「そもそもこいつらに、拘束の意味など無いだろう」


 そしてリリーたちは帝国の国旗が立っている装甲車に乗せられた。

 港にいたラクエール人らは、装甲車をゆっくりと追いかける。市井の民は、何かが、大きく動く予感がしていた。あの黒髪の娘が本当に軍神ヨルムンガンドならば、すぐにでも波乱が起きる。そう感じていた。

 あの目に睨まれ、あの声で命令されたのなら、きっと拒むことはできないだろうと、軍神ヨルムンガンドを認めていた。

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