第四章。償いの烽火。
第二一話。煙立つ。
牢獄の中でレイラ・エピフィラムは、虹色の涙を流していた。
*
道化師は、ある男の心臓からナイフを抜き取った。
経った今、雷を放つヨツンヘイム軍人を殺したところだった。
預言者の襲撃で生き延びたヨツンヘイム軍人は、わずか二七人のみ。教会を埋め尽くすほどいた軍人たちの中、生き残ったのはこれだけだ。帝国を圧倒したヨツンヘイム軍も、預言者には全く歯が立たなかった。
道化師はその生き残りを教会の外に集めて並べた。
そして道化師アルフは、端から順に、ヨツンヘイムの軍人の生き残りを殺していった。
急所を一突き、次々と息の根を止められる者たちは、一切の抵抗の意思を見せない。どころか、血まみれの道化師を頼もしく見つめ、なにかを託す様子だった。
「……まったく恐れ入るぜ、あんたらの根性には」
道化師は苦しそうな声でつぶやいた。
最後の軍人を殺した後に大きな大きなため息をつく。
「せめて、どうか俺とエイク・サルバドールにすべてを任せて、安心して休んでくれ。これで、この時代で……あんたらの呪いはおしまいにしてやるからな」
*
まだリリーたちが死海流域を渡りきっていない頃、中央大陸及び北西大陸には激震が走っていた。
帝国軍の全滅の噂が、大陸の端から端まで広まっていたのだ。噂を流したのが誰の仕業であるかは定かではないが、
そしてそこにいたのが、かの智将、軍神ヨルムンガンドというのだから。
やがて噂は噂を吸収して巨大になっていく。数年前から、大陸各地でヨルムンガンドと名乗る女が、赤毛の男を連れて放浪していたらしい。そして足跡を辿るとここ最近、無軌道な動きが一変して南から北へと一直線に向かい始めたと言う。また、この数ヶ月の間、戦場荒らしである
細かいディテールは、個人によって変化が止まらないが、おおまかな骨格はそのようなものだった。
そして帝都エルズアリアでも、その噂は蠢いていた。
伝書鳥が敗戦を伝える手紙を持って、エルズアリア城に飛んで来た。それを知った者が、気が動転したのだろうか、酒場で酔った勢いで城下の知人に耳打ちしてしまう。それを盗み聞きした隣の男が、フリーの記者に情報を売る。そしてアンダーグラウンドな情報誌によってその事実が拡散され、あっという間に城下町の話題はそれで持ち切りになってしまった。
なにしろ、アルセウスが王座に着いてからの初めての敗戦なのだ。
悪気の有る無しに関わらず、話題にならないはずがない。
そして執務室でアルセウスは頭を抱えていた。ここまで順調だった進軍が、阻まれた。しかもヨルムンガンドによって。『まだ捕縛する必要は無い』と野放しにしてしまったリリー・エピフィラムの手によって、帝国軍が敗れてしまった。
リリー・エピフィラムが北上しているという噂はあった、だが帝王はそこで、ヨルムンガンドはそこから進路を西に取り、ここ帝都エルズアリアに向かってくるものだと思っていたのだ。
まさか、まさか帝国の軍艦でも渡り切れなかった死海流域を突破するとは思わなかった。考えも、しなかったのだ。
しかし、問題は他にもある。
なぜ、ヨルムンガンドは帝国がリライジニアに攻め入ることを知っていたのだろうか。ただの偶然にしては、タイミングがかみ合い過ぎている。リリーが北上しているという噂を聞いたのと、帝国の船がリライジニアにもうすぐ着くという報告を受けたのは、ほぼ同時だった。リリーは確実に、帝国のリライジニア侵攻を知っていて、合わせたのだ。
どこかに密告者がいるのだろうか。リリーと繋がっているものが?
いや、それよりも可能性が高いものがある。道化師だ。道化師が恐らく探りを入れていた。リリーと帝都までは距離がある。リライジニア到着予告の手紙が来てから、恐らくは港町ラクエールから海路を取ったであろうリリーのところまで連絡を寄越すことは不可能に近い。
ならば矢張り、道化師がリリー・エピフィラムと繋がっていたと推測するのが正しいのではないだろうか。ではこの前の対談も、リリーの差し金か? だがヨルムンガンドにとって有益な情報を聞き出そうとしている風には見えなかった。二、三、質問をするとは言っていたが、結局何も尋ねずに消えてしまった。スパイならば、なによりも先に情報で釣って質問を先にすることもできたはずだ。
わからない、と帝王は唸る。
ここにきて、世界の何か大きな部分が、自分の与り知らぬところで大きく動いているような気がした。ヨルムンガンドも道化師もそうだが、今さら浮き彫りになったヨルムンガンドと共に行動しているという雨男と、そして『赤毛の男』。更にラグナロクまでもが、何か知らぬ間に近づいているような気がしてしまうのだ。
自分が、物語の中にいないような感覚。自分の影響力というものが、思っていたよりも小さかったような感覚。底知れぬ不安が、帝王の心に巣食っていた。
「いったい、何だと言うのだ。何が起きている……」
帝王がまとめられた資料を渋い顔でめくっていると、大慌ての家臣が執務の扉を強くノックした。入れ、と告げると、勢いよく扉を開く。
「へ、陛下! やはりヨルムンガンドはラクエールから出航したようです! 酒場に道化師が現れて、男二人と女一人の怪しげな三人組と話していたとの報告が!」
帝王はため息を吐いた。
「やはりそうか……守衛は何をしていたんだ。良いか、中央大陸の北海岸の街全てに厳戒態勢を敷け。ヨルムンガンドは必ず戻ってくる。三人全て、殺さず捕らえろ。それと獅子をここに呼んでこい」
家臣は命を受け、執務室を後にした。
帝王は歯ぎしりをする。リリー・エピフィラムはラクエールから出航した。それはどうでも良いどこから海に出ようと、死海流域を渡るには中央大陸の北海岸から出なければならない。北西大陸の海岸は帝国本土にかなり近い。死海流域を渡る距離が長くなることもあるから、さすがにここに来ることは無いだろう。中央大陸の北海岸の街は、全て帝国が侵略済みだ。どこから出ようと、守衛の怠慢であるには違いないが、帝王自身も油断し過ぎた。
自責の念をいくら積んでも今は意味が無い。問題は、道化師だ。
「やはりあの男、ヨルムンガンドと繋がっていたか……!」
だがどこで漏れた? 誰かが道化師に告げたか? それとも道化師自ら調べ上げたというのか?
わからない、と帝王は唸った。
「……これは、前にも無かったか?」
この疑心暗鬼に陥る感覚を、前にも覚えた。最近と言うほどでもないかもしれないが、昔と言うこともない。さて、何のことだったか。帝王は必死に思い出そうとした。どこから漏れたのか、わからない。知られていないはずの情報が、なぜか知られている。さも当然のように……?
帝王は眉間にシワを寄せながら、手持ち無沙汰で資料をめくった。リリー・エピフィラムの噂をまとめた頁だった。一番昔の目撃情報は、監獄島アルカルソラズ崩壊から約一年後のものだった。
「リリー・エピフィラム……」帝王は顎を撫でる。「エピフィラム……」
そうだ、と帝王は目を見開いた。
「レイラ・エピフィラムだ!」
レイラ・エピフィラムと話したときに、同じ感情を抱いたのだった。なぜお前がそれを知っているのだと。確かレイラ・エピフィラムは、帝王がラグナロクを阻止しようとしていることを知っていた。そうだ、漏れるはずが無い情報を、レイラが知っていたのだ。
そのタイミングで、執務室のドアが鳴る。「陛下」と獅子の声がした。帝王は入れと告げる。
「獅子エドガー・ライムシュタイン」
「はい」
「至急、中央大陸北海岸に迎え。とりあえずはラクエールで待機だ。ヨルムンガンド上陸の噂が入り次第そこへ行き、やつらを捕らえろ」
「ヨルムンガンドを」
「そうだ。雨男と例の『赤毛の男』がいるかもしれん。理想は全員の捕縛だが……やむを得んときはその二人は殺して良い。とにかく、何としてでもヨルムンガンドを生け捕りにしろ」
「かしこまりました」
獅子はそれだけを言うと、執務室を後にする。
帝王はそれを見送ってから、資料をまとめ始めた。関連資料を重ねていくつかの山を作ったところで、立ち上がる。執務室を出て、牢獄へと向かった。
かつかつと靴音を鳴らし、大理石の間を出る。そのまま真っすぐ、別棟へと這入り、門番の者と一言二言交わして、牢獄の中へと這入った。
「レイラ・エピフィラム」
帝王の声が、石の壁に反響する。レイラ・エピフィラムはまたもや独房の隅に寄っている。暗い影のせいで顔は見えない。どうせまた、俯いているのだ。
「なにかしら、王様さん。なんだか苛立っている様子だけれど……リライジニア戦が、うまくいかなかったせいかしら?」
まただ。なぜレイラが知っている。ずっと、この牢獄の中にいたはずだ。噂が回ってくる隙間があると言うのだろうか。守衛の話を盗み聞いたという線ももちろんあるが……
「お前、なぜそこまで我々の情報に精通している」
「時が来たら、教えてあげる」
「……お前、道化師と繋がっているか? あいつならば、容易くここまで忍び込めるだろう」
「さあ」
レイラはあくまで明確な答えを言わないようだった。イエスともノーとも言わず、帝王の疑問を右から左へと受け流している。
だが帝王はそれに流されなかったようだ。
「答えろ。貴様、何者だ」
「知っている者よ」
「あまり俺を怒らせるな」
「あら怖い。拷問でもしてみる?」
それが無駄なのは、前回の件で知っている。レイラの口は狂気的にまで閉ざされている。並の人間ができる技ではないだろう。それならば、何か大きな理由があるのだ。自分の身を削ってで秘密を貫かなければならない理由が。
「お前の妹を捕らえる」
「妹?……ああ、リリーね。リリーって言ってもらえないかしら。わからなくなるじゃない」
「……わからなく? ちょっと待て! お前、エピフィラム家の人間じゃあないのか?」
「いいえ、私はエピフィラム家の人間よ。清廉潔白な、純血のエピフィラム」
帝王が怪訝な顔をする。
「ヨルムンガンドがエピフィラムの人間ではないということか?」
「いいえ。リリーは私と同じ、純血のエピフィラム。それは、私が保証する」
では、さっきのはいったい何だ? 妹ではわからなくなるというのは、どういうことだ? 帝王の頭が混乱していく。レイラが何を言っているのかがわからない。レイラと一緒に捕らえたエピフィラムの男が、リリーのこともレイラのことも『俺の娘』と言っていたのは間違いない。ということはリリーとレイラは姉妹ということだろう。そして明らかにレイラの方が年上だ。ならばリリーが妹で、レイラが姉になるはずではないのか?
むしろそこから、違うのか?
エピフィラム家というのは、血縁のことを示す言葉ではないのか? 何か他の要因によって強く繋がった一団のことを言うのだろうか? ならば純血のエピフィラムとは、いったいどういう意味だ? いや単純に、レイラとリリーの歳の差を考えて、異母姉妹という可能性はおおいにあり得る。レイラがリリーのことを単に妹として認めていないだけなのだろうか?
そんな簡単な話が、あるか? しかもそれでは純血とは言えないだろう……
「発掘はあの石盤が出てからは行っていないようね。ペルット文明を紐解くのは辞めたのかしら?」
「……まただ」
また、この女が知らないはずのことを知っている。いったいどういうことだ。石盤? これこそ知れるはずがない。普通の兵士に石盤の話などしない。石盤のことを知っているのは、それこそ獅子と帝王、そして解読を頼んだ博士……あとは発掘品の管理を任している数名の家臣……。石盤のことを隠しているわけではない。隠す必要も無いほど不可解なものなのだ。今の時点で、あれが大切なものだとは到底言えない。ならば『秘密』としても機能していない。
噂話で耳にすることなど、あり得るはずがないのだ。
もちろんこの牢獄の守衛ですら、石盤のことなど微塵も知らぬだろう。この情報が、レイラに届く意味は無いはずだ……
「……レイラ・エピフィラム……」
帝王は思わず後ずさってしまった。いま目の前にいる女が、普通の人間だとは思えなくなってしまっている。最早密偵がどこかにいるという可能性も、ほとんど残っていない。ならばなぜ——
ならばなぜ——この女は何でも知っているのだ。
「何者だ、貴様……」
「だから言っているじゃない。知っている者だと」
レイラは帝王の首筋を舐めるような、粘つきのある声で言った。
「……道化師とのお話が途中で終わっちゃったようだから、私が代わりに、少しだけ教えてあげる」
「……っ!」
道化師との面会のことまで、レイラの耳に及んでいた。
「あの石盤に描かれている『仮面の男』は、道化師ではないわ」
「……じゃあ、あの仮面の男は誰なんだ」
「奇神」レイラはもったいぶること無く言ってしまう。「奇神ロキ。新約神話に記された『奇醜なる神』。ペルット文明が滅んだ『追放の日』に、ペルット人に味方した、奇神一族の長よ」
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