第二十話。終わる島。

 ヨツンヘイムの街では、壮大な葬儀が行われた。戦死者はあの教会にいた帰還者の九割。リリーの予想通り、もうヨツンヘイム軍は完膚無きまで崩壊した。

 街にある窓という窓に、黒いカーテンが掛けられた。喪に服すという意味があるらしい。ミリアル教では、黒という色は神聖なものとして扱われていた。運命に抗う戦士の色だと讃えられることもあれば、友を想う濁り無き色だと言われることもある。

 雪に沈んだ真白い街に浮かぶ黒い布は、なぜか悲しみを風景に浮かび上がらせた。

 その中でも、レイモンドがいるこの図書館は、まだ良いほうだった。唯一の司書であるマリアには軍人になった身内がいないため、マリア・ノアの顔に刻まれる悲しみの色も他に比べるならば薄かった。


「どういうことだよ」


 レイモンドは机に聖書を広げて震えている。


「まったく違うことが書かれてるじゃねえか……! 同じなのはたった二行目まで! これが本当の神話だと……?」


 旧約神話と、新約神話を見比べているのだ。

 確かに神を謳った神話であるにも関わらず、同じ部分と言えば、たった二行目まで。

 創造神オズが、生き物好きだという描写までだった。そのあとからは、全くと言っていいほど内容が違う。

 新約では、オズは同胞を呼び、人を作ったと記されているが、旧約の方では『同胞』の文字が無い。


「オーディンとか、トールとか……オズ以外の『神』が旧約の方では出てこない……。『才有る者』? 『才無き者』? 何の話だ……?」


 レイモンドはとにかく、思いついたことを紙に書きなぐっていた。そろそろこの大陸を出て、中央大陸へと帰るのだ。屈強な軍隊を従えて持って帰るつもりが、手ぶらになってしまった。ここにこれ以上いても無駄だと、リリーは判断したのだろう。

 戦後処理に走り回ったレイモンドは、ろくに調べものができていなかった。

 だからこうして焦って、とにかくできるだけの情報を持って帰ろうと汗を流しているのだった。


「どういうことだ。『新たなる世界を造る力』? なんだその出鱈目は……スケールが違いすぎるぜ……。一つの民族が世界を統一……ってこれまたおかしい話が出てきやがった。なになに、気高き魂……」

 ぴくりとペンが止まった。何か思いつきそうな気がしたのだろう。眉を顰めて、もう一度読み直す。


「気高き……——」

「雨男!」


 と、図書館の外でリリーの声が聞こえた。もう出発の時間らしい。


「ああ、くそ! 聖書、もらっていいか?」

「持ち出しは禁止なんです」マリアは困った顔をした。「中央大陸で旧約神話が広まると、困るらしいので」

「ああ、そうだろうな。教会は大悲鳴だ! こんな全く違う話が載ってるなんざ、連中論外だろうぜ。くそ、くそ、急げ急げ……」


 レイモンドはペンを再び動かし、旧約と新約の間にある相違点を紙に書き込んでいった。


 エイクは船の用意をしていた。強靭な船だ。荒波と、レイモンドの能力に耐えきれるようなものでなくてはならない。

 エイクは欠陥が無いことを確認しながら、船内を歩き回っていた。さほど大きい船ではないが、それでも三人で乗るには十分過ぎる広さがある。


「どうやら自分の生まれがどこか、わかったらしいな」


 道化師は甲板の上で海を見ながらエイクと話していた。


「聞いたよ。母親がもし生きていたとしても、俺のことを覚えてないっていうのも、聞いた。俺は地獄で、生まれたんだ。……なんで、言ってくれなかったんだよ」


 エイクはちらりと道化師の方を見た。『伽藍洞の小僧』と呼ぶからには、エイクが何者かもわかっていたはずなのだ。

 道化師は、絵本作家のトム・バスが死んで途方に暮れているエイクを、ここぞとばかりに拾って育てた。まるでそれを狙っていたかのような手際の良さだった。トムと一緒に暮らしていた頃の穏やかな生活とは正反対だったが、それでも道化師はエイクを育ててくれたのだ。エイクはそれについては感謝している。願わくばこの恩を返せればとも思っている。

 だがそこまで一緒にいて、なぜ言ってくれなかったのだろうか。


「……ラジゴールという男がいてな」道化師は珍しく、言葉を選びながら話しているようだった。「そいつは自分のことを『ラジゴールだ』としか言わなかった。生まれも、家柄も、何も言わない。『俺はラジゴールだ』としか言わない。最期のときさ。俺に身の上を明かしたのは。それを聞いたときには、震えたね。心の底から、震えた。そいつがいるから、俺は今こうやってるのさ。そいつが俺の心を揺さぶったんだ」


 エイクはラジゴールという男についての知識は無かったが、追求はしなかった。朧げな記憶ながら、預言者の口からも同様の名がこぼれていたことも、覚えている。ラグナロク、という単語についても聞きたかった。だがエイクはそれをしなかった。今は道化師の話を静かに聞くべきだと、思ったのだ。

 道化師はくるりと回り、エイクの顔を見る。


「お前にもそういうのが必要だと思った。別にどんな話でも良かったさ。お前の心を揺さぶれるなら、何でも良かった。それがたまたま過去の話なだけだ。どうだ、鏡を見てみろ。今のお前は、強そうな顔をしてる」


 エイクは目を丸くした。道化師がこうやってエイクのことを評価したのは初めてだろう。


「本当はもっと、巨大な敵に負けそうなときにネタバレするのが良かったんだがな。まあ、良い。マリアのせいでヨルムンガンドちゃんも気が気じゃなかったんだろ」

「俺は、全然、乗り越えてないよ」

「簡単に克服できる話じゃ心は動かんさ。今は平気なフリをしとけ。大丈夫、お前の心は頑丈だ。土壇場になるとわかる。こういう精神論っていうのが、どれだけ大事か、ってな」


 とん、と額を指で軽く押して、道化師は煙となって消えた。


 レイモンドが出てくると、リリーは先に船へ向かうように指示し、自分は逆に図書館へと入っていった。

 レイモンドが行くのを確認すると、扉を閉めて、鍵まで閉めた。

 マリアはにこにこと笑っている。


「……確かに私はエイクのことが好きかもしれない。そこそこ長い時間、一緒に旅もしているし。エイクのことは、わ、わかってる……」


 リリーはマリアのことを睨んでいた。きつく、きつく睨んでいた。目は血走っている。歯も食いしばっていた。鼻息まで荒い。おおよそ人間ができる怒りの表情を全て出し切ってしまった上で、顔は真っ赤だった。


「ていうか、好きじゃないですか、もう。前に聞きましたよ」

「喪中に申し訳ないけれど、私はエイクのことが好きかもしれない」

「いや、だから」

「でも、私は死ぬのよ」


 マリアの表情が固くなった。いや、そのことは知っているのだ。道化師から、聞いている。だが、本人の口からその話が出てくると、知ってはいたものの、何と声をかけたら良いのかが、思いつかない。


「エイクは長寿で、私は短命。何が起きようとも、何を逃れようとも、私は恐らく、五年以内には死ぬ。手足が腐り落ち腐食が内臓まで到達し、もがき苦しみながら死ぬ」

「エピフィラム家の……」


 呪い、とまでは口に出さなかった。


「その上、いろいろやってきた汚い私が、エイクを好きになったからって、そんな、その…………告白……なんて——」

「私に何て言ってほしいんですか?」マリアはリリーの言葉を遮った。「これ、何の報告ですか? 伽藍洞さんは、あなたのことが好きですよ。そしてあなたも伽藍洞さんのことを好き。でもあなたは昔いろいろやってきたししかも早く死ぬから伽藍洞さんに想いを打ち分けるわけにはいかない」


 リリーは口を開けて聞いている。


「あ! そう! で?」マリアは啖呵を切るように、快活な声で弾き返した。「私に何と言ってほしいんですか、ヨルムンガンド様?」

「え、あ、いや……その……」


 リリーは狼狽えている。手の平をマリアに向けて、おろおろと慌てている。

 リリー・エピフィラムが、おろおろと慌てている。


「あなたは伽藍洞さんの不幸を取り除くために、伽藍洞さんの幸せも奪っちゃうんですね」

「……! そんなこと!」

「だってそうじゃないですか! ああ嫌だ嫌だ、これだから悲劇のヒロインは! 自分が不幸になればとか、自分さえ我慢したら良いとか、そんなことしか考えてないんですもの!」


 マリアは両手を上げて、そして大げさにため息を吐いた。

 雪が、また強くなってきたようだ。窓から見える景色が雪で隠れる。じりじりと燃えるランプの炎が、少し揺れていた。机にはレイモンドが広げていった聖書が乱雑に放り出されていた。

 リリーは一度目を瞑って、後ろを向いた。扉を開けながら、呟いた。


「……あなたは嫌いよ、ノア」


 きいい、と音を立てて、扉は閉まった。やはり雪は酷くなっていた。玄関に舞いながら雪が滑り込む。リリーの背中が窓から見えなくなる。海岸へ向かったのだ。エイクがいる海岸へ。

 マリアは今度は安堵のため息を吐いた。


「まだ二度目の恋ですもの。相手の気持ちなんてわからなくって、当然」


 机の上の聖書を閉じて、横に置く。ぐしゃぐしゃに丸められた紙をまとめて、ゴミ箱へと歩いた。カウンターの椅子にはいつの間にか道化師が座っている。背もたれに体重を預け、リラックスしている様子だった。

 その光景を見ても、マリアが驚いた様子は無かった。


「ヨルムンガンドちゃんは、言うかね。伽藍洞に」

「それはないでしょう」マリアは笑う。「伽藍洞さんに期待するしかないわ」


 マリアはゴミ箱に紙くずを入れ、再び机の整理を始める。本を重ねて、ペンをまとめる。


「楽しそうだよ、全く……。伽藍洞に至っては初恋の女と旅してるってわけだ。神とか復讐とか、呪いとかラグナロクとか。たぶんあいつらにはあんまり関係無えんだよな」


 まだまだガキだ、と道化師は笑い飛ばす。その通りなのだろう。

 マリアは本を一冊一冊、大事に書架へと名前順を間違えないように仕舞う。


「あの年頃の男の子や女の子に、世界を背負えとか、無理な話よね」


 道化師は気怠く立ち上がり、外に出ようとドアノブに手をかけた。


「ああ、そうだな。だからこいつは結局、不器用な男と女の、切ない恋の物語ってことさ……」

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