第十九話。戦う男。

「もう大丈夫だから」


 道化師からリリーの過去を聞かされたエイクの一言目だ。

 リリーとエイクが共に旅を初めて、数ヶ月が経った後だった。酒場で道化師と情報を交換しているときだった。

 道化師はリリーが監獄島で何をされてきたのかを全て話した。

 カヴァ茶を啜るエイク・サルバドールは、表情をぴくりとも変えず、道化師の話に耳を傾けていた。

 全てを聞き終えた後、隠してはいるつもりだろうが、わなわなと震えているリリーを見てこう言った。


「もう大丈夫だから」


 慈愛に満ちたその声は、いとも容易くリリーの心に沁みていく。

 今までの哀れみとは違う。今までの同情とは違う。


「リリーは、俺が守るよ」



*



 奇跡的な光景が広がっていた。

 豪雪に閉ざされた土地だったはずのリライジニア……いやヨツンヘイムは、今や荒野となっている。雪は、接地する前に何らかの衝撃によって霧散してしまう。

 預言者は想像以上に規格外だった。

 エイクは逃げるのが精一杯だった……否、これは逃げているとは言わない。


 五臓六腑を手当たり次第に撒き散らしながら、切り離されていないいずれかの四肢で這い回っている状態のことを、逃げているとは言えるはずがない。

 預言者はエイクを破壊するのに夢中になっていた。レイモンドは先ほどとは逆に、駆け寄ろうとするリリーを精一杯押さえつけている。


「離しなさい、雨男!」

「うるせえ黙れ! 死にたいのか!」


 リリーはエイクの名前を叫び続ける。目の前で、殺され続けるエイクの名を。

 エイクの両足が再生した。リリーらと反対の方向に走り出す。預言者をリリーから引き離そうとしているのだ。体を破壊されてもなお、エイクはリリーを助ける方法を考えている。自分がこのまま死んでしまっても、少しでもリリーに時間が稼げるように……


「しぶとい。さすがは奇神の眷属と言ったところか」


 預言者は白銀の光を発して現れた槍を握り、投擲の姿勢を取る。


「だがグングニルからは逃げられん」


 グングニルと呼ばれた槍が、預言者の手を離れた。速度を上げ、エイクに真っすぐに飛んでいく。エイクは横に飛んで避けようかと逡巡したが、辞めた。そう。預言者の言う通りだ。先ほどから何度試してみても無駄だった。グングニルからは逃げられない。

 エイクはせめてもの抵抗として、体を捻り急所以外の場所に、槍を突き刺すのだった。


 その槍の威力も凄まじく、まさしく肉が爆散してしまう。

 体に開いた大穴から大量の血液と内臓をこぼす。それの、繰り返しだ。

 だが今回は違った。グングニルを左腕を犠牲にすることで防ぎきり、預言者に詰め寄った。エイクの重い鉄拳が預言者を襲う。頬を抉り頭蓋を破壊するかに見えたその攻撃は、寸でのところで阻まれてしまった。

 左手一つで。

 預言者の左手で、受け止められた。エイクの甚大な殺傷能力を持った拳が、たった左腕一本で、防がれた。

 ぱしんと。


 痛快な音を虚しく発しながら、エイクは、絶望に目を昏くした。

 そして預言者は拳を捕まえたまま、今度は反対の右手でエイクの手首を掴む。にやりと笑って、振りかぶった。

 エイクが鳥肌を立てる暇もなく、預言者は出鱈目にエイク・サルバドールを振り回しはじめた。固い荒野にエイクは叩きつけられ、叩きのめされ、叩き潰される。人形でも振り回すかのように、預言者はエイクを右へ左へ叩き落す。そしてひと際大きく振りかぶり、投げた。岩にエイクの体が突き刺さる。


「エイク!」リリーが声を裏返しながら叫ぶ。「離せ、雨男!」

「駄目だ!」


 リリーはもがき、レイモンドの拘束を解こうとするが、しかしいくつもの戦場を渡り歩いて来たレイモンドに、女であるリリーが力比べで勝てるはずもない。

 やがて諦めたのか、ぐったりと力を抜いた。先ほどとは打って変わって沈黙する。

 羽交い締めにされたままリリーは後ろを向く。ぎろりとレイモンドを睨んだ。レイモンドの背中に鳥肌が立つ。


「なるべく使いたくなかったけれど……」リリーは聞こえないような声で呟いた。「もう我慢できない」


 リリーがぶつぶつ呟く様を怪訝に思いながらも、レイモンドは拘束を解かない。リリーは大きく息を吸い、目をいっそうきつく開いた。


——」


 預言者は、身動きが取れないエイクに歩み寄った。


「お前……何の能力も持っていないな……いや発揮していないだけか?」


 エイクの首を掴み、岩から引っ張り出した。


「この目では、わからん……」

「おいおいそいつは自分のせいじゃねえか、神様ぁ!」


 エイクが押し付けられていた岩の上に、仮面の男が立っていた。一等暗い夜明け前、黒い礼服に浮かび上がる、口の裂けた笑い面。

 道化師が、預言者を見下ろしていた。


「道化師!」


 叫んだのはリリーだった。レイモンドの羽交い締めが解かれていた。今にもエイクのところへ走り出そうとしていたのだ。

 レイモンドはリリーの背後で、座り込んでいた。何が起きたかもわからない様子で、腰を抜かしている。リリーの顔を、じっと見ていた。まるで不可解なものを見るような目で。自分がなぜリリーを解放してしまっているのかが、理解できていなかった。

 そして預言者はゆっくりと道化師を見上げた。


「出たな……ナ——」

「おおっとちょっと待ったそいつはお前の名前だぜ! 俺はアルフだ。アルフであってアルフ以外の何者でもない!」

「気でも狂ったか」

「そいつはどうも。俺もそろそろ一人前か?」

「どうする。ここで戦うか?」


 預言者は道化師をぎろりと見上げた。両腕の文様がひと際強く光っている。


「それはこっちの質問だ。どうする神様。ここで死ぬか、あとで死ぬか!」


 それを聞いて預言者は笑った。

 文様の光を落ち着かせ、エイクの喉から手を離した。一歩後退し、殺気を収めた。


「どうやら随分と喰ったらしい」

「そろそろ満腹さ。だがお前の息子を殺しにいく予定の『魔王』は、こんなもんじゃねえぞ」

「ふん」預言者は鼻で笑い飛ばした。「まあ良い。俺もまだ目覚めが浅い……この状態ではお前に勝てんのは事実だ。グングニルの威力も弱い。魔術に至っては使えもしない……ここは逃げさせてもらうとしよう」


 預言者が背中を少し屈めると、ふわりと浮いた。


「あの後ろにいる女は、何者だ……」


 道化師は答えなかった。ずっと立ち腐ったまま、預言者を眺めているだけだ。どうやら今の質問に答える気はさらさら無いらしい。


「……では……消えるとしよう……」


 道化師に応じようという気が無いことを悟っても、預言者はさも当然だという態度でその話を辞めた。そしてふわふわと浮いたまま、道化師と同じように、煙となって消えてしまう。

 ざざん、と波の音が聞こえる。雪が踊るように落ちて来た。海岸に本来の静けさが戻った。

 預言者は消えた。


 だが、状況は壊滅的だ。兵舎は壊れ、捕虜の行列が血祭りに上がっている。ヨツンヘイム軍も大半は襲撃の最初の方で巻き込まれて死んでしまっているだろう。

 リリーは、このヨツンヘイムの力を使って帝国を落とそうと目論んでいたのだ。

 それが、壊滅。全滅ではないにしても、もはや軍隊として機能することはないだろう。その事実が、リリーの背中に重くのしかかった。

 しかしその重量に膝を着く前に、倒れ伏すエイクに駆け寄った。


「エイク」


 俯せに、死んだように動かないエイクの名を呼ぶ。リリーは座り込んだ。恐る恐る右手を出し、エイクの肩に、触れた。血塗れであるにも関わらず、エイクに外傷は無い。

 外傷は、無い。

 リリーは唇を噛んだ。立て続けに辛い思いをさせてしまった。リリーはわかっているのだ。エイクの好意を、知っている。隠すすべを知らない剥き出しの思いに、気付かないわけがない。


 エイクはリリーを守るためならば何でもやった。今回も、石細工アーノルド・コーウェンを上陸させまいと、リリーに会わせまいと、体を張った。

 だがその後に、リリーはエイクにあまりに酷い話をしてしまった。本当の親を探せという、育ての親の言葉をずっと覚えているエイクにとって、あまりに酷い現実を叩き付けてしまった。放心状態になるのも無理は無い。それはエイクの生き甲斐でもあっただろう。自分の記憶を見つけるというのが、トム・バスへの恩返しになるとも思っていたかもしれない。優しいエイクだ。十分にあり得る。

 リリーは、自分は人間だと信じていたエイクに、お前は人間ではないのだと告げたのだ。


 それなのにエイクは、また駆けつけてくれた。預言者から、リリーを守った。

 圧倒的な強さを誇る預言者に、エイクはリリーとレイモンドの二人を守りながら勇敢に戦ったのだ。


「あなたこそ、背負い過ぎよ」


 リリーは、肩に置いた手をそっと動かす。肩から背中へ。リリーは俯いた。手を滑らせて、砂を掴む。手の甲で、そっとエイクの頬を撫でた。

 道化師はその横を通り過ぎる。よろよろと立ち上がるレイモンドの前まで来た。


「海獣」道化師はレイモンドの心臓を、人差し指で叩いた。「俺とヨルムンガンド、それと伽藍洞の小僧は、これからとんでもない領域に足を踏み入れる」


「……なんだよ、それは」

「今の戦いを見たか。あれが準備運動になるような話さ。一言で言えば、きみは場違いだ。きみにやってほしい仕事……きみにしかできない仕事ってのは、とりあえず死海流域を渡ったところで終わってる。まあ、帰りの問題も出てきちまったんだが」


 レイモンドは生唾を飲み込んだ。道化師の様子が恐ろしかった。茶化しているでもなく、脅しているでもなく、本気で警告している。


「これからの領域で、きみは場違いだし、せいぜい役立たずだ。しかしそれでもなお、きみなら付いてきても良い。だが命の保証は無い。というか、きみは死ぬだろうね」

「死……」

「どうする。それでもついてくるか?」


 そこまで言うと、道化師は一歩退いた。ポケットに両手を突っ込む。

 レイモンドはこめかみを指で掻いた。


「行くさ。俺はまだ獅子のクソやろうを殺してないし、まだまだ何もわかっちゃいない。エイクの正体、リリーの正体、預言者の正体、そしてお前の正体。世界の真理。俺はまだまだ何もわかっちゃいない。リライジニア……ヨツンヘイムに来てわかったのさ。ここではいろいろ有り過ぎた。お前とリリーは何か隠し持ってるな。そもそもリリーの目的は何だ? 帝国の壊滅か? お前が言ってたように復讐か?」


 今度はレイモンドが、道化師の心臓を指で叩いた。


「違うだろ。お前らの目的はその上にあるんだ。何かがその上に、あるんだろ。帝国を潰すだけなら、こんな回りくどいことをやる必要は無い。不死身のエイクとお前を帝都エルズアリアに突っ込ませりゃ良いだけだ。それをしないのは何か理由があるからだろ」


 レイモンドはまくし立てるように口を動かし続けた。


「言えよ。何を隠してやがる」

「……旧約神話。それにヒントがある」声を発したのは、道化師ではなくリリーだった。「ヨツンヘイムに信仰されるのはノワル教ではなく、ミリアル教。そのミリアル教に伝わる旧約神話」


 リリーは手でエイクの頬を撫でながら、言った。


「ペルット人が書いた、本当の神話」

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