第十八話。醒める神。
対帝国軍迎撃戦はほとんど消化試合のようなものだった。
エイク・サルバドールが主艦および主戦力であるアーノルド・コーウェンを撃破した時点で、勝負は決していた。
もとよりヨツンヘイム軍は帰還者の集団だ。負けるはずがないが、この争いにはリリーとヨツンヘイムがお互いの息を合わせるために必要なものだった。来るべき大戦に備えるデモンストレーションの役割があったのだ。
それをエイクが滅茶苦茶にした。
リリーを思うがゆえの行動であったが、それが裏目に出てしまったのだ。
残る艦隊は海上でのヨツンヘイム軍の圧倒的戦力に手も足も出ず、陸に着くなり白旗を上げた。勝てるわけがなかった。
エイクは兵舎の病室で眠る。身体的な疲れはもちろんのこと、精神的な疲労も相当なものだろう。
作戦室には、レイモンド・ゴダールとリリー・エピフィラムしかいない。残りは捕虜の収容に回っている。
「なんでだよ」レイモンドはリリーを睨んでいた。「知ってたなら、早く言ってやれば良いだろ。段階を踏んで伝えてりゃあ、ここまでショックを受けなかったかもしれない」
リリーは椅子に座り込んでいた。焦燥した心を騙しながら指揮を取った、その疲れがきているようだった。
「……あなた、トム・バスの話をエイクから聞いたことがある?」
「あ? あのわけのわからん絵本作家とかいうやつか。一回な。聞いたことはある」
リリーはため息をついた。机の上のペンを転がしている。目はどこにも焦点があっていない。
「どんな顔をしていたか、どんな目をしていたか、覚えてる?」
「……楽しそうだったさ」
「そうよ。楽しそうだった。エイクはね、トムに言われて昔の記憶を探していたのよ。地獄の門の近くで泣き喚いているエイクを、トムが見つけた。そして何年も一緒にいて、ずっと言い続けていたんですって。『本当のお母さんとお父さんを探すんだ。見つけたら、なんでずっと一人にしたんだと、抱きつく前にぶん殴ってやれ』って。エイクは一人じゃなかったと言ってるけれど……父親同然のトムが死ぬまで言い続けたことを、忘れることはできないでしょうね」
レイモンドも椅子に座った。
「私には、言えなかった。あなたの母親は帝国人で、あなたの父親は魔人なんだと。帝国の実験で生まれた兵士なんだと。運良く離れた門から這い出たために帝国に捕まらなかっただけだと。そんなことは、言えなかった……。母親を探すんだ父親を探すんだと意気込んでいるエイクに、無駄だと言うことしか、できなかった。あなたが言うように、普通の人間じゃあ、地獄の記憶は残らない。だから人間である母親も、もし生きていたとしても……エイクのことなんて、知らないのよ」
エイクの気持ちがどんなものか、レイモンドにも少しくらいは理解できた。
死者の言葉は想像以上に重いのだ。レイモンドは、その意味を知っている。その身をもって、思い知っている。
「リリー」
「何よ」
「ここに来て、お前が随分と人間らしく見えてきたよ。お前エイクのこと——」
レイモンドの声を遮るように、けたたましい警戒音が鳴り響いた。
次いで何かが爆発する音が兵舎を揺らした。
「なんだ!」
「帝国の伏兵がまだいたのかしら——」
二人が作戦室から出ようとドアに向かうと同時に、勢いよく扉が開いた。ヨツンヘイムの軍人が息を切らしている。よほどのことがあったのか、歯をガチガチと打ち鳴らしていた。
「お逃げください、ヨルムンガンド様!」
「何よ。帝国軍にまだ帰還者がいた?」
「違います。よ……預言者が襲撃を……!」
二人の目が見開いた。
預言者。
最強の帰還者が、ここに現れたというのだ。
「もう時間が無いの……!?」リリーはローブを羽織り直す。「道化師は見えない!?」
軍人は首を横に振る。
リリーの額を冷や汗が伝う。
どんな策にも弱点がある。それを埋めるように前準備をしていくのがリリーの策だが、さすがに敵のレベルが違う。策で力を覆すというのにも、限度がある。
勝てる相手では、ない。
「預言者……」リリーは唇を噛んだ。「どうしたら良い。逃げる? どうやって……ここは孤立している……雨男の能力でも、確実に追いつかれる。それにしても、なぜここに来た? 預言者はペルジャッカの土地で放浪していたはず……。もしかして、遂に完全に……?」
逡巡している間にも爆発音が轟いていた。そして兵舎にも牙がかかった。見張り小屋が崩れる音がした。瓦礫が降り、兵舎の天井を突き破る。リリーらは目の前の軍人の能力でなんとかやりすごした。雷を放つ力を持っているようだ。一瞬で、瓦礫が消し炭と化した。
天井は無くなっていた。
「エイク!」
リリーは叫ぶ。エイクが眠る病室は二階だった。場所が離れているために今の雷にやられたということは無さそうだが、瓦礫に巻き込まれたのは間違いない。
「エイクが!」
「とにかく逃げろリリー! エイクはそう簡単には死なねえだろうが!」
でも、と言いかけた口を閉じ、歯を食いしばる。リリーは駆け出した。馬小屋に向かおうとするが、外の光景に絶句した。
雪が、消えているのだ。この短時間に、預言者によって吹き飛ばされたのだ。
真っ白だった雪原が消滅し、茶色い砂浜、少し遠くには赤黒い土が見える。
どころか、兵舎が無事だったのが奇跡的だ。馬小屋も当然消えていた。捕虜の行列も見えない。繋いでいた帝国の軍艦も、海岸に打ち寄せられる木屑と成り果てていた。
「これが……預言者……」
ヨツンヘイムの軍人は呟いた。
岩の頂上に、預言者は立っていた。くすんだ赤いローブをはためかせ、黒いぼさぼさの髪が風になびいている。その目には光が宿っていた。頭痛に苦しんでいた頃の虚ろさは残っていない。
「……お前に似ている者を、俺はたくさん知っている」
岩の上にいたはずの預言者は、いつの間にかリリーの目の前に立っていた。
背中が泡立つ。動悸が早くなり、汗が全身から吹き出した。
「何者だ、女」
「……あなたのそっくりさんも私は知っているわ」
預言者の目がきつくなった。
「いえ、あなたがそっくりさんだったわね、……オーディン」
預言者はカッと目を見開くが、手は出さなかった。まじまじとリリーを見つめ直す。
「お前……ラジゴールという男を知っているか?」
「あら……『腰掛け』に座れば良いじゃない。全て筒抜けになるんでしょう。知りたいことを知りたいならば、早くアースガルドに帰りなさい。ああ、確か帰れないんだったわね。好奇心は神をも殺すというやつかしら」
預言者は目を丸くしていた。
「何者だ、女……」
「知っている者よ」
「なるほど!」
ぐわ、と預言者は右手を上げた。その掌に光が集まる。光の粒子は細長い形を取り、遂に弾けた。光の衣が剥がれたそこには、穂先にしか装飾の無い、簡素な槍が具現化していた。
「生かしてはおけん!」
預言者は槍を振りかぶった。
「リリー!」
レイモンドはリリーを庇おうと走り出す。だが間に合わない。穂先がリリーを定めた。
リリーは動かない。
預言者は予備動作から腕を振り出す。
だが——
リリーに槍は突き刺さらなかった。
預言者はリリーの眉間に触れたところで、槍を止めたのだ。文様が刻まれた穂先は鋭い。皮膚をわずかに破り、血が一筋垂れた。預言者は表情を変えない。
そしてリリーも表情を変えない。
「女……俺が止めることを知っていたか?」
預言者は口だけを動かした。リリーの目をじっと覗き込んでいる。
「そんなことわかるわけないじゃない」
リリーは全く怯まない。少し見上げる角度で預言者をきっと睨みつけている。一瞬たりとも、目を離さない。
「なぜ動かん。足が竦んだわけでもあるまい……」
リリーは眉間から垂れてきた血を舐めた。
「私がこんなところで死ぬわけないからよ」
示し合わせたようなタイミングで、巨大な津波がリリーと預言者を飲み込もうと聳え立った。津波は捻れ、捻れ、大口を開けた怪物の形を取ってリリーを避け、預言者を喰らおうと襲いかかった。波打ち際ではレイモンドが歯を食いしばりながら能力をコントロールしていた。
預言者が槍を一振りすると、水の怪物は爆散した。レイモンドは波打ち際からすぐさま駆け出し、飛び散った水滴を使役して鋭い弾丸として打ち出した。
預言者は舌打ちしリリーから離れて弾丸を避けた。レイモンドは逃がさない。走る足を止めることなく預言者とリリーの間に入り込む。地面に手を当て、染み込んだ水をもう一度立ち上げる。螺旋を巻いた水の柱が鋭い牙となり預言者を追いかける。
預言者はまた槍を振るった。水柱はまたもや預言者を捕らえることができずに飛び散る。レイモンドはその水を再び使おうとするが、預言者の方が速かった。振るった槍を戻すように振り返すと、今度は水は形を留めないほどに霧散し、爆風がレイモンドたちを襲った。
吹き飛びながらもリリーを庇い、すかさず立ち上がる。が、預言者は既に視界から消えている。
「その力……まさか
槍を投げ構えた預言者は、既にレイモンドとリリーの背後を取っていた。投擲のモーションが始まる。
レイモンドは振り返る。リリーは立てない。
預言者はリリーを見ていた。レイモンドはリリーの名を叫ぶ。
槍が預言者の手を離れる。
そして。
そして……激走してきたエイク・サルバドールの肩に、槍が突き刺さった。
走った勢いのまま転げ、岩にぶつかって止まる。
「え、エイク……!」
リリーが叫んだ。
右肩を貫通した槍は光の粒になって消えた。
レイモンドは駆け寄ろうとしたが、この一瞬で預言者はエイクに追いつき、そして胸ぐらを掴んで持ち上げていた。
う……と呻き、レイモンドもリリーも動くことができない。預言者の表情は二人からは見えないが、肩がわなわなと震えていた。
預言者は口を大きく開けて震えている。胸ぐらを掴んで持ち上げたエイクの顔を見て、目を見開いていた。エイクの目は焦点があっていないようだった。ぐらぐらと、首を振っている。虚ろな目は夜空を仰いだ。
「……っ! ……!」
預言者は言葉にならない悲鳴を上げていた。信じられないものを見ているような表情をしている。エイクの顔から目を反らし、貫いたはずの肩口に目をやった。塞がっているのを確認すると、預言者の額から一筋の冷や汗が流れた。
「お…………思い出して……きた……」
預言者は何やらぶつぶつと呟いている。同じところを見ることができないようだ。瞳孔がせわしなく震えていた。
「ゼペット……人形技師……ゼペット…………!」
エイクの拘束を解いた。レイモンドが駆け寄ろうとするが、リリーが手で静止した。
預言者はわずかに後ずさった。自分の手を見ている。やはり、わなわなと震えていた。自分の腕を触った。感触を確かめるように、しつこく、触った。
そして倒れ込むエイクを見下ろした。
「そうか……人形技師の……なるほど……ということは、あの建築家の構想も完成したのか……そうだった。ああ! そうだった! 思い出してきた! 目の前……が、冴え渡る!」
預言者は突然語気を荒げる。顔を覆った。
「こんな化け物を……忌々しい……くだらない血脈が! こんな時代に、まで……」
レイモンドは眉を顰めて預言者の言を聞き取ろうとするが、叶わない。リリーはレイモンドを止めたままだ。
「冴えて来た……そうだ……前哨戦だと言っていた……あの狂った男は……ラジゴールは……これは前哨戦だと……確か、そう——ラグナロク! ラグナロクは別にあると——!?」
預言者の腹が、突如爆ぜた。
エイクの鉄拳が打ち込まれたのだ。風穴の空いた腹からはエイクの腕が突き出ていた。預言者は血を吐く。
湿った音を立てて、腕が引き抜かれた。エイクは朦朧としながら、なおも立ち続ける預言者を軽く押した。だが預言者は倒れなかった。ざ、と砂を鳴らして後退するだけだ。
腹の風穴からは、触手が生え蠢いていた。
レイモンドの背中に鳥肌が立つ。見たことのある光景だった。
ついさっき、全く同じものを見た。傷口から触手が生え、びくびくと脈打つそれが神経を編み骨を作り筋肉となって膨らみ、それを覆う皮を織る。
エイク・サルバドールの再生と、全く同じだ。
くく、と預言者は笑った。
そしてその右手で、ぼうとするエイクの頬を張った。
「どうした、愚か者の末裔。魂が見えんな……しっかりしろ。俺の目覚めを、手伝え!」
手を返す際に反対の頬を張り、エイクの目の焦点を合わせた。
預言者のくすんだ朱色のローブがはためいた。そこから覗く右腕には白い文様、左腕には黒い文様が淡く浮かび上がる。
「我が名はオーディン……」
預言者は、笑った。
「ここで殺してやる……奇神の眷属よ……」
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