第十七話。亡くす夢。
「魂?」
帝王はおうむ返しに聞く。
道化師は大きな豚肉の塊を、丁寧に切り分ける。だが仮面を被っているために、道化師は大皿に盛られた色鮮やかな料理を自分の皿に選り分けるだけだった。
「そう、魂。ペルット人の異能の正体は、その魂だ」
道化師の言葉に耳を傾ける。
「ずいぶんと、抽象的な話だな……」
「ペルット人ってのは、今の人間とは違うからな。概念もそりゃ違う。そしてあんたらが言う『帰還者』っていうのは……」
道化師は中に肉が詰まった野菜に口笛を吹いた。
「その魂を自分の体の中に取り込んだやつのことを言う」
「魂を……。ということは『地獄』というのは、ペルット人の魂が保存されている場所なのか」
「んー、まあ、そうだ。だがさっきも言ったように、ペルット人ってのは今の人間と違う。ペルットの魂が入ったからと言って、能力を完全に再現できるかと言われるとそうでもない。戦場荒らしで有名な海獣……お前らが言う『雨男』いるだろ。あいつが良い例だ。あいつは人間の割にゃあ能力を使いこなしてるほうだが、それでも再現率はたかだか二割くらいだろうぜ」
道化師は料理を取り続ける。鶏肉の塊を切ると、半透明な肉汁が溢れてきた。閉じ込められていた脂の香りが、切断面から立ちこめる。
「そこで」道化師は切った鶏肉を自分の皿に運んだ。「お前がやった『帰還兵士量産計画』。なるほどなと思ったさ。お前のところの『番犬』は、能力をほぼ完全に再現している。あれを見たときは舌を巻いたね」
「『番犬』?」
帝王は誰かがわからなかったが、道化師が「獅子」と言って納得したようだった。なるほど番犬か、と笑った。
「ラジゴールの蒔いた種が、今頃芽吹きやがったってな」
道化師の自嘲のような呟きは、帝王までは届かなかった。
「……おっと」道化師は突然顔を上げ、東の窓を見た。「残念、やっぱり野暮用ができやがった。最後まで話したかったもんだが……」
「なに?」
「しかもこれまたなかなか難儀だな……。じゃあなアルセウス。暇があったらまた来てやるよ」
制止しようとするアルセウスをよそに、道化師は煙となって消えてしまった。
*
レイモンド・ゴダールはエイク・サルバドールを見ていた。
頭の潰れた男に馬乗りになっている、エイクを。
止めることができなかった。エイクのあまりの獰猛さに、レイモンドは動くことができなかった。
レイモンドが辿りついた頃には浜辺での戦闘が始まっていた。そして感じた。感じ取った。
エイク・サルバドールは、普通ではない。
アーノルドの最後のあがきか、エイクの背中を石の刃が突き破っていた。レイモンドは何も言えなかった。急所ではないが、致命傷だ。
エイクはしばらく呆然としていた。爆散したアーノルドの頭から撥ねた返り血を、拭うこともなかった。そして背中の刃を掴み、横に、動かす。返しがあるため抜くことができないからだろう。エイクは船上でやったように、胴体を半分切る形で、刃を体から取った。
少しはみ出た臓器を、触手が噛み切る。ぶちり、ぶちりと。
そして例の如く……傷口が塞がった。
レイモンドは唾を飲む。こんなことがあるのかと、目を見開いていた。額を、汗がつたった。
「エイク……」
エイクは答えなかった。立ち上がって、とぼとぼと歩き始めた。レイモンドは唇を結んだ。鼻から強く、息を吸い込む。
「エイク!」
レイモンドは馬上からエイクを呼んだ。手綱を上手に操り、エイクに近寄る。
「リリーに、お前の親について聞こう」
エイクは振り返った。虚ろな、昏い目だった。脱力した肩に、先ほどの戦闘の痕跡は見られない。ただの、青年だ。
「俺の……親……」
「ああ。納得いかねえだろ。リリーはたぶん、知ってるんじゃないか。親のことまでとはいかなくとも、お前の記憶の手がかりくらい、あいつなら知ってそうじゃねえか!」
「リリーは、知ってるのかな」
エイクはため息をついて、また歩き始めた。歩幅は狭い。動きも遅い。体も心も、エイクは疲れきっているようだった。
リリーをどん底に突き落とした男を全力で殺した。全てが終わってみればそれが正しかったのかどうかもわからないし、戦闘中にアーノルドが発した言葉が全て、粘つきのあるかさぶたとなってエイクの心に張り付いていた。
リリーの傷を、エイクは計り知れなかった。
本当に、疲れきっていた。
「聞いてみりゃあ良い。お前が探してることだろ」
「……怖いな」エイクは掠れるような声で言った。「リリーが、もし知ってたら、怖いな。なんで、今まで黙ってたのか、わかんない」
「知りたくないのか?」
「……あのさ、本当は、気付いてるんだ。俺が、他の帰還者と、違うってこと。人間は、こんな風には、直らないよ」
エイクはゆっくりと、歩き続けた。止まることはなかった。
「自分が何の能力を持ってるのか。自分が誰から生まれたのか。それを知って、どうなるって、わかんないのに、でも俺、それを探してないと、怖いんだ……おかしいことに気付いてないふりしてないと、怖いんだよ」
拳を握るのが見えた。
遅れて遠くから馬の蹄の音が聞こえた。リリーだ。リリーが遅れて来た。
「り、リリー……」
エイクは狼狽えていた。アーノルドの死体をどうしようかと振り返ったが、リリーの乗っている馬が近づいてくる。エイクはおろおろとしながら、結局動くことができなかった。
リリーは馬から飛び降りて、走った。砂に足を取られそうになりながら、エイクに駆け寄る。エイクは後ずさった。しかし足が思うように動かなかった。う、う、と呻きながら怯えていた。
「この、馬鹿!」
とリリーは叫んだ。両手を広げかけたが、そこで歯を食いしばった。開いた両手をぎゅっと閉じ、そして右手だけを広げる。きっと目を見開き、そのままエイクの頬を、力一杯張った。雪の空に、高い音が鳴った。
「あんな男……あんな男どうでも良いのよ! なんで! どうしてあなたがそんなに怒るの、エイク・サルバドール!」
リリーは目を離さない。真っすぐとエイクの目を睨んでいた。リリーは自分自身が何に対して怒っているのか、わからなかった。少なくとも、綿密に設計した迎撃作戦が滅茶苦茶にされたことに対してではなかった。リリーはエイクを知っている。石細工アーノルド・コーウェンごときに破れるはずもないことも知っている。それなのに作戦以上にエイクの身を心配してしまう自分が、理解できなかった。本来ならば怒鳴るべきではないだろう。案じていた『エイクの正体』がアーノルドの口から出たのかどうかを、を優しく聞くべきだろう。だがそんなことができる余裕が、リリーの胸には無かった。
これでは同じではないか。
アーノルドに惚れ込んでしまった小娘の頃と、同じではないか。また繰り返すのかとリリーは思った。この気持ちの相手がアーノルドだろうがエイクだろうが関係無いのだ。胸の内が張り裂けそうで、頭の中はこの男のことで一杯になる。
もう二度と、こんな気持ちは抱かないと決めていたはずなのに。
「……リリー」と、エイクの呼び声ではっとする。「『帰還兵士』って何なんだ。……帰還者とは、違うのか」
リリーの体に緊張が走った。アーノルド・コーウェンが言ったのだ。エイクの正体について、やはりアーノルドは感づいた。エイクと戦闘をして、そしてアーノルドの力ならば恐らくエイクの体に大きな傷を作ることができたはずだ。知っている人間が再生する様を見れば、一発でその異常性についての検討がつくだろう。
「帰還兵士……」
リリーは呟いた。もちろんリリーも知っていた。帝国が立案した帰還兵士量産計画。『ある男』のせいで破られた、禁忌の領域。元凶の一端を担っている古代ペルット人ですら、予想し得なかった可能性もあり得る。
「知ればあなたは不幸になるわ」
エイクは顔を上げた。目が赤く充血していた。まさか泣いていたのかとリリーは驚いた。何か言葉をかけようとするが、思いつかない。長い間ずっと人間味を閉ざしてきたリリーには、人を励ます言葉がうまく出てこなかった。
「それは、俺の記憶と、関係があるのか」
リリーは……頷いた。
「でもあなたが知る必要は無い。今はとにかく戦闘準備——」
「どうして」
「……だから、辛いのよ。あなたが不幸になってしまう!」
リリーの語気は荒くなっていた。主戦力は潰したとは言え、帝国軍が近づいて来ていることもあるだろう。だがそれ以上に、エイクにそのことを伝えたくないようだった。アーノルドとの戦闘を案じた理由でもあるのだから、よほどのことなのだろう。
しかしエイクは……
「それを知らなかったら、俺は幸せなのか。辛いからって逃げてて良いのか。自分のことだよ、リリー。不幸になるからって、知らなくて良いのか」
エイクはリリーを見つめ返した。歯を食いしばって拳を握った。つっかえる言葉を、必死に絞り出した。
「リリーは全部、背負ってるのに」
リリーの胸が痛んだ。
エイクはこんなにも自分のことを思ってくれている。崩壊した監獄島アルカルソラズで初めて顔を合わせてからずっと、エイクはリリーの言うことを忠実に聞いてきた。ここまで共に旅をしてきているのだから、エイクの気持ちにも、リリーはもちろん気付いていた。
しかしその真っすぐな瞳が、リリーを追いつめていたのだ。リリーの心を、ゆっくりと、優しく蝕んでいた。固く閉ざされた鉄の扉の隙間から、エイクの暖かさが染み込んで来ていた。
「……私は」
リリーの声は乾いていた。口の中がからからだ。凍える雪の中で馬を駆けて来たせいだ。体の芯から冷えているだろう。だが一方エイクは、この極寒の海を泳いだのだ。強靭な体の持ち主とはいえ、寒くないはずがない。辛くないはずがない。死ににくいからと言って、平気なはずがないのだ。
エイクはリリーのために、身を削ることを厭わない。
リリーは口を閉じた。今ここで必要なのはごまかしの言葉ではないと理解していた。
エイクの瞳は真っすぐだ。
もうここで、伝えなければならないだろう。リリーが知っているエイクを。エイクが知らない、エイクの正体を。ここで壊れるかもしれない。今までの主従関係も。そしてエイクの心も。
エイクは、なぜ黙っていたと怒り狂うかもしれない。反対に、絶望して完全に塞ぎ込んでしまうかもしれない。
だが、エイクがそれを望んでいるのならば、応えなければならないだろう。もうこれ以上、逃げるべきではないのだろう。
認めるべきだ。
エイクが壊れてしまうのを恐れているのは、エイクではなく、リリー自身なのだと。
「……エイク・サルバドール」
決意を込めた声だった。先ほどちらついた弱音は完全に姿を見せない。
いつもの、リリー・エピフィラムだった。
そして生唾を飲み込み、一呼吸置いた。
「あなたに、失くした記憶なんて無いの」
馬上のレイモンドは目を見開いた。頭の良いレイモンドは、それだけでわかったのだ。この言葉の重さを、理解できた。だがエイクにはわからない。表情が、変わらなかった。
どういうことなのか、考えているのかもしれない。だがリリーは言葉を切らなかった。
「あなたは地獄で生まれたのよ、エイク・サルバドール。『帰還兵士量産計画』……帝国の計画によって産み落とされた、『魔人』と『人間』の混血。それを帝国は帰還兵士と呼んだ」
「馬鹿げてやがる!」レイモンドは馬から降りてリリーに掴み掛かった。「魔人と人間のハーフ!? ふざけるのもたいがいにしろよ! 良いか、道化師はエイクのことを『伽藍洞』と呼んでるだろうが! 記憶が無いから伽藍洞なんだろ! 親とか生まれとか、その記憶が空っぽだから、伽藍洞なんだろうが!」
「それは……誰が言ったのよ」
リリーの声は低かった。
そうだ、『記憶が無いから伽藍洞』。それを言ったのは、紛れも無く——エイク自身だ。
記憶が無いと思い込んでいた、エイク自身だ。
さらに言えば、道化師も、リリー・エピフィラムも、今までの道中、一度だってエイク・サルバドールのことを帰還者とは言わなかった。
「エイクに地獄より前の記憶なんて元から無いのよ! 伽藍洞と呼ばれている理由はエイクが——帰還者ではないから……」
「どういうことだよ……どういうことだ! こいつは能力を使ってるじゃねえか! 見たことねえのか! 馬鹿みたいなパンチと! 一瞬で傷が治る——」レイモンドはハッとする。何かに気付いたようだった。「……まさか」
「ええ、そのまさかよ。エイクは地獄から出るときに、何の能力も得ていない。さっきの質問に答えてあげるわ雨男。帰還者の異能の正体は、ペルットの魂。エイクは何の魂も、取り込んでいない。エイクの器は空っぽなのよ」
つまりそれは——
「伽藍洞……」エイクが、砂浜に膝をついた。「じゃあ……この力は……」
帰還者としての、力ではない。『異能』ではない。地獄で手に入れた特殊な力ではないということだ。それならばエイク・サルバドールは——
「俺は、化け物なのか」
人間を木っ端微塵に破壊する拳。凍える海を泳いで渡り、単身で船を破壊することができる強靭な肉体。大きな傷が出来ればそこから溢れるように触手が出現し、一息のうちに傷口が塞がってしまう、圧倒的な再生力。
それはただの……体質だ。
人間以外の生き物が為す技なのだ。
「俺は、化け物……だよ……」
つまりエイク・サルバドールは、そういう生き物なのだ。
エイクは完全に力が抜けたようだった。砂浜にへたり込んでしまっている。
海水に濡れた体を雪風に晒しても、エイクは平気だった。この程度で凍え死ぬことなど、エイクにはありえない。放心状態のエイクは、何かをぶつぶつ呟いているようだった。だが聞こえない。口の動きは、育ての親であるトムの名前を呼んでいるように見える。
エイクが探し求めていたものは、元より存在しなかったのだ。親のことを、故郷のことを、ずっと追い求めて来た。トムが死んでからずっと、エイクはそれを探していた。その生き甲斐とすら言える『無くした記憶』が、元から存在しなかった。
心にまでは触手は生えてこないらしかった。崩れた気持ちが直る気配は、一向に無い。
「…………そうか」レイモンドは無言でエイクを背中に担いだ。砂を鳴らし、兵舎へと歩いていく。「なるほど」
リリーは分厚いローブの中で、拳を強く握っていた。フードの奥にある瞳は、苦しそうに歪んでいる。
レイモンドはリリーとすれ違い様に呟いた。
「ここに着いたとき、お前はエイクを教会から遠ざけたな」
ヨツンヘイムの教会には、帰還者しか入れない…………
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