第十二話。跪く民。
獅子は目の前の光景を疑った。
帝王の命を受け、いざ道化師を探しに行こうと、城の一棟にある自室から出て、城門をくぐったまでは良かった。帝都エルズアリアを出ようと城下町を歩いていると、いたのだ。
道化師がいた。
パン屋の前で座り込んでいた。
「お、久しぶりだねえ『番犬』くん」道化師は獅子エドガー・ライムシュタインのことを『番犬』と呼んだ。「きみのところの王様に会いたいんだよ」
「……ペルジャッカでは、世話になった。あなたがいなければ、俺は預言者に殺されていた」
「だろうねえ。『神様』もきみのこと殺すつもりだったろうし」
「……王も、あなたに会いたがっていた。聞きたいことがあるらしい」
「奇遇だね。俺も王様に教えたいことがあるんだ」
*
吹雪いていた。
死海流域を渡る際のレイモンドの活躍には凄まじいものがあった。船を襲う荒波を、その能力によってねじ曲げ、とぐろ巻く渦巻きも能力で解いていく。これを一晩中続けては、雪原諸島の小さい島で一晩休み、日が明けるとまた能力で海を切り開く。
それを六日間続け、遂にリライジニアに上陸した。岸に着く頃には、頑丈に補強していた船もぼろぼろになっていた。
レイモンドは、さすがに疲れきった様子で歩くこともできない。エイクはレイモンドを背負って歩く。しばらくすると、エイクの背中で気絶するように眠った。
リリーは分厚いローブを羽織り、編み上げのブーツで雪道を進む。エイクも分厚い生地の服を着込み、レイモンドをローブでくるんでいた。
「……あれね」
吹雪のために視界が冴えない。街の形が見えてきた頃には、だいぶ接近していたようだ。
「これが、リライジニアの建物……」
エイクは見上げる。
高く聳える塔が一つある。雪のせいか色味が無い街だった。塀は無い。囲ってしまえば街が雪で埋まってしまうからかもしれない。三角屋根の建物が目立つ。
荘厳な雰囲気だった。
エイクがよく目を凝らすと、ランタンを持った人影がこちらに近づいてきた。五体。エイクは戦闘態勢に入ろうとする。レイモンドを下ろそうとしたが、足下の深い雪を見てやめた。背負いながら戦うつもりだ。
「違う。エイク、あれは味方」
「……味方?」
世界から孤立したこの国に、味方がいるというのは変だ。エイクはそう思った。
人影は近づいてくる。ランタンの火が揺れていた。
「来るぞ、リリー」
「だから、別に良いのよ」
リリーも人影に向かって歩き始めた。エイクは少し考えたように頭を捻り、リリーの横についた。
「お待ちしておりました」人影は黒いローブを羽織っていた。「ヨルムンガンド様」
黒いローブの五人組は礼をした。ランタンを掲げる。
「そちらでお疲れになられているのが……そうですか、そうですか……彼が
リリーがぎらりと五人を睨め付けた。
エイクはレイモンドを背負い直す。
「とにかく、その、休ませてくれ。リリーも寒いし、レイモンドも疲れているよ」
「ええ、そうでした、そうでした……どうぞ我らが気高き街へ……」
さく、さく、と雪を踏みしめがら、五人の黒いローブとリリーたちは街へと入った。
ごごご、と地鳴りのような音が鳴り、重く巨大な門が開く。入ってみると、外から見るよりも殺風景な印象を受けた。家々は灰色で、今にも吹雪にかき消されそうだった。
大通りの雪は左右にかき分けられ、ちょっとした壁を作っている。
リリーたちは五人のランタンに導かれるように歩いていた。
「誰もいないわね」リリーは白い息を吐く。
「ふふ、驚きますよ……」右端のランタンが揺れるのが背中越しに見えた。「エーギルと伽藍洞を宿に休ませて、ヨルムンガンド様、教会へ行きましょう……」
「……エーギルってなんだよ」
レイモンドはエイクの背中で目を覚ましていた。
「ああ、目を覚まされましたか。ヨルムンガンド様をよくぞここまで連れてきてくださいました。温かいシチューがあります。宿まで今しばらくご辛抱くださいませ……」
「歩ける。すまんな、下ろせ、エイク。俺も教会に行く」
「ん、え、お」エイクはもぞもぞと動くレイモンドに揺さぶられる。「ちょ、ちょっと待って……リリー、良いのか?」
「まあ、別に私は構わないわ」
「……私どもにも不都合はございません」
五人組はレイモンドの申し出を断ることはなかったが、エイクとレイモンドに分からないようにリリーに目配せしていた。リリーはそれに頷く。
レイモンドはエイクの背中から下り、ローブを体に巻き付けて歩く。鼻を啜っていた。
教会は大通りを真っすぐ進んだところにあった。エイクが街の外から見た一番高い建物は、教会だったようだ。天を突き刺すような天頂は、剣のような形をしていた。
「あれはレーヴァテインという剣を模しております」エイクの視線の気づいたのか、五人のランタンのうち真ん中の者が言った。ランタンを剣に向かって掲げる。「覇剣レーヴァテイン。世界を焼き尽す灼熱の刃を持っていると言われております。奇神ロキが、ペルット人に作らせたという……」
その言葉に反応したのはレイモンドだった。
「ペルット人? 奇神ロキ? なんだそれは?」
「その説明はあとでする。そんな時間はないのよ、雨男。ああそうだ、エイク、戦争のあとに街が完全に残っているという保証は無いわ。無駄だとは思うけど、いつものように自分のことに関して何か探そうと思っているのなら、今のうちに行っておきなさい」
「リリーはどうするんだ?」
「安心なさい。ここには、味方しかいない」
エイクは依然納得していない様子だったが、リリーに逆らう気は無い。レイモンドもいるから安心しているのか、食い下がることなく頷いた。
エイクと別れた一行は、教会の扉の前に立つ。
巨大だった。
この街で一番高い建物であるこの教会は、近くに来て見上げてみると、その迫力がわかる。雲天を穿つような覇剣レーヴァテインは、遠すぎて針のようだった。
灰色の教会は雪の厳しさを強調するようだ。なされた装飾は非常に簡素なもので、巨大な扉に神々しい文様が刻まれただけ。あとは窓がぽつりぽつりとつけられただけの壁だ。
巨大な扉があるにはあるが、その大きさがとてつもないために、通常の出入りはその隣にある小さなもので行われているらしい。巨大な扉の方は、人を縦に五人重ねたような高さがある。幅も両手を広げた人間を七、八人並べたほどだ。
しかしリリー一行は、その大きな扉の前に立っていた。
そしてあまりにも大げさな音を立てて、ゆっくりと扉は開いていく。レイモンドは怪訝な顔をして、「あそこじゃないのか」と小さな扉の方を指差すが、それに取り合う者はいなかった。リリーは胸を張ってじっとしていた。いつもの無表情だが、心なし緊張しているようにも見える。
そして扉が開ききると、あまりに壮大な風景が広がっていた。
外見こそ無骨な印象を受けた教会も、内装はとてつもない迫力があった。あの高さのある教会が、天頂まで吹き抜けなのだ。美しく彫られた梁が複雑に絡み合ってはいるものの、天井まで見上げることができる。梁からは何段ものの照明がつり下げられ、蝋燭の火とは言えど、教会の中は眩しいばかりの明るさだった。
壁にはほとんど窓が無い代わりに煌びやかな絵が無数に飾られている。これも天井まで続いていた。白い壁が見えないほど額縁がひしめき合っているのだが、乱雑な印象は全く受け取れない。
床には金色の刺繍が入った赤い絨毯が敷き詰められている。長い机が壁際に並べて寄せられていた。その上には木の椅子が逆さに置いてある。
そして、人。
人、人、人。
老若男女、統一はされていないが、この広大な教会の中にいる全ての人間が跪いていた。
教会の奥、つまり崇めるべき対象が設置されている場所に向かって、ではない。
あろうことかそこに背を向け、入り口の方……つまりリリーたちに向かって、胸に手を当て跪いている。二百ないしは三百、それだけの人数の者が、みな一様に片膝をついていた。
前を歩いていた五人組も少しだけ進み、そしてくるりとこちらを振り返って、やはり跪いた。
レイモンドは全身に鳥肌が立った。
雷を受けたように動けなかった。こんな大勢の人間が一方向を向いて跪いているのを見たことが無い。
「な…………」
レイモンドは言葉が出なかった。すぐに分かったのだ。なぜかすぐに理解できた。
この人間たちの敬意の対象が自分に向けてではないということを、レイモンドはすぐに気づいた。扉を開けると既に跪いていた人間の群れの眼中に、自分は入っていないということにすぐに気づいたのだ。
そして次の瞬間、体は勝手に動いていた。一歩引き、腰を折り、レイモンドまでもが跪いた。
重苦しい音をたてて扉が閉まった。吹雪いていた雪の音が止むと、教会の中は全くの無音だった。
この教会の中で、立っている人間は、リリー・エピフィラムだけだった。
リリーも驚いてはいたようだった。
久しぶりだったのだ。少なくとも帝国に囚われてからは、こういう光景はありえなかった。地を舐めるのはリリーの側だった。
かつて世界に名を轟かせたリリーと言えど、それはもう何年も前の話だ。今でこそ勢いを取り戻しつつあるが、自分が好きなときに自由な方法で使うことのできる従者は、今やエイク・サルバドールとレイモンド・ゴダールだけなのだ。
この光景に驚かないはずがない。
五人の真ん中の男が喋った。
「お待ちしておりました……ヨルムンガンド様」
リリーはぴくりと反応した。ローブの中で指が動いた。
唇を舐めた。唾を飲み込んだ。その音すら反響しそうな静寂だった。リリーは慎重に息を吐く。
そしてゆっくりと、ゆっくりと口を開いた。
「顔を上げよ、
リリーの声は響き渡った。美しく反響した。レイモンドは驚愕に身を震わせた。これはなんなんだと思った。なぜこんなにも魂が震えるのか、レイモンドは理解できなかった。ぞくぞくと、また鳥肌が駆け巡った。気を抜けば涙までも流れ落ちそうだった。レイモンドは顔を上げられない。
魂を、直接触れられている。
「貴公らが、我が蛇腹となる戦士たちか」
リリーの声は、ぴんと張った一本の糸のようだった。しなやかでありながら強靭。美しく光る一本の絹の糸。
「はい」と、五人のうちの真ん中の男が、また口を開く。「あなたのために魂を磨き上げた者たちでございます」
リリーは目をつぶり、息を吐いて、そして吸った。わずかに震えていた。恐怖ではない。武者震いとでも言うのか、心が満たされていくのを感じているように見えた。
レイモンドは目を見開き床を見つめているだけだった。顔を上げれば目が潰れてしまうのではないかと思っていた。この神々しさに耐えられるのか、自信が無かった。
「ならば聞け」
リリーは目を開いた。
真っすぐと人海を見つめた。
世界を喰らう大蛇のように、鋭い瞳で戦士たちを貫いた。
「まずはこの地を守るのだ」
レイモンドはやっと顔を上げた。瞬きができなかった。リリーはあまりに光り輝いていた。艶やかな長い黒髪は、静かに揺れていた。
「さあ、立て! 来たる蛮民を討ち滅ぼす!」
わあ、と歓声が上がる。
次々と人間たちが立ち上がる、それに釣られてレイモンドもよろよろと立ち上がったが、リリーから目が離せなかった。リリーの息は少し上がっていた。
「お前……いったい……」
そしてレイモンドはまたもや驚愕する。
人海の中から火柱が上がったと思うと、砂嵐が巻き起こり、その隣では氷の彫像が立ち上がる。他にも魔法としか思えない現象が次々と起こった。
「まさか、こいつら、全員……」
「そう。この教会には、帰還者しか入れない」
リリーも目の前の光景に釘付けのようだった。
帰還者たちは鼓舞している。声を上げて士気を高めていた。
レイモンドは呆然としていた。エイクと、今まで何人の帰還者と会ったことがあったか、話をしたことを思い出していた。そんなもの、意味が無かった。目の前の無数の人間が、全て帰還者なのだ。
恐ろしいという気持ちも湧いたが、しかし別のことが頭をよぎった。
この教会には帰還者しか入れない。
それはいわば失言だっただろう。リリーは仕事の報酬としてレイモンドに『知識』を提供している。それを考えると、今の発言は明らかに失敗だ。機転の利く賢いレイモンドならば、考える間もなく辿り着いてしまう。
この教会には帰還者しか入れない。
そう。
それならば——
「お前も帰還者なのか、リリー・エピフィラム」
リリーはその質問に、答えようとはしなかった……
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