第十話。唸る王。

「『社会性不獲得者の心理的及び肉体的沈静化を測る諸実験』……随分と非人道的なことをされるのね、王様さん」


 レイラ・エピフィラムは鉄格子の向こうにいる帝王に言った。右手の爪が全て剥げていた。


「どう、リリーの体は、飢えた囚人たちに良い影響を与えたかしら」

「……お前の妹がされたことだというのに、そんな言葉が口から出るとはな」

「勘違いしないで頂戴。私のはらわたは煮えくり返ってるわよ。でもそれ以上に、あなたの人間性を疑ってしまうのよ。凶暴な人間を黙らせるために、女の体を与えるなんて」

「結局はその方法もうまくはいかなかったがな」


 帝王は唾を吐くように言った。侮辱される覚悟は決めていたのだ。既に自分で、人間の歩く道ではないと知っていた。


「二年間続けた。それで壊れなかったリリー・エピフィラムは、心身ともに化け物だ」

「あなたも人間ではないわ」


 レイラはため息をついた。背中の打ち身と剥げた爪は、やはり痛む様子だった。


「吐く気はないのか、レイラ・エピフィラム。守り通したところでお前が得をする話でもあるまい」

「エピフィラム家の呪い、ね。ふふ、あの子らしい真っすぐに捻くれた言い方だわ……。確かに私たちは呪われているかもしれない。でもそれは、私たちが受け入れたことなのよ。今更それを嘆く気はない。次の拷問は明日かしら? それまでゆっくり休むとするわ。さよなら、王様さん」


 帝王は沈黙した。レイラの覚悟は本物のようだ。これ以上いたぶっても何も吐かないのは明らかである。

 だいたい一度の拷問でわかる。

 レイラは痛みに耐えることはなかった。打たれれば苦痛に泣き叫ぶ。よだれも鼻水も撒き散らしながら絶叫した。

 固い竹は打ち続ければばきりと折れるが、川に石を投げても意味はない。

 柔軟なのだ。レイラは恐らく拷問では口を割らない。他人を、それも女を意味も無く痛めつけるのはあまり心に良くない。リリーの件がそうだ。帝王自身、まだ引きずっていると言われれば反論はできない。次回も続けるかどうかは考えものだとアルセウスは思った。

 だが帝王はそのことを告げずに執務室へと戻った。なぜか言う気にはなれなかった。帝王としてのプライドがそうさせているのか、レイラの気高さに心が屈したのか、それともリリーの気迫を思い出したせいなのかは、帝王にはわからない。

 執務室のドアを開けた後に、そういえばと顔を上げた。

 今朝、伝書鳥が飛んできたはずだった。宗教大陸国家リライジニアに向かった軍船からのものだ。足首に青色の布を巻き付けていた。順調に航海を進めているということだ。


 手紙を開いてみると、鳥を飛ばした時点での食料の残量、兵士の状態などが事細かに書かれている。

 鳥小屋の男から受け取ったそれを、机に広げたままだった。

 アルセウスは手紙を見返した。

 宗教大陸国家リライジニアに近づけば近づくほど波が読み辛くなっているらしいが、それでも死海流域よりはマシだと書かれていた。

 アーノルドという帰還者を一人、船に乗せているが、彼の船酔いが酷いらしい。

「……」まあ船酔いで死ぬことはないだろうとため息をつく。

 アーノルドと言えば、と帝王は頭を掻く。連鎖的に思い出したリリー・エピフィラムが、中央大陸を北上しているという噂を聞いていた。霧のような噂が、段々と形を成していっているのを感じていた。

 しかし今すぐ探して捕らえるというのは早計だと考えたため、捜索網などは特に敷いていない。しかも帝王の勘が正しければ、北上しているというリリー・エピフィラムは、ここ帝都エルズアリアを目指している。近づいてきたときに捕まえれば良いと帝王は楽観していた。


 リリーが帝国の次の標的である宗教大陸国家リライジニアを目指しているとは知りもせず……

 今はとにかく攻めるべきところを攻めるしかない。

 宗教大陸国家リライジニアは、アルセウスにとってまったくの未知数だった。

 リライジニア出身の人間もこの大陸にいないことはないだろうが、見たこともないし、話も聞いたことがない。


『一つの大陸が一つの国になっている』、『ノワル教でなくミリアル教が信奉されている』という情報がある以上、あちらの人間がここに来たことがあるか、あるいは逆にこちらの人間が海を渡ってリライジニアにたどり着き、そして戻ってきたことがあるということだろう。

 知らないということは脅威だ。


 アルセウスの父の言葉だった。軍事にも秀でていたが、学問にも興味を示していた。中でも考古学的な資料を読み漁っていたのを覚えている。

 イエーガー家に政権が渡る以前に発案されていたが、あまりに外道な内容のために封印されていた『帰還兵士量産計画』を、掘り返したのも父だ。実行に移したのは、まだ幼きアルセウスであったが……

 父の言葉を引きずっているのか、アルセウスはリライジニアに怯えていた。実態の掴めない大陸がある。航海不能とは言え、小さい海峡を挟んでいるだけの距離にあるのだ。


 もしかするとペルジャッカですら足下にも及ばないような頭脳を持ち合わせ、想像を絶する兵器を所持しているのかもしれない。

 危機は前々から感じていて何度か死海流域を渡ろうとしたが、結果は言わずもがな全滅。雪原諸島の最初の島にも辿り着けない。目視はできても、道のりは完全に分断されてしまっている。

 だからアルセウスは裏側から攻めるようにした。とてつもない時間がかかってしまうが、それしか方法は無い。

『未知』という不安要素を消すためには、その方法しかアルセウスには残されていなかった。

『未知』といえば、大きな不安はまだあった。いや、あった、ではなく、現れた。

 ペルジャッカを滅ぼし、焼けたエピフィラム邸で見つけた『ラグナロク』の資料。


「……そうか、あれはエピフィラム邸で見つかったのだったな。レイラ・エピフィラムが知らないはずはない、か。こんなことを見落とすとは、よほど動揺していたようだ」


 ならば、と帝王は思った。それならば、リリー・エピフィラムもラグナロクについて知っているはずだと。


「ラグナロク……。まさか、エピフィラム家の呪いとはラグナロクと関係しているのか?」


 これは考え過ぎか、とも同時に思った。そこまでスケールの大きい話なのだろうか。

 証拠が一つも無い。今の時点では推測の一つとして止めておくしかできないようだ。

 そしてアルセウスはもう一つ別の資料を手に取った。獅子、エドガー・ライムシュタインが持ってきた石盤に関するものだ。

『完成を祝して』。

 と書かれているらしい。この絵がいったい何を祝っているのだろうか。

 道化師の恰好をした者、老人、子ども、そして掠れている人物。それらが全て正面を見て描かれている。細かい表情や、はっきりとした色はさすがに褪せて見えない。

 何が『完成』したのだろうか。

 絵に残すほどの何かが完成したということだ。それに問題はこの道化師と同じ恰好をした人物。


 本当に道化師なのだろうか。もしそれが本当だとして、なぜ道化師がここにいる?

 疑問は深まる一方だった。

 何かの糸口を探るために道化師を捕まえる必要があると考えた帝王は、獅子を呼びつけるよう家臣に伝えた。

 獅子が預言者と戦って勝てるとはさすがに思っていない。軍隊を持ってしてでも敵わない預言者をたったひとりで止めてしまうような存在だ。話し合って協力してくれなければ、獅子をおとなしく退かせるつもりでいる。

 こんなところでエドガー・ライムシュタインを失うことを望んではいない。

『帰還兵士量産計画』の惨憺たる結果の中で唯一の成功体を、ここで失うわけにはいかないのだ。



*



「逃がしたあああ! 逃がしてしまったああああ!」


 ペルジャッカ跡地に舞い戻った『預言者』は、誰にでもなく雄叫びを上げていた。

 ぼさぼさの黒髪を振り乱す。先日まで獅子が発掘をしていた場所だ。

 墓を暴いたような発掘痕を見て、身を震わせていた。その目は虚ろだが、はっきりと殺意を感じ取れる。


「くそがあ! 誰が愚行を繰り返している!」


 預言者は怒り狂っている様子だった。ペルジャッカに何らかの執着があるのか、獅子が開けた穴が許せないようだった。

 静かになったと思うと、急に右手を天に掲げた。

 すると右手の上に細かい光の粒子が集まり始める。さあさあと音を立てて一つの塊になる粒子は、一本の細長い棒のような形を取って、そして弾けた。

 光の粒子の中から現れたのは、槍だった。柄は強靭な樹木の枝で作られているようだった。穂先には何か文字のようなものが刻まれているが、装飾はたったそれだけである。

 しかしそれにも関わらずこの神々しさ。何か特別な槍なのだろう。類希なる輝きを放っていた。

 それを振りかぶり、そして地面に突き立てるが——何か見えない膜が張られているかのように、神々しい槍は跳ね返される。衝撃に耐えきれなかったのか、槍は再び光りの粒子となって霧散してしまった。


「……駄目なのか」


 預言者は呟く。


「グングニルを持ってしても、破れんか……」

「当たり前だろ」と、預言者の背後から声がした。「自業自得ってもんさ」


 道化師だった。白い仮面に黒い礼服の男が、瓦礫に腰掛けている。


「奇神……お前に会いたかった……お前はいったい何をしているんだ……現れては消え、現れては消え……」

「奇神、ねえ。俺のことは気にしなくて良い。しかし遂にあんたの自我が安定しちまったか。その様子だと記憶は滅茶苦茶らしいが。まあ……やっとまともに話ができると考えるとするか、前向きに。ところであんたはどうなんだ。この世界の居心地は」

「最悪だ! それよりこれはお前がやったのか」


 預言者は発掘痕を指差す。


「そうだと言ったら?」


 二人の間に乾燥した沈黙が流れる。ぴりぴりと皮膚が焼けるのは、互いの殺気のせいだろう。


「殺す」


 沈黙を破ったのは預言者のほうだった。ぼろぼろのローブをかき分けて右手を出した。


「俺は逃げるぜ、全力でな」道化師はケタケタと笑いながら続ける。「まあ、これをやったのは俺じゃねえよ」

「じゃあ、いったい誰がこんなことを。くたばるべき一族がくたばった場所だ。こんなところを掘り返すのは許さん」

「そんなに怯えるなよ」


 びゅう、と風が吹いた。瓦礫から砂埃が舞い上がる。道化師の声は低く響いた。心臓に轟くような声だった。

 預言者は動じない。右足を引いて、いつでも動ける体勢を作った。一触即発の空気が流れる。

 両者は静かに睨み合う。


「奇神は言ったはずだぜ……」道化師は立ち上がった。「人間は虫けらのように這い上がるとな」

「……お前は誰だ」

「奇神じゃあねえのか?」

「ふざけるな」

「無茶言え」かっと笑い飛ばした。「この前の大天使は勘が良かった。いきなり『魔境』に来やがるとは。だがお前はダメダメだよ。『椅子』がなければ何も見えやしないらしい」


 預言者は遂に腰を落として身構えた。


「お前、やはり奇神か!?」

「さあな! 奇神はイエスもノーも簡単には言わねえさ!」

「待て、どこに行く!」

「俺は忙しいんだ。次は人間共にヒントを散撒かねえと。そのあとは宣伝さ」

「ま——」


 がくん、と預言者は膝をついた。突如襲ってきた頭痛に顔を歪める。唸りながら弱々しく突っ伏してしまう。


「お、まだ残ってやがったか」道化師は瓦礫から降りて苦しむ預言者の耳元で囁いた。「ラグナロクを楽しみに待ってろよ。神々に魔王ってやつを見せてやる」


 道化師はうずくまる預言者を見下した。


「じゃあまたな、……」


 言葉を残して、道化師は煙のように消えた。

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