第九話。浮かぶ謎。

「解読できたよ。えっと……」

「エドガー・ラムシュタイン」

「エドガー。悪いね。獅子という呼び名は知っていたんだけど。そうそう、『完成を祝して』だな。そう書いてあると陛下に伝えてくれ」


 帝王に頼まれ、石盤を学院のペルット研究機関に渡した。

 獅子もといエドガー・ラムシュタインは、てっきり解読にはそれなりの時間がかかるものだと思っていたが、それこそ一時間ほどで終わってしまって、拍子抜けしていた。

 拍子抜けと言うと、エドガーは『博士』と呼ばれる人間は決まって白衣を着ているイメージを持っていたが、この男に限ってはそうでもなかった。普通のシャツに、普通のズボン。学者らしいというところは、もうすぐ四十代に差し掛かる年齢としては薄過ぎる髪と、眼鏡くらいのものだった。


「こんなに早く終わるものなのか、博士」

「ペルジャッカの知識大系を手に入れたのは大きかったね。僕もペルジャッカの研究機関に通っていたとは言っても、教えてくれることと教えてくれないことがあったらしい。もしペルジャッカ占領前なら、解読なんて一文字もできなかっただろう。この石盤に描いてある文字くらいは、すぐに分かった」

「『完成を祝して』……。何の完成だ」


 そこまではわからない、という意思表示なのだろう。とぼけた顔をして肩を上げた。


「でも道化師というやつに聞けば何かわかるかもしれないね。この石盤に描かれているのが道化師本人かはともかくとして、まったく同じ恰好をしているから」

「道化師本人ではないとはどういうことだ? こんな恰好、なかなかいない」

「例えば『道化師』という存在はただの記号なのかもしれない。『道化師」という存在だけが太古から連綿と受け継がれていて、今僕らが知っている『道化師』は第〇〇代目の道化師だとか、そういうこともあり得るのかもしれない。普通に考えてこの石盤が描かれたのは六百年前だ。この仮面の男が生きているということよりは、信じやすい仮説だと思うよ。仮面を被っているから、そういう方法もやりやすいだろうね。あるいは現在の『道化師』はペルットの時代の『道化師』を何かの文献で呼んで憧れたから真似してるとか。ま、あり得ない話じゃないと思うけどね」


 エドガーは返事をしなかった。

 さすがに後者は馬鹿げていると思ったのだ。道化師本人を目の前にしたことがあるのならば、きっとそんな推測はできない。

 道化師はそれこそ預言者と同格だとエドガーは考えている。

 彼がそんな浮き足立った偽物のはずがないと。



*



 中央大陸の北東の国、ラクエール。港はあるが、便数は少ない。ラクエールはペルジャッカの属国ではあったが、独立前に領土として属していたトリーフという国の風土色が強い。

 ペルジャッカ侵攻の際に滅茶苦茶に破壊されたのは、帝国の行軍道に巻き込まれた小さな街のいくつかと首都周辺だけであり、他の場所はほとんど無傷の状態で帝国に占領された。

 だから今リリーたちがいるこのラクエールも、傷跡は目立たず、そして帝国領土となっている。

 しかし街の様子ががらりと変わることもなかった。帝国の軍服を着た屈強そうな男たちが街を闊歩しているのは確かに異様だが、軍人も必要以上に干渉してくることは無いようだった。


 リリーたちは偽造の身分証明書で検査を済ませ、街に入った。レイモンドの顔がもしかすると割れているかもしれなかったが、問題無く入ることができた。

 戦場をあれだけ滅茶苦茶にするレイモンドだ。有名ではあっても明確な人相はまだ記録されていないのだろう。

 人ごみの中をエイクが先頭に立って歩く。道化師はエイクに落ち合う場所を伝えているのだ。エイクは流れ来る人をかき分けながら先を急ぐ。ちらちらと後ろを振り向いて、リリーとレイモンドがついてきているのを確認していた。


「なあエイク、お前記憶が無いっつってたけど、リリーと会う前はどうしてたんだよ」

「道化師と一緒に、戦ってた。いろんなところで。それより前は、絵本作家のトムっていう人に、育てられてた」


 トムという名前を出すとき、エイクの顔は少し明るくなった。

 どうやら良い思い出がたくさんあるらしい。


「優しい人だったよ。地獄から出たら、すぐに拾われた。名前も、エイクも、サルバドールも、その人から。本当の親を探して、ぶん殴ってやれって、トムが言ってたから、いま探してる」

「ふうん……お前、無口ってわけじゃなくて喋るのが下手なだけなんだな」


 混雑していた表通りを抜け、裏路地を進むと、寂れた扉があった。

『レバーショット』と書かれている。酒場だ。


「趣味の悪い名前だぜ」レイモンドは毒を吐きながら店に入った。

 店に入るとすぐそこに地下に降りる階段があった。石段は塗装もされていない。

 垂れ目のウェイトレスがエイクたちの人数を確認する。口ごもるエイクに慣れているのだろう、リリーが素早く三人だと答えた。階段は降りずに通り過ぎ、店内に案内する。

 まだ酒場に入るには早い時間だからか、十席ほどあるホールはがら空きだった。エイクたちは店の隅の席を選んだ。

 むき出しのレンガの壁。ところどことレンガが飛び出しており、そこに小さな人形や楽器が紐で下げられている。内装には凝っているようだ。


「こうして三人で飯食うことも少ねえな」レイモンドは手書きのメニューブックを開きながら言う。「いつも歩き食いか交代で見張りをつけながら飯を食う。そんなんじゃ人間はダメになるんだ。飯っていうのはただ食えば良いってもんじゃない。楽しい気分も一緒に味わうものさ」

「この三人で食べるのがおいしいとでも」


 リリーは鼻で笑いながら言った。エイクは口をぱくぱくさせて喋ろうとするが、なかなか言葉が出てこない。


「良いさ、良いさ。お前らが喋らねえなら俺が喋ってやるんだ。さすがに一人ぼっちで喋るのは見た目的にもきついからな。お前らは俺の話を聞いてりゃ良い。カカシと喋るのは初めてだが……なに、誰でも初めてってのはあるもんさ……」


 垂れ目のウェイトレスが伝票を持って歩いてきた。


「俺はビール。エイク、お前は」

「え、あ、え、えー……」


 エイクはリリーの方を見た。リリーは特に表情を変えず、何でも飲めと返す。


「じゃあ、ビール……」

「私は何か適当に、アルコールの入っていない飲み物の中で甘いのをお願い」

「はあ、飲まねえの?」


 レイモンドは組んでいた腕を外しながら素っ頓狂な声を上げた。


「ここはカフェじゃなくて酒場だぜ!」

「やっぱり、俺、ビールはキャンセル。カヴァ茶を、ください」


 エイクの再オーダーにレイモンドは口を開けた。


「お、おい! 俺は飲むぞ!」

「別にあなたにもエイクにも飲むなとは言ってない。私が飲まないだけよ」

「下戸なのか?」

「人並みには飲めるわ」


 エイクはレイモンドをリリーを交互に見るだけだった。会話に入りこむスキルがまだ十分でないようだ。さっきから何か言い足そうに口を開けるが、ふたりの会話の流れに乗ることができず、悔しそうに口を閉じる。


「じゃあなんで飲まないんだよ!」

「飲まないと決めてるからよ」

「ははん」


 レイモンドはそれを聞いてにやりと笑った。


「さては男絡みで何かあったな。酒の席で女は弱い——」

「エイク!」


 レイモンドの話を遮りながら、リリーが怒鳴るように言った。

 エイクは机に置かれていたフォークに手を伸ばしていた。


「トイレはあそこよ。フォークを置いて。ゆっくり立って。食べる前に行ってきなさい」

「…………」


 握ったフォークを離し、リリーの言う通りエイクは席を立った。

 レイモンドは、立ち上がったエイクを一瞬怪訝な目で見て、また話を始める。


「なんだ、リリー。俺は女を酒で潰すようなことはしないさ。俺は紳士だからな! 俺は女を大切に扱う。大抵の女はそれで喜んでくれるが、お前はどうやら違うらしい。男に慣れてるな。その見てくれだから当然だろう。どうだ、何人と寝たんだ——」

「……っ!」


 レイモンドの言動が許せなかったのか、エイクは拳を振り上げて歯を食いしばった。


「エイクやめなさい!」


 背後で振り上げられた凶拳にレイモンドが反応できるはずもない。

 山小屋の壁をも吹き飛ばすエイクの拳がレイモンドの頭に突き刺さる——そのとき。

 道化師が背後から現れ、エイクを殴り倒した。


「ったく、アブねえガキだよ、伽藍洞!」


 道化師は激高していた。いつものクールさがまるで無い。

 派手に吹き飛んだエイクにつかつかと歩み寄り、革靴で顔面を踏みつけた。


「てめえのパンチで『海獣』が死ぬところだった! 死んだらどうしてくれんだよ、このクソガキがあ! 馬鹿力だけじゃあ死海流域は渡れねえんだ!」


 レイモンドは顔を引きつらせながら怒鳴る道化師と、突っ伏したエイクを見ていた。レイモンド自身は何が起きていたかわからないのだ。


「だって、あいつが!」


 エイクは床を叩きながら負けじと怒鳴り返す。


「リリーを侮辱した!」

「だからなんだ、伽藍洞! ヨルムンガンドはてめえの女か、ああ?」

「違う!」

「そうだろ、そうだろ。わかってるじゃねえか……」


 道化師は足を離した。

 エイクはすぐには立ち上がらなかった。突っ伏したまま拳を握りしめて、そして解く。ゆっくりと立ち、むすっとした顔で「ごめんなさい」と呟いた。


「ヨルムンガンドちゃんよ、お前も気をつけろ。先に洗いざらい海獣に話しときゃ良かったんだ。こいつは紳士さ。わかってる爆弾には触らん」

「リリー! 言う必要無い!」エイクはまたも食って掛かった。「なんで言わせるんだ、アルフ!」

「うるせえな、黙ってろ伽藍洞。おいおいヨルムンガンド! 躾がなってないぜ、躾がよ! 愚図るガキには問答無用で拳骨だろうが。だいたいどうだ、んなくだらんことまだ根に持ってんのか?」


 リリーは道化師を睨みつけた。

 底なしのぎらつきを放つ目に、道化師は唾を飲み込んだ。

 酒場の空気が凍りつく。


「持ってるわよ、そりゃ」リリーは吐き捨てた。「根に持たないわけないでしょう。私をなんだと思ってるの。だいたいあのとき言ったでしょう。私の目的は世界に対する責任を果たすこと。……それは復讐も兼ねていると。あなたとは利害が一致しただけだと」

「……そうか。そうかそうか。そうだった……」

「お、おい」と、レイモンドがやっと口を開いた。「俺が置いてけぼりだ。なんだよ、責任って。そこらへんを聞いてなかった……」


 道化師は唖然とした様子でリリーを見る。


「おいおい、何も言ってないのか!」

「……獅子と戦わせるとは言ったわよ」

「んなもん答えになってねえだろ。まあ、もう言葉にするまでもなくわかってるとは思うが……。おい海獣、ヨルムンガンドはな、帝国を潰そうと思ってんのさ。こいつは二つの責任を持っている。一つは来るべきときまで機密事項だから言わないが、もう一つは『唯一の帝国抑止力』と呼ばれたから帝国を何とかする責任があった。と彼女は言いたいわけ。ついでにひどいこともされたから復讐も兼ねて——」

「アルフ、このやろうーっ!」


 エイクは拳を作って道化師に飛びかかる。


「ああ、もう、うるせえな!」道化師は渾身の力でエイクの顔面を蹴り飛ばした。「話が進まねえんだよ!」


 吹っ飛んだあげくに太い柱に頭部を激突させたエイクは、そのまま気を失ってずるずると倒れた。鼻血が出ていた。白目を剥いている。

 レイモンドは大口を開けて冷や汗を吹き出す。


「おいあれ死んだだろ……」

「死なねえよ。それよりヨルムンガンド。こいつに全部……いや、半分話すぞ。良いな」

「良くないわよ」

「あっそう。よく聞け、海獣。自分の命の危険を減らすためにも聞いとけ。伽藍洞の地雷を踏むことの無いようにしろ。あいつ、今マジでお前のド頭吹っ飛ばす気だった」


 リリーは何も言わなかった。ただただ俯き歯を食いしばって、拳を強く握りしめているのだった。あくまで無表情を取り繕っているが心なし、わなわなと震えているようにも見える。


「ああそうだ、ヨルムンガンド。翌朝、宗教大陸国家リライジニアに出発しろ。帝国軍は十日後に沖に見えるはずさ」


 リリーは道化師を睨みつけるだけだった。

 そのタイミングで、垂れ目のウェイトレスがガタガタと震えながら飲み物を持ってきた。世間の道化師に対する認知度には差がある。それに知っていたにせよ知らなかったにせよ、異様な存在であるには変わりない。

 道化師は、ウェイトレスに向かって。誰も呼ぶなと釘を刺して追い払った。


「良いか、海獣」


 そして道化師は語りだす。

 リリーの目の前で。

 彼女の最大にして最悪のトラウマを……

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