第七話。山林檎。

 仮面の男が、羽の生えた『何者か』の頭を鷲掴みにしている。

 豪雪。

 横殴りの雪が降る中、『何者か』のだらんと垂れた腕から伝う血の筋が、指先からぽたりぽたりと点滴のように落ちていた。

 赤い血は雪に触れると染み渡り、そして降り積もる吹雪に白く上書きされる。

 右手に持った弓を引く力は、もう残っていない。


「木っ端じゃなくて大天使が出張ってくるってことは、遂にトールの野郎、オーディンに会えなくて焦り始めたか」


 仮面の男……道化師は、愉快そうに呟いた。


「神様ってのは随分ケツが重いよなぁ。アレから二百年も経ってんだぜ」

「トール様は……孤立していた……」


 持ち上げられた『大天使』は、やっとの思いで声を絞り出す。


「貴様……奇神か、奇神ロキなのか……? まさか、あの『追放の日』に息絶えたはず……」

「さあな、俺が奇神ロキだとして、お前が知ってる奇神ロキは、そんなくだらん質問にハイソウデスと答えるやつだったのか?」


 大天使は震える手で、道化師の腕を掴む。


「主神は……オーディン様はどこにいる……!」

「人を尋ねるために俺と会ったのか。違うだろ」


 道化師の左腕に氷が纏わり付いていくのが見えた。

 大天使の背に鳥肌が立つ。雪の降る方向が変わった。


氷の魔人ヨクル!? どういうことだ、さっきは影の魔人スカジの力を……まさかお前、いくつも……!」

「お前は俺を殺しにきたんだよなぁ、大天使」


 その途端、雪が一瞬止まり、そして無数のつららと化して降り注ぐ。

 拘束された大天使の肌に突き刺さる。背中の羽を破り、もぎ取った。道化師を避けるつららは、また大天使の急所も同様に避けていた。一撃で殺せる部位だけ無傷で残り、他の部分は毛穴全てに刺さるように細いつららが突き立てられる。

 道化師が手を離すと、大天使は為す術無く崩れ落ち、ばきばきとつららを折りながら膝を折った。


「きさま……まさか……ラグナロクを……」


 体が急激に冷えていく。末端から血の気が無くなった。指先が青くなる。血管が、血が凍っているのだ。刺さったつららから冷気が染み込み、血液を凍らせていく。

 内臓が固まり、断末魔を上げることもできない。凍った目蓋では瞬きもできない。眼球も動かなくなっている。その中、道化師の靴だけが見えた。

 強過ぎる。

 この男は強過ぎる。


「じゃあな、大天使。悪いが俺は忙しい」

 なんの躊躇いも無く、氷漬けの大天使の頭を砕いて、ぼりぼりと

 仮面をずらして見えた顎に、真っ赤な砕氷が纏わり付いた。



*



「なぁ、エイクの能力はなんなんだ?」


 がたがたと揺れる馬車の中、レイモンドは食いちぎった干し肉を噛みながらリリーに聞いた。

 リリーは馬車の前方を見る。エイクが馬車の手綱を握っている。聞こえているのかどうか。エイクの耳には届いているのだろうが、いつも通りぼうとしていて気付かないのかもしれない。

 気付いていないフリができるほど、器用な男ではない。


「それも仕事の報酬に入るわ」

「はあ?」


 干し肉を飲み込んだレイモンドが声を上げる。


「俺は仕事仲間の力が知りたいだけだぜ! 仕事終わってから聞いちゃあ意味ねえだろうが!」

「仕事の報酬になる、とだけ言っておくわ」

「はっ! なんだってんだ、まったくこのやろう」


 どかりと足を組み直し、露骨に不機嫌さを演出する。

 リリーは臆することなく淡々とナイフで山林檎を剥き終え、小さく切っては口に運んだ。フム、と目をわずかに見開いて林檎を見つめた。山林檎は特徴として、芯付近の果肉に蜜が凝縮される。まだその芯は見えていないというのにこの甘さ。どうやら当たりを引いたらしい。


「あなた、どうしてそんなに知りたがるのよ。世界のこと、ペルットのことについて」

「あん? そりゃ知りたいからさ。それ以上の理由はねえよ。こんなんなっちまって、もう学者なんて帝国にしか必要無い状況で、俺は学者になれねえからなァ。俺は世間のみなさんに漏れずノワル教信者だが、神様なんて都合のいいときにしか縋らねえし、そんな男が、お国のためにー! なんて仕事は相手が帝国じゃなくてもできねえよ。だからただの好奇心だろうな。つまり理由は、知りたいから、だ」

「そう。その神様についてだけれど、前金として教えておくとペルットを滅ぼしたのはそいつらよ」


 急に意味のわからないことを言い出したリリーに、「はあ?」と声を上げた。


「神様ったってお前……神様なんざ……まあ、良いか、なんかの比喩のつもりかよ? その『神様』が一体なんだってペルットを滅ぼすんだ。神様は、見守ってくれてるもんじゃねえのか」

「恐れたのよ、人間のちからを」


 意味深に言いはするが、それ以上のことには口を噤んだ。前金としての報酬は、ここまでらしい。あとは仕事をした後のお楽しみというわけだ。

 何をもったいぶる必要があるのかとも思ったが、先にレイモンドが知りたいことを全て知ってしまったら、仕事の依頼に対する報酬がなくなってしまうからだろう。

 もらうだけもらって逃げる性格ではないが、レイモンドもそれには理解を示した。そこに文句をつけるほど子どもではない。

 簡単に答えを済ましたリリーは、席を立とうと背もたれに手をかける。長い黒髪がさらりと肩を滑った。

 レイモンドはそのとき、


「おい、おい待てよ」


 ぎらりとリリーを睨み上げた。


「なに」

「あいつだよ」


 レイモンドは顎を引き、手綱を操るエイクを指差す。


「エイク・サルバドールはひょっとしてヤバイ奴なんじゃねえのか。今この場で無理に教えろとは言わねえさ。だがな、お前、ちゃんと全部知ってて連れ回してるんだろうな。正直あいつは、イカれてると思うぜ。俺はあいつと一緒に仕事をするんだろ、大丈夫なのかよ」


 エイクたちと合流してからいくつかの小競り合いに顔を突っ込んだが、エイクはまるで怪我など微塵も恐れていないように敵陣に突っ込み、そしてその怪力で全てなぎ倒して帰って来る。正気の沙汰とは思えなかった。

 それだけ聞くと、リリーは立ち上がる。

 答える気はない。ということだろう。だがレイモンドにとってはそれが答えだった。これも、仕事の報酬になるのだ。

 ぎしりと軋む馬車の床を踏みしめて、リリーは外に出た。


「交代よ」


 エイクはきょとんと目を落とす。リリーは奇麗に剥いた林檎を半分に切り分けて、果肉が多い片割れをエイクに手渡し、その代わりに手綱を奪い取る。


「それでも食べてなさい」


 戻れ、と指示されたエイクは素直に馬車の中へ這入っていった。


「……なんだ、良いことあったのかよ」


 席につくエイクを見て、レイモンドがいぶかしげに目を細める。

 エイクはもらった林檎を一口大に割って食べる。甘い。噛むととろみまで感じる果汁が染み出た。咀嚼すると、鼻腔いっぱいに香りが広がる。


「うん」


 レイモンドの前でエイクが笑うのは初めてだった。

 満面の笑み、というわけではないが、今まで仏頂面だった男が嬉しそうに唇を吊り上げると、笑顔の効果は数段階跳ね上がるらしい。

 エイク・サルバドールは山林檎を見せびらかす。


「美味しいけど、あげないよ」


 レイモンドは溜息をついて外を見るが、手綱を握るリリーの顔は、ここからでは確認できなかった。


「はあ、おいリリーよ。俺とこの幸せそうに山林檎を頬張っている良い歳してそうな青年は、いったいどこに向かっているって言うんだよ」

「ラクエール」


 それは中央大陸北東海岸にある国だ。


「そこから宗教大陸国家リライジニアに渡って、」


 リリーは手綱を引いた。馬を真っすぐ走らせる。





*



「石盤?」


 帝国帝都エルズアリア。北西大陸の海岸線に位置する不落の都。石畳で舗装された城下町を馬車で抜け、エルズアリア大橋を渡ると見えるエルズアリア城。火山付近で採掘される難解石で組み上げられた城塞は、その隙間を埋める気硬性硬質石膏によって想像を絶する頑丈さになっている。目覚ましい赤色で塗られた頂点の高さは、もちろん帝都一となっており、歴史と威厳に満ちていた。

 その城の最奥、正に帝王の執務室の広い机に、古ぼけた汚い石盤が運び込まれた。

 帝王アルセウス・イエーガー。

 獅子エドガー・ライムシュタイン。

 世界を収める王になるかもしれない男と、帝国最強の戦闘員が並んで腕を組んでいる。


 石盤は、エドガーがペルジャッカ跡地で発掘したものだった。

 学術国家であったペルジャッカを滅ぼしたあと、軍神ヨルムンガンドと讃えられていたリリー・エピフィラム家の生家からある資料が出てきたため、帝王は気になってペルジャッカの発掘をエドガーが率いる部隊に頼んでいたのだ。ペルジャッカは古代文明ペルットの跡地に建国されたと言われている。掘れば何が出てきてもおかしくはないだろう。

 瓦礫の中からこの石盤を発掘したところで、作業を初めてしばらく経っていたため、一度帝都に戻ってきた。


 石盤には絵が描かれている。掠れたり石盤自体が崩れたりで欠けているいる部分はあるが、大部分は見るに叶う状態で残っていた。

 描かれているのは三人と、一人の足。その三人のうち一人が問題だった。

 左から順に、霞んで腰から上は見えなくなっているが、人間、それも子どもの足が二本、その右隣に子ども、老人、一番右に描かれた一人が……道化師。仮面を被り礼服を着た男が、立っているのだ。

 椅子に腰かけている老人を挟むように、右手に道化師、左手に子どもが立っている。子どもに注視してみると、膝丈のズボンの模様が、霞んで見えなくなった人物とお揃いだった。

 エドガーは道化師を見たことがあった。発掘作業をしている際に、一度預言者が襲撃してきたことがあったのだが、突如として現れた道化師が、預言者の力をたったひとりで封殺してみせた。


「ペルットが滅んだのは六百年前と言われているな」


 帝王アルセウスは威厳のある低い声で唸った。北西大陸の血筋を色濃く受け継いだ赤髪と赤髭。堀の深い目には野心に輝くぎらつく瞳が居座っている。帝王を名乗るには少しばかり刻まれる皺が少ないようにも見受けられるが、それが重い責務にも膝を折らぬ強靭な精神を体現していた。

 アルセウスは肘をつき石盤を見つめる。


「こいつはすぐに学院に回す。獅子よ、お前はリリー・エピフィラムの情報をまとめてくれ」


 帝王はエドガー・ライムシュタインを獅子と読んだ。かつての侵略戦で、怒濤の活躍を見せたエドガーに対して与えた称号だ。国を守る獅子。エドガーにぴったりの勲章だ。

 リリー・エピフィラムの生存は既に帝国にも及んでいた。


「ラグナロクを乗り越えるために、あの女の力が必要になるかもしれん」

「うまく制御できますか」


 エドガー・ライムシュタインはリリーを目の前にしたことがあった。リリーを監獄島アルカルソラズに幽閉中、その汚物にまみれた顔を見たことがあった。何日も水浴びをせず、しかもぼろ雑巾のような服を着せられてもなお、プライドを捨てない気高さと、そして見る者を惹き付ける魔的な魅力。エドガーが未だ獅子の名を冠する前のことである。今より幼きエドガーは、しかしこれが本物のカリスマなのだと理解した。

 あの女の力を借りるということがどれだけ危険なことなのか、帝王が理解していないはずはない。


「だからあの捕虜は丁重に扱わねばならん。今からリリーが生きていたことを伝えに行くが、一緒に来るか」

「……いえ」

「そうだったな」


 アルセウスは僅かに笑い、エドガーを退室させた。

 エドガーはその『捕虜』のことが好きではなかった。確かに不気味な笑みを常に湛えている奇妙な女だ。見透かされているような気がする、とエドガーは二度と捕虜を見ようとはしなかった。

 アルセウスは連れを伴い、捕虜の収容所に向かうべく椅子を立つ。エドガーは丁寧にお辞儀をして、退室した。

 ペルジャッカ侵攻の際に、敵国はかなりの抵抗を見せた。文民ですら爆薬を抱え込んで、帝国の捕虜となるくらいならば……と自爆をしていたという有様だ。文明国とは思えない野蛮さに、当時は呆れたものだった。必然と捕虜の数はかなり少なくなり、捕まえたとしても収容所で舌を噛み切る者が後を絶たず、結果残っているのはたったひとり。


「レイラ・エピフィラム」


 自決ではないが、奇病で死んでいったエピフィラム家の男の、その娘だそうだ。男がリリーのことも『娘だ』と口走るのを耳にしたため、恐らくレイラとリリーは姉妹なのだろう。見た目からして、レイラが姉ということになる。

 レイラに眼球が無かった。生まれつきなのか病で失ったのかはわからないが、ふたつの眼窩は空っぽだ。

 アルセウスが牢獄に着くと、レイラは相も変わらずほのかに微笑していた。独房の暗がりが不気味さを引き立てていた。


「妹が生きていたそうだ」

「妹……ああ、リリーのこと。知っているわ。あの子が死んで、私が気付かないはずはないもの。今ごろ好物の山林檎でも食べているんじゃないかしら。ふふ、あの子、山林檎を食べるとき、私以外はたとえ家族であっても分けないのよ。意外と可愛いところもあるでしょう」

「ふん、気付かないはずがない、か。姉妹の愛というやつか?」

「そんな短絡な考え方しかできないならば、ラグナロクには首を突っ込まないほうが良いわ、王様さん」


 帝王は目を見開いた。レイラの挑発に怒ったのではない。ラグナロクのことを知っていることにも驚いたが、考えてみればレイラはペルジャッカの人間。全学問の先端を突っ走っていたペルジャッカで生まれ育ったのなら、ラグナロクについて知っていてもおかしくない。問題はそこではないのだ。


「なぜ俺がラグナロクを止めようとしていることを……知っている」

「それをあなたに教えても無駄なのよ。言っておくけど、神の力は強大よ。剣の一振りで、あなたは大地を割れるかしら?」


 レイラの声はあくまで冷たかった。

 アルセウスを煽っているのではなく、淡々と警告している。


「まるで神の力を見てきた風な口だな」

「見た、と言ったら?」

「目玉も無い貴様に、何が見えるという。馬鹿馬鹿しい。神だと! ラグナロクはただの比喩だろう……神をも連想させる大災害のことを言っているのかもしれん。あまり粋がるなよ、呪われたエピフィラム一族」


 レイラはまたしても淡々と答えた。


「王様さん。あなたの推測は、おおむね外れよ」


 光の見えないレイラ・エピフィラムは、淡く微笑しながら、言うのだった。

 本物の恐怖を、知る者として……

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