第三話。雷神。

「何百年経ったと思っている! なぜ奇神一匹の死体も持ってくることができんのだ!」


 雷神は怒り狂っていた。

 地平の限りまで、白い花で埋め尽くされた土地。壁は無く、ところどころに聳える白銀の塔には、美しい古めかしさがあった。塔は天空を突き刺すような高さだ。雲一つ無い青空。太陽がきらきらと光り輝いているが、決して暑くはなかった。

 極楽という言葉が体を為したような世界だった。

 その地で、雷神は目を血走らせながら怒っていた。


「下界を見渡すための目は、主神オーディンが持っているのだ! なぜ帰ってこない!」


 荒れる雷神は目の前にかしづく大天使に、怒鳴り散らす。


「せめて我が父オーディンを探し出せ!」

「下界に降りて帰ってくる者がおらぬ以上は……」

「わからぬか!」


 トールは石の腰掛けを蹴り飛ばしながら、荒々しく立ち上がった。その右手には、ばちばちと光るミョルニルが握られている。


「もう一度ラジゴールのような化け物が現れてみろ! このままではそのときこそが我々の終焉だ! 全滅だぞ、全滅! ヴァルキュリアが全滅したのだ! 忘れていないだろうな、腑抜け! ラジゴールの手によって、我がヴァルキュリアが全滅だ! いいか、次に下界の拳が我々に届くとき! 必ずギャラルホルンは鳴り響く! 見えなくとも貴様とて感じることはできるだろうが! ペルットの屑どもの息づかいを! この地に爛々と突き刺さる邪悪な殺意を! あの日から四百年が経ちラジゴールが現れた。それから更に二百年が経つ……またぞろ、やつのような怪物が現れてもおかしくない! 貴様らが日和っているうちに、敵は力をつけている!」


 大天使は言い返せないようだった。雷神トールをこれ以上怒らせてしまっては、我が身に何が起こるかわからない。

 トールは大天使では愚か、他の神々の力をすべて合わせても勝てないほどの強さを誇るのだから。

 ラジゴールの一件は、雷神トールがいなければ被害はもっと大きくなっていた。魂を収集する天使であるヴァルキュリア達は全滅したが、逆に言えばそれだけで済ませることができたと言うことでもある。それほどまでにラジゴールは規格外だった。

 規格外のラジゴールと、そして謎の仮面の男。この二人の力の強大さは、ここアースガルズに住む神々ですら予想することができなかった。まさかあれほどの人間がまだいたとは思わなかったのだ。


 主神オーディンが『追放の日』の果てに行方不明になってしまったために、神々は危機に備えることができなかった。たった今、雷神トールが蹴飛ばした『世界を見渡す腰掛け』は、主神オーディンが座って初めて効果を発揮する。彼は神々にとって大切な存在だった。

 知恵の神であり、ここアーズガルズを統治する者として、そしてなにより下界を監視できる者として、オーディンは大きな存在だった。

 彼が行方を眩まして幾百年が経つ。

 最大の力を持つ者として雷神トールが代理でアーズガルズを治めてはいるが、元々トールは戦の神である。政治は得意とするところではない。その結果、世界は確実に疲弊していた。


 先の戦では、ラジゴールの恐るべき『能力』に驚愕し、そして仮面の男の『力』に恐れ戦いた。疲弊した神々はラジゴールの『能力』の前に屈し、仮面の男に次々と

 仮面の男の格好はまさに、『奇神ロキ』そのものだったのだ。

 切れ長の目でにやりと笑う、頬まで裂け吊り上がった口。神に敵対した神、奇神ロキと全く同じ仮面を被っていたのだ。

 雷神トールが『追放の日』にて体を吹き飛ばしたものの、息を止め損なったあの神と同じ形をした者が、規格外の『能力』を携えた男と共に再び神々へと牙を剥いた。

 雷神は恐れていた。

 もしあれが奇神ロキで、数百年も牙を研いでいたのなら。あくまでも戦力を削るための前哨戦として、『能力』を持った男と力を合わせてヴァルキュリアを全滅したとしたのなら。


 それは、本命の戦が、いつか始まるということだ。


 雷神トールは忘れていなかった。奇神ロキの言葉を。

 しかしロキを恐れて準備を整えているのは雷神だけだった。他の神々は、既に戦い方を忘れてしまっていた。堕落したアースガルズに再起の兆しは無い。雷神からしてみると、神々はただただ滅びを待っているようにも思えた。

 ペルットという強大な存在を破壊したことに安心しきり、幾百年も腰をあげようとしない愚か者ども。アースガルズの危機を見て見ぬフリをしている馬鹿者ども。雷神トールのはらわたは煮えくり返っている。怒りのあまりに、何人かの天使と神の魂を破壊してしまっていた。


下界ニヴルヘイムに降りろ、大天使」

「そ、それは……!」

「降りろと言っている! 我が父主神オーディンを探し出して力づくでも連れてこい! もしもラジゴールの残滓が見つかったのならば酷たらしく殺せ! もしも仮面の男がいたのなら、腕の一本でも千切って持ってこい!」


 雷神の怒号に立ち込めた雲が反応した。

 青紫色の稲妻が迸り、白銀の雷柱が降り注ぐ。


「と、トール様……」


 いつ我が身に尋常ではない熱量を持つ雷が突き刺さるかもわからない状況の中、大天使は完全に萎縮しながらも雷神に質問を投げかける。下界に降りた天使は一人も帰ってこないのだ。彼とてすすんで行こうとは思えない。


「トール様は、その間いったい何をするおつもりで!」


 雷神はその質問に答えた。

 彼の最大の武器であり必殺の技でもある、雷槌ミョルニルを右手に握りながら。


「日陰で腐った我らが同胞を、端から順に破壊してくれる」


 神々のことを思ってのことだった。

 このまま滅びるわけにはいかぬと、彼にしかできない方法で、このアースガルズを救おうとしていた。


「拳を鍛える者だけが残れば良い」


 それが正しい方法なのかどうかは、誰にもわからない……


「ラグナロクなど待たなければ良い……。同胞のくず共を殴り殺した後に、残った強き者で、こちらから戦争を仕掛けてくれる」

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