第二話。レイモンド・ゴダール、エイク・サルバドール。

 レイモンド・ゴダールの父親のどてっ腹を、少年の拳が貫いた。

 降伏を勧める帝国に対し、フロミシタイト国が徹底防衛を宣言してから四刻程度が経ったころだった。帝国陸軍は蟻でも蹴散らすような速度で、フロミシタイト軍を蹂躙していった。戦禍は街の中に及び、機銃を構える国民たちを兵士が力づくでねじ伏せる、阿鼻叫喚の様相を呈している。

 血しぶきを上げ父親が倒れ伏し、少年の懐から取り出されたナイフが母親の心臓を一突き。

 レイモンド・ゴダールは両親が淡々と殺されるのを、木の匂いがするクローゼットの中で眺めていた。恐らく目の前で起きていることは現実なのだと認識はしているのだが、今まで勉強を教えてくれていた両親が、桶を引っくり返したように血を流してもの言わぬ骸と化していくのが、どうしても信じられなかった。この目で見ているにも関わらず。

 そして抱きかかえて共に震えていた妹が……遂にたった一人の肉親となってしまった妹が……堪えきれずクローゼットを飛び出した。妹は小さな足で駆け出すが、母親と父親の元へと駆け寄るが、両親を殺害した金髪の少年は、転げ膝をつきながらも両親の体を抱きしめようとした妹の頭を、無造作に、そして力一杯蹴り飛ばした。

 こんなことがあるのだろうか。

 まだ十二歳になったばかりの妹の首から、硬い何かがへし折れる音がした。妹はふわりと浮き上る頃には既に死んでしまっていたから、墜落した血溜まりで母親の手に触れることが叶ったというのに、恐らくその感触を得る幸せにはありつけなかった。

 レイモンド・ゴダールの目は瞬きができなくなっていて、目尻と目頭から充血が始まる頃合いだった。開け放たれたクローゼットから、弱々しく這い出る。金髪の少年は、レイモンド・ゴダールと目を合わせた。

 この世の生き物ではない。

 レイモンドは強く思った。自分より歳下の少年が、父親の腹を拳で撃ち破り、母親の心臓を的確に刃物で突き刺し、妹の首を蹴折ってみせた。


「悲しいか?」


 黒髪の少年は、妙に虚ろな声でそう言った。呼吸が浅くなったレイモンドは震えながら、少年を見上げる。

 少年の目は、底なしのぎらつきを放っており、レイモンドが幼い頃に見せ物小屋で見た獅子のようだった。


「答えてくれないと分からない。こういうとき、お前は悲しいのか?」


 レイモンド・ゴダールは、腹の破れた父親と、胸を刺された母親と、首を折られた妹を見て、そして少年の顔をもう一度見た。


「答えてくれないのか。じゃあこうしよう。俺の話に答えてくれたら、俺は帰るよ。お前は殺さない。たくさんの人にそうしてきたから、たぶん怒られないと思う。一度、帝王様に見つかったこともあったけど、大丈夫だった」


 それでも答えないレイモンドの胸ぐらを掴み上げ、柱に叩き付けた。


「この柱の、この傷はなんだ?」


 柱には、短い傷はいくつもいくつも刻まれていた。全ての傷の横には日付と、そして名前。妹の『アン』と、自分の『レイ』。

 レイモンドは胸ぐらを持ち上げられて苦しいのか、上へ上へといこうとする。レイモンドの手に、柱の傷が触れた。日付と、そして妹の名前だ。

 ひと月に一度。レイモンドと妹は、身長を柱に刻んでいた。柱に背中をつけた妹の身長の高さでレイモンドが柱に傷をつけ、レイモンドの分は椅子に乗った妹がやってくれる。母親の高さの傷に、レイモンドはもうすぐ届きそうだった。

 この分だと父親よりも大きくなる。

 母親は嬉しそうにそう言っていた。


「何も答えてくれないな、お前は。泣いてばかりだ。泣くのは、悲しいからか? せっかく言葉をたくさん勉強して、話す練習もして、上手になったんだ。帝王様が、次は感情を覚えろと言ったんだ。頼むから教えてくれよ、お前は、悲しいから、泣いているのか?」


 外では野良犬の鳴き声から始まり、大砲が吠える音、銃声、悲鳴や断末魔、果てはげらげらと狂った笑い声が聞こえてくる。

 レイモンドは今すぐに耳を塞ぎたかった。ひとりになったという実感が頭の周りをふわふわと漂っていて、なかなか捕まえることができない。

 静かにしてほしい、この少年も黙って欲しい、真っ白な頭の中に、そんな感情だけがぼんやりと居座っていた。


「最後だ。お前は悲しいから、泣いているのか?」

「そうだよ、クソやろう!」


 レイモンドが振りかざした拳は、少年の頬を掠めることもなく受け流された。少年が拘束を解いて、レイモンドが尻もちをつく。それでもレイモンドは立ち上がって、少年に出鱈目な攻撃を仕掛けた。

 少年は全ての攻撃を受け切って、力任せにレイモンドを投げ飛ばす。

 横っ面を柱にぶつけ、視界がちらついた。


「そうか、やっぱり悲しいのか。悲しいから怒るのか。こういうときは、悲しくて、そして怒るのか。これは次の人に聞こう」

「待てよ、待てよ、このやろう……」


 さんざん破壊した家から出ようとする少年を、レイモンド・ゴダールはふらふらと追いかける。

 少年はレイモンドを待った。そして自分の肩を捕まえるその手を捻り上げ、またしても乱暴に投げる。気力を削がれたレイモンドは最早立ち上がることができなかった。


「待てって……」

「なんだ」

「名前を教えろ……お前の名前を!」

「エドガー・ライムシュタイン」


 少年の名前は、帝国陸軍の特別無階級遊撃部隊に属する凄腕の戦士の名前だった。戦いに疎いレイモンドでも、この時勢、その名を聞かなかったわけではない。

 しかしこんなに幼い、自分よりも歳下に見える少年がそうだったとは、夢にも思わない。

 噂によれば、獣のように獰猛な男のはずだった。

 だがレイモンド・ゴダールは、拳を強く握りしめて、エドガー・ライムシュタインを真っ赤な目で睨んだ。


「殺してやる」


 エドガーは振り返った。


「みんなそう言うんだよ」

「絶対に殺してやる、エドガー・ライムシュタイン! 俺だけは必ず! お前を殺してやる!」

「みんなそう言う」


 エドガー・ライムシュタインはそう言い残して、レイモンド・ゴダールの家から出て行った。床はめくれ、壁には穴が空き、家族は死んだゴダール邸から扉を開けて出て行った。

 レイモンドの体から力が抜けた。

 ひとりになってしまった。霧のような感覚がようやく実感としてレイモンドの胸に染みてくる。


 戦争なのだ。

 自分のような境遇の子どもはたくさんいて、エドガー・ライムシュタインはきっとそれをたくさん見て来ている。自分のことなど明日には忘れているかもしれない。どころかこの国に攻め込んだことも時間が経てば忘れてしまうかもしれない。

 それでもやらなければならないと思った。

 レイモンド・ゴダールは立ち上がる。

 まずは帝国軍から逃げ延びる。全てはそれからだ。立ち止まってはいけない。父親も、母親も、妹も殺されたが、自分はまだ生きている。

 毎日ご飯を作ってくれた母親は、自分がこんなところで死ぬことはきっと望んでいない。

 毎日勉強を教えてくれた父親は、自分がこんなところで立ち止まることをきっと望んではいない。

 毎日一緒に遊んでいた妹は、自分がこんなところで泣き伏せることをきっと望んではいない。

 大好きだった家族の骸を後にして、レイモンド・ゴダールは扉を開けた。

 火の海をくぐり抜ける覚悟は、既に出来ていた。


 今は逃げるのだ。

 きっと、仇を討つために。



*



「ああ、こいつは手遅れだ、帰るぜ、伽藍洞の小僧。奴さん、本気だぜ。こりゃ次のペルジャッカ戦もできることはなさそうだ」


 フロミシタイトが帝国によって蹂躙されていくのを、男が単眼鏡で覗いていた。男は黒い礼服を身に纏い、顔には頬まで口裂けた気味の悪い笑顔の仮面を被っている。奇妙な男だった。

 ふたりが着いたときには既に公的機関は全て機能を停止し、首都は炎上、帝国との兵力差は圧倒的で、どう足掻いても戦況が覆る状態ではなかった。

 伽藍洞の小僧、と呼ばれた赤毛の少年は溜め息をつく。


「おいおい、なんだよ、文句あるのか? 別にこの国に義理はねえだろ」

「いつになったら名前を覚える。エイク・サルバドールだ!」

「あん? 口下手のくせに今日はよく喋りやがるぜ」


 手綱を上手に操り、仮面の男はエイクが乗る馬を驚かせる。


「うわ、やめろ!」


 エイク・サルバドールは馬の制御を失い、簡単に落馬する。

 もちろん着地に失敗し、手綱を握りそびれたまま指を地面に突いてしまい、鈍い音が響いて、あり得るはずの無い方向にへし折れた。


「ぎゃっ……」


 くぐもった悲鳴を上げる。大声を耐えたのは、隣の男に怒られるからだ。

 それくらいで叫ぶなと、別の指まで折られかねない。

 エイクが痛みに堪えていると、折れた部分がぐにぐにと蠢き始める。皮の内側で何かがのたうちまわっているようにも見えた。蠕動が収まるころには、折れていたはずの指は繋がっていて、握りしめる事も、手を開くこともできる。


「危ないから、やめろ! 俺が『帰還者』じゃなかったら、大変なことだ!」

「帰還者ねえ」


 へたくそな喋り方に、仮面の男は詰まらなさそうに呟く。エイク・サルバドールが再び馬に乗ろうとするときに、馬の尻を蹴り上げる。痛みに驚いた馬はエイクを蹴り飛ばしつつ距離を取った。

 涙目で顎を押さえて、エイク・サルバドールは仮面の男を睨みつける。男はげらげら笑っていた。


「アルフ! やめろ! 死ぬかもしれない!」

「お前はこんなもんじゃ死なねえよ。それに……こんなに呑気にしてられるのも今のうちだぜ、伽藍洞」


 エイクは仮面の男……アルフから離れたところで馬を捕まえ、そのままそこで乗る。邪魔をされないためだったが、アルフの興味はもうそこには無く、眼下に広がる『戦争』に目をやっていた。

 仮面を被ってはいるが、アルフがどんな表情をしているのかエイクには予想がついた。この男が黙るときは、何か真面目なことを考えているときだ。

 エイク・サルバドールは不機嫌そうに戻ってくるが、アルフに仕返しをすることは無かった。


「お前には、神様を殺してもらわなきゃならねーんだからなぁ、伽藍洞」


 アルフは手綱を振ってフロミシタイトに背を向ける。消え入るような呟きは、エイクの耳には届かなかった。


「おい、お前ちゃんと刃物の練習をしておけよ。拳骨だけじゃ駄目だ。剣を覚えろ」

「苦手だ。刃物は」


 エイク・サルバドールは相も変わらず不機嫌そうな顔で、アルフの背を追った。


「お前、あと二、三年で俺の手から離れてもらう。別のやつを紹介してやるから、そいつについていけ。かつて軍神と呼ばれた、リリー・エピフィラムだ」

「軍神……軍神ヨルムンガンドか。女だったのか」

「お前はもうちょっと世の中のことを勉強しろ、馬鹿野郎」

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