そして始まり

 深く深く眠っていた。

 あれからどれくらいの時間が経っているのかわからない。

 ふと気付くと、温かな手が何度も繰り返し撫でてくれていた。

 ぼんやりと浮上した意識で見上げた瞳は、甘くとろけた色合いをしていた。

 蜂蜜色の瞳が嬉しそうに微笑んでいる。

「んと……。綺麗な橙色だから、鈴橙りんじょうって呼びます」

 小さな手が木製の鈴を撫でた。

 時を経たその鈴は、柔らかな木独特の風合いが美しい。

 鈴橙と名付けられた鈴は、自分を見つめてくる優しい瞳の奥底に何かを感じた。

 それが何なのか、まだわからない。

(綺麗な、瞳ですね)

「……ふふ、ありがとう。これからよろしくお願いしますね」




 玄冬国げんとうこく

 今日も変わらず、夜半過ぎから降り出した雨は、朝日が差す頃にはすっかり上がっていた。

 洗われた空気の中、人々はそれぞれの仕事に精を出す。

 玄冬宮げんとうきゅうでも同じように、朝から役人たちが働いていた。

 昨日からの引き継ぎ、地方からの報告、城下町の人々の対応など、仕事は次から次へとやってくる。

 そんな中、玄冬宮の主である黄春おうしゅんの朝は早くない。

 雨がすっかり上がり、地面も乾き切る頃合にのんびりと起き出す。

 侍従が用意してくれる食事は朝食なのか昼食なのかわからない。

「あたしが朝早くから働く必要ないよね」

 というのが、玄冬国女王である彼女の言い分だ。

 役人たちからすれば「なぜ?」というでたらめな言い分だったが、実際、黄春が昼過ぎから政務に取り掛かっても、特に大きな問題や混乱は起きなかった。

 それはつまり、それだけ国が落ち着いており、役人たちが優秀で、彼らを取りまとめている黄春が有能であるということなのだが、陽が高く昇ってから寝惚け眼で執務室にやってくる女王の様子は解せない。


 その日も彼女は彼女にとってちょうど良い時間に目を覚ました。

 のろのろと着替えをすませ、控えていた女官に髪を整えてもらう。あれこれ飾るのは面倒なので、高い位置でひとつにまとめるだけだ。

 豊かな茶色の髪もすらりと伸びた手足もとても美しいのに、いかんせん本人がまったく興味を示さない。

「動きにくいんだもの」

 簡素な服装を好むのは先代の父王と同じだが、それにしても少し質素すぎではないかと女官たちはいつも気を揉む。

 先代の王と王妃は健在だ。

 体が動くうちにあちこちを見て回りたいという両親の願いに、黄春は快く賛同した。まさかそれが王位を譲るということに繋がるとは考えてもいなかったが。

 外遊に出る回数を増やすのだろうと思っていた彼女のもとに、「即位式のご準備をいたします」と下官たちがやってきた時の衝撃は忘れられない。


「遅い」

 執務室に入った黄春おうしゅんに、そう言って厳しい表情を向けたのは理央りおうだ。

 黄春より五つ年上の彼は、先代王の側近の息子だ。

 幼い頃から王宮に出入りし、まつりごとを学び、今では女王である黄春の良き理解者であり口煩い右腕、そして彼女が昼まで寝ていられる理由のひとつだ。

「いつも通りだけど。……何かあった?」

 椅子に腰を下ろすのと同時に、近くに立て掛けてあったつるぎに手を伸ばす。

 柄に貼り付けてあった札を雑に剥がすと、ぐしゃりと丸めて捨てた。

 そのとたん、黄春の頭の中に少女の笑い声が響く。

主殿あるじどの、しばらくは退屈しないですみそうじゃ)

 愛らしいその声は黄春にしか聞こえない。

 剣の柄に錦の紐で結ばれた朱い鈴……鈴朱りんしゅの声だ。

「なに、どういうこと」

 鈴朱を見、次いで理央を見上げる。

 理央は綺麗に整えられた眉を寄せて、黄春を睨み返した。

先視さきみのお方が来ている。お前が起きてくるのを、謁見の間でずっとお待ちだ」

 片頬をひくりと歪めた黄春の頭の中では、ころころと笑う声が絶えない。




 玄冬国げんとうこくの表門は基本的に解放されている。

 門から王宮の入口までが広場になっており、そこには時節によって市が立ったり、国が主催の催し物が行われたりする。

 普段は人々の憩いの場として、また役人たちが直接国民の声を聞くための場所としての役目を果たしていた。

 対して裏門。こちらは許可の無い者には決して開かれることはない。

 王族の玄関であり、他国からの賓客ひんきゃくや各国を巡る術士のための出入口だった。

 その裏門を、雨が上がった直後に訪ねた者がいた。

 警備にあたっていた兵士は訪問者の姿を一目見て、さっさと門前払いするつもりでいた。

 蜂蜜色の瞳と髪。大きな目は子どもらしく可愛らしい。背中には小さな荷物を背負っていた。

「ぼく、王様に会いに来ました」

 そう話す声もまだ高く、声変わりにはほど遠い。

 首から提げた飾りをやたらと触り、緊張しているのだとわかる。

「いいかい。ここは君のような子どもが来る所じゃないんだ。ましてや王様に会うなんて」

 少しきつい口調になってしまった。子どもはきゅっと唇を結ぶ。紅葉のような両手が、雫形をした飾りを握っていた。

「お父さんか、お母さんは?誰と来たの」

 しゃがんで目線を合わせる。

 怒ってしまったのか、子どもはちょっと頬を膨らませていた。

 頭を撫でようと兵士は手を伸ばしたが、ぱしりと勢いよく払い除けられてしまう。

「こらこら」

「ぼくは」

 子どもは眉を寄せ、一生懸命に睨みつけてくる。

「ぼくは、瑞月ずいげつといいます」

「え」

 きょとんとする兵士に、子どもは再度口を開く。

「ぼくは、瑞月と申します!至天山してんざんから来まし……参りました!」

 兵士は驚きに目を見開き、慌てて立ち上がって姿勢を正す。

「失礼したしました……!」

“瑞”の名を持つのは至天山で生まれた先視さきみの一族のみ。それはこの世ができた時からの決まりだ。その名を騙るような不届き者はこの世には存在しない。

 先視の一族は強大な魔力ゆえに長命で、見た目が若く幼いからといってその通りの年齢であるとは限らない。

 兵士は自らの非礼を深く詫び、瑞月と名乗った先視を謁見の間に案内したのだった。


 朝からの顛末を聞いた黄春おうしゅんは、ああそうだったと1人で納得する。

 国宝である意思を持つ朱い鈴、鈴朱りんしゅは先を読むことがある。

 魔力が強いことで可能になっていることだが、あれは先視さきみの一族ではない。鈴朱自身は語らないが、黄春は体験としてわかっている。

 先視のた未来は変えられないらしいが、鈴朱の視たものはこちらの行動如何いかんで変わることがあった。

 彼女の力は先を視ることよりも、物を操ることの方が強いのではないか感じている。

 無生物に限らず、自我のあるものですら自分の意のままに操ってみせる。どれだけの人間がその犠牲になったやら。

 廊下を歩きつつ、ついにこの国も先視を抱えるのかと、黄春は不思議な気分がした。

 国には必ず先視が仕えるという慣例はない。だが、先視の仕えている国の方が多いというのも事実だ。

 父王の時には現れなかった。先々代にもいなかった。

 そもそもこの国は、どういうわけか先視がいない時期の方が長いのだ。

 あれこれと思考を巡らせているうちに、謁見の間にたどり着く。

 染み付いた動きで、周囲を確認することもなく玉座に着く。

 数段高くなった場所から見渡すと、広間の真ん中にぽつんと一人の子どもが椅子に座っていた。

 黄春と目が合うと慌てて立ち上がる。

「お待たせして申し訳ない」

 ついてきていた理央りおうが謝罪の言葉を口にする。

「黄春様です」

 子どもはちょこんと頭を下げた。

 理央は黄春に目を向け「瑞月ずいげつ殿です」と告げた。

 黄春は子どもを手招く。

 ぱたぱたと軽い足音を立てて段のすぐ下まで歩いてきた先視は、先視というよりごく普通の子どもだった。

 蜂蜜色のこぼれ落ちそうな大きな瞳が、潤んで見上げてくる。

「えと……。お初に、お目にかかります……!瑞月と、申します……!」

「……うん」

 感極まった様子の子どもは、胸元に提げていた木製の飾り物を両手で握る。

「ぼくの先視に、女王陛下がおいでくださいました……!貴女様が、ぼくの生涯の主様あるじさまです……!」

 上気した頬になんとなく舌っ足らずな物言い。先視の年齢は見た目で判断すべきではない。ないのだが。

 黄春はちらりと理央に視線を投げる。彼はひょいっと肩をすくめた。

「……瑞月殿」

「はい、主様!」

「失礼を承知でお伺いしますが」

「はい、なんなりと!」

 きらきらと瞳を輝かせる瑞月が、全力で尻尾を振る子犬に見えたのは黄春の気のせいか。

「おいくつでいらっしゃいますか」

 主からの初めての問いかけの内容に、瑞月は満面の笑顔で「七つになりました!」と元気よく答えた。

 黄春は天を仰いで大きく息を吸い、理央は視線を落として溜め息をついた。

「よし、解散」

「主様?」

「黄春」

「だって聞いたことないでしょ、七歳の先視なんて!どんなに若くても五十は過ぎてるっていうのが慣例でしょ!?」

「それはそうだが」

 理央は瑞月を見やる。嘘をついているようには見えない。正真正銘、七歳なのだろう。

至天山してんざんおさは何を考えているの?七歳の子どもを先視として山から下ろすなんて」

 謁見の間に、ちりん、という鈴の音が響いた。至天山の長に連絡を、と息巻く黄春の声を割り開き、広間にいる全員の耳に届いた。

「……なによ、鈴朱りんしゅ

 黄春は腰に帯びていた剣の柄に目を向ける。錦の紐の先にある朱い鈴が、ゆっくりと揺れていた。

(なんとまぁ。橙華じょうかかえ?懐かしや)

「じょうか?」

 黄春は眉を寄せて瑞月に目を向ける。

 弾けるような笑顔を消した子どもは、黄春の視線から隠すようにして、胸元の飾り物を握り直した。

「……場所を変えましょ。瑞月殿、ついてきて」

 返事を待たずに玉座を立ち、さっさと謁見の間から出ていってしまう。

 背後で、慌てた様子の足音が追いかけてくるのを聞きながら、黄春は朱い鈴に触れる。

「じょうかって?」

 頭の中で少女がころころと笑っている。

「鈴朱、答えて」

(焦らずに、主殿あるじどの

 舌打ちを隠すことのない黄春の態度に、いつの間にか隣に追いついていた理央が小さく息を吐いた。




 私室に戻ると黄春おうしゅんはすぐに人払いし、扉を施錠した。

 理央りおうが茶器を整え、三人分の湯のみを並べる。

「どうぞ。かけて」

 もじもじと落ち着かない瑞月ずいげつに声をかけ、黄春はどかりと座る。理央も席に着いた。

「さて」

 剣の柄から紐を解き、机の上に鈴朱りんしゅを置く。

「見せて」

 黄春は真っ直ぐに瑞月を見つめた。

 目を逸らすのではないかと思ったが、予想に反して子どもはしっかりと見つめ返してくる。

 よじ登るようにして椅子に座り、首にかけていた木製の飾り物を外した。

 雫形をしていて、梅の透かし彫りが施されている。

 鈴朱の隣に、優しくそっと置いた。ころん、と柔らかい音がしたので、鈴なのだとわかった。

 黄春の頭の中ではずっところころと笑い声が響いている。

「鈴朱」

(間違いない、橙華じょうかがおる。懐かしや)

「だから、じょうかって誰よ」

(少しお待ち、主殿あるじどの。力を貸そうぞ)

 ちりん、と鈴の音がした。次の瞬間、鈴朱を中心にして波が立った。

 水面に小石を落としたような、ぽつん、という音が二度三度と響き、その度に波紋が広がる。

 白く透明な波は大きく広がり、黄春と瑞月、理央を洗うようにして過ぎていく。

 黄春は波の動きを不思議そうに目で追い、瑞月が同じようにしているのに気付いた。

 ちりんと聞きなれた鈴の音がして、波が消える。

 理央は何も見えていなかったのか、のんびりと茶を啜っていた。

「……何をしたの」

 黄春が怪訝そうに尋ねる。

(ほほ。すぐにわかろう)

「勿体ぶるのやめて」

 鈴朱の声が聞こえない理央はちらりと黄春を見たが、黄春が首を振るとまた湯のみに口をつけた。

 一方瑞月は瞳を見開き、鈴朱を凝視している

 。そうしてぽつりと、「声が」と呟いた。

「え?」

「……声が、聞こえました」

「なんですって?」

 困惑する黄春の頭の中に、

(……まさか、そんな)

 といつも聞こえるのとは別人の声が聞こえた。若い、男の声だ。

「ちょっと、どういうこと」

(魔力が不足していたゆえ、我の力を少し足してやった)

 鈴朱は楽しそうに続ける。

(術を行ったのが未熟者だったゆえ、仕方あるまいて)

 我の声まで届くようになったのは予想外じゃが、と少女は笑う。

 黄春が手を伸ばし、木鈴に触れた。

「つまりこの鈴は、あんたと同じってことね、鈴朱」

(……お初にお目にかかります、女王陛下。鈴橙りんじょうでございます)

 優しく柔らかな声は耳に心地よい。

「じょうかってのは?」

(古き名です。瑞月様から新しい名をいただいておりますので、そちらでお呼びください)

 鈴朱を手に取り、「で、二人の関係は」と問う。

(最も古き知人、かの)

 ころころと笑う鈴朱とは対照的に、鈴橙は重い息をついた。

「まぁ、なんでもいいけど」

 不安そうにしている瑞月に鈴橙を返し、黄春は一口お茶を啜った。

「理央は?聞こえないの?」

「あぁ。まったく」

 細いくせに大食らいのこの側近は、主に提供することなく自分用の茶菓子をのんびりと食べている。

 正直、こんなのは聞こえないほうがいい。

 羨ましさと苛立ちに耐えながら、黄春は理央が机に広げていた饅頭を奪い取った。


 せっかくだからこのまま仕事をしろと、理央りおうが1枚の紙を黄春おうしゅんに手渡した。

 それは城下町の地図で、黄春は瑞月ずいげつにも見えるように机に置いてくれた。

 地図には所々に赤い点がついている。

「昨日はここ、今朝はここだ」

 理央が追加で2箇所に点を打った。

「これは?」

「ここ1ヶ月の間の、不審な火事のあった場所だ」

「こんなに!?」

 瑞月は地図を改めてよく見てみる。

 10件はくだらない。20件近くあるようだ。

「毎日雨が降るこの国でこれだけ火事があるなんて、絶対におかしいよねぇ」

 黄春は頬杖をつき、しかも、と続ける。

「この一帯より外では起きてないのよ」

「……本当ですね」

 玄冬宮げんとうきゅうの裏門近辺の地域に赤い点が多く、それ以外の場所にはほとんどない。

「どうしてでしょうか……?」

 瑞月はこてんと首を傾げた。

 体の大きさに比べて頭が大きく見える。そのうち首が落ちてしまうのではないかと、黄春は目が離せなくなっていた。

「このあたりは古い家が多い」

 地図を示しながら、理央が幼い子どもに教える家庭教師のように説明する。

「金持ちという意味ではない。長くそこに住んでいる、という意味だ。よって、建物自体が古く、年寄りが多い」

 黄春は机上の鈴朱を指で転がしながら、

「だから火のまわりが早いし、避難が遅れる」

 瞳に苛烈な色が走る。

「惜しまずに教えてくれれば救えたかもしれない命が、いくつも消えた」

 華奢な指に弾かれた朱い鈴は、ちりちりと音を立てて瑞月の前まで転がった。

(おやおや、我が主殿あるじどのはお怒りかえ)

 からかうような少女の声音が、黄春と瑞月の頭の中に響く。

(これからは先視さきみの一族がてくれよう。のう、瑞月殿)

「でも、ぼくの視る先は変えることができません」

 瑞月の蜂蜜色の瞳が悲しげに揺れる。

「誰かが怪我をするのがわかっても、それだけです」

 先視は視るだけ。そしてそれは、決して変えられない未来になる。

 もともと変えられない先を彼らが視ているのか、彼らが視ることで変わらないものになるのか、それは先視の一族たちにもわからない。

(瑞月様……)

 鈴橙りんじょうが労るように名前を呼んだ。

 鈴朱はころころと笑い、(汝はほんに変わらぬのう)と呟いた。

「今、何か視えるのか」

 理央に問われ、瑞月はまばたきを繰り返す。

 そうしておそるおそる両手で地図に触れ、「やってみます」と目を閉じた。


 先を視たい対象に触れて意識を集中させるという自分の先視の仕方は、一族の者たちと違うらしい。おさは「面白い」と言って笑っていた。

 他の者たちは夢を見るようにして視るそうだが、自分にはよくわからなかった。

 集中させた意識の底で、瑞月ずいげつは見知らぬ路地に立っていた。

 薄暗くはなっていたが、空にはまだ残照がある。

 直感的に、今日の夜だとわかった。

「あ……!」

 きょろきょろと周囲を見回していると、目の前の家が突如として大きな炎に包まれた。

 古い木造の家で、火のまわりが早い。

 逃げなくてはと思った瑞月の意思とは反対に、体が勢いよく炎の中に引き込まれる。

 咄嗟に顔を庇ったが、熱さは感じない。そして気付くと、焼かれている家の中に移動していた。

 すでに火は家屋全体に広がっており、逃げ場はない。

 ここは居間だろうか。小さな食卓があって、その隣で老夫婦が身を寄せあい、互いを庇うようにしてうずくまっていた。

 意識はあるようだったが身動きが出来ないようで、さらに煙を吸い込んで激しく咳き込んでしまっていた。

 誰か助けを呼ばなくてはと思うのに、瑞月ののどからは声が出ない。

 せめて避難の手助けをと考えたが、体は鉛のように重くぴくりとも動かせなかった。

 そうこうするうちに、妻の服に火が燃え移る。気付いた夫が慌てて叩き消したが、今度は自分の服の裾に火が着いた。妻が半狂乱でそれを叩き消す。

 消したところで意味はない。周囲は火の海。炎はゆっくりと、だが確実に、二人を呑み込んでいった。

 瑞月は目を逸らすことも叫ぶことも出来ないまま、老夫婦が喉を焼かれもがき苦しみ、焼かれていく様を最初から最後まで呆然と見続けた。

 ぱちんと場面が切り替わる。

 今度はまた別の路地だ。日時は明日の昼。

 細い路地の奥、人通りのない場所で、疲れた顔をした女が何かを撒いているのが視えた。

 あれは油か。

「この人が」

 瑞月は奥歯をぎり、と噛み締める。

 自分の右手が、短剣を握っているのに気付いた。山を下りる時、護身用にと渡されたものだ。

 視線を戻すと、目の前に女が尻もちをつくようにして座り込み、おびえた様子で自分を見上げてきている。

「……絶対に、許しません」

 低く呟くと、水面から浮上するように、意識が現実に引き戻されていくのを感じた。


 瑞月にとっては長い時間だったのだが、実際にはほんの数呼吸。

 大きく息を吐きゆっくりと開かれた瑞月ずいげつの瞳は、一瞬漆黒に見えた。

「……今日の夜、燃えます。二人亡くなります。それから、明日の昼間。……それで最後です」

 七つの子どもがるにはつらいものだったのだろう。瑞月の頬をぽろりと涙が転がり、小さな手が慌てて拭う。

 理央りおうが瑞月の頭をふわりと撫でた。

「最後とは?」

「犯人が、捕まります」

 黄春おうしゅんがにやりと笑う。

「へぇ。男?女?」

「女の人でした」

 どこに火がつくのか訊かれ、瑞月は地図を二箇所指さす。

 それはやはり裏門の近くで、理央が黒く点を描いた。

先視さきみが視た以上、この二箇所はどうやっても燃えるんでしょうね。どこで犯人に会えるのかしら」

 楽しそうに話す黄春。対して瑞月の表情は暗い。

(汝が視たということは、それは変えられぬ先になったということ。運命さだめのようなものじゃ、悲しむことでもあるまい)

(黙りなさい、鈴朱りんしゅ

(ほほ、過保護じゃのう、橙華じょうか

 瑞月は鈴橙りんじょうを両手で包み、握りしめた。

 黄春は鈴朱を掴むと、雑に剣の柄に結び直す。

「とにかく時を待つしかないんでしょ。理央、変わることはないとはいえ、念のため人は配置しておいて」

 優秀な側近が頷いたのを確認して、黄春は解散を告げた。




 瑞月ずいげつた通り、その日の夜、火の手が上がったと報告を受けた。

 陽が落ちた直後のことで、雨が降り出すにはかなり早い時間だった。

 木造の古い家屋を一軒焼き尽くした。

 焼け跡からその家に住んでいた老夫婦とみられる焼死体が見つかり、瑞月はひどく心を痛めたようだった。

「やっぱり七歳で国仕くにづかえの先視さきみは早いと思うんだけど」

 黄春おうしゅんは正面で書類を睨みつけている理央りおうに言う。

「国の先を視るって、綺麗なものより汚いものの方が多いでしょ、絶対に」

「だろうな」

 ひとつ息をつき、黄春は席を立った。

「おい、どこに行く」

「お散歩」

「ふざけるな。珍しく午前中に起きているのだから仕事しろ」

「嫌よ。そろそろ次が燃える時間でしょ」

「だからなんだ」

「放火犯がどんなやつか気になるから見てくる」

 黄春は不敵に微笑む。

 傍らにあった剣を腰に納めた。柄に結んであった鈴朱りんしゅがちりんと鳴り、同時にころころと笑う少女の声が聞こえた。




 年老いた者は醜い。

 人通りのない細い路地で、女は手にしていた油壺を逆さにする。目の前にある古い家の外壁に、かけるようにして撒いていく。

「醜い」

 ぽつりと呟き、空になった壺を足元に置いた。

 太陽は頭上で輝き、早朝の雨はすっかり乾いていた。

「汚い」

 もう一つ、油壺を逆さにする。

 子どもが結婚し、家を出た。これからは夫婦の時間をゆっくり過ごせると思っていた。

「醜い」

 だが夫は、自分よりもずっと若く、美しい小娘のもとに通い始めた。

 別れることはしたくない。体面もあるが、なによりも夫を愛している。

「汚い」

 行かないでくれと夫に泣いて訴えた。そんな自分を見て、夫はまるで感情のない瞳でこう言ったのだ。

「年老いたお前は醜いし汚い」

 一度だけ見かけたその娘は、若い頃の自分になんとなく似ているようだった。

 くすくすと笑いながら、さらに油を撒いていく。

 この家の老夫婦は先日、妻が誕生日だったと聞いた。夫が照れくさそうに花束を買いに来たと、知り合いの花屋が幸せそうに教えてくれた。

 女はしゃがみ、懐から一枚の紙を取り出す。

 赤い長方形のそれを油に落とすと、ぽっと火が燃え上がった。

 本来はかまどの着火に使われるまじないの札だ。

 あっという間に火は燃え広がっていく。

「年老いた者は醜い」

 燃え盛る炎を前にして、女は泣き笑っていた。



 瑞月ずいげつが示した二箇所目の火災現場近くをのんびり歩く。

 この辺りの地域は黄春おうしゅんの庭みたいなものだ。幼い頃からの知り合いが多く、女王である黄春が一人で歩いていても、すっかり慣れてしまって誰も気にも止めない。

 それどころか、出来たての菓子があるぞ、茶を入れたぞ、と気安く声をかけてくる。

 いつもなら応えるそれらの誘いを全て断り、火事に気をつけて、とだけ声をかけて、ただ歩いた。

 鈴朱りんしゅは何が起きるのか分かっているのだろう、やたらと機嫌がいい。

 時折鼻歌のようなものを口ずさみながら、絶えずころころと笑っている。

 その様子にいらいらしながらなおも歩き回っていると、住民たちが異常に気付きざわりと騒ぐ。

 鼻をつく、物が燃える臭い。

 顔を上げた視線の少し先、黒い煙が上がっていた。

 即座に黄春は地面を蹴る。

「鈴朱、わかるわね」

(次の辻を右に。裏の通りじゃ)

 宝物の場所を教えるような、楽しそうな響きの声。

 黄春は舌打ちしつつ、言われた道を走る。

(ほら、見えた)

 ころころと笑う鈴朱の言う通り、細い路地の先に、一人の女の姿が見えた。

「あれは」

 座り込む女の前に、蜂蜜色の髪の子どもが立っている。

「瑞月」

 そういえば今日は見かけていなかった。

 呼ばれて振り向いた子どもは、大きな瞳から涙を零していた。

 手には短剣。血が滴っている。

 女は腕を怪我しているようで、庇うようにしていた。

「……こんな所で何をしているの」

 叱責するでも問い詰めるでもない、ただただ平坦な黄春の物言いに、瑞月も淡々と応えた。

「他人の命を理不尽に奪う人は、自分が同じことをされても文句は言えません」

 怯えて震える女に視線を移す。

至天山してんざん由来の、即効性の薬が塗ってあります。身動きできないでしょう?このまま、炎の中に入ってもらいますね」

 ころん、と木鈴の場違いな音がする。

(いけません、瑞月様)

 鈴橙りんじょうが初めて瑞月に会った時、その柔らかな蜂蜜色の瞳の奥に、深い闇を感じた。

(それではこの者と同じになってしまいます)

 どこからくるものなのかわからない。普段は優しく、気遣いの出来る賢い子どもだが、時折恐ろしく残酷になる。

「意識のあるまま焼かれてください。貴女が殺してきた人たちと同じように」

(瑞月様、お止めください)

 一人にしてはいけない、たとえ何も出来なくても、側にいてやらなくてはと、鈴橙は固く心に決めていた。

 鈴橙が止めるのも聞かず、女に近付こうとした瑞月の肩を、黄春が掴む。

「……主様あるじさま?」

 見上げてくる顔には、あの弾けるような表情はない。

「これはお前の仕事じゃないだろ」

「……え」

 あっけらかんと言う黄春に、瑞月の反応が遅れる。

「お前は先視でしょ。罪人を裁くのは別の者の仕事。他人の仕事を横から奪うのは止めなさい」

 黄春は懐から小さな笛を出して咥えると、大きく息を吸い、吹き鳴らした。

 高く長く響いた音を聞きつけ、近くに来ていた城の兵士たちがすぐに集まってくる。

「帰るよ、瑞月」

「でも」

「は?あたしの命令が聞けないの」

「……いえ」

「じゃ、さっさと帰るわよ。お腹すいた」

 黄春は振り返ることもせず、宮殿に向かって歩き出してしまう。

 瑞月は手にした短剣を見、次いでちらりと女に視線を向けたが、「瑞月!」と黄春に大声で名を呼ばれ慌ててその背を追いかけた。

 黄春と瑞月が玄冬宮げんとうきゅうの裏門に到着する頃には火は小さくなっており、死傷者が出ることはなかった。



 陽の落ちた執務室に理央りおうの冷静な声が響く。

「犯人の女にも、それなりに同情する理由はあったようだ」

 書類を黄春おうしゅんに渡し、「確認したら決裁を」と言い添える。

「同情すべきことがあったとしても、あの女のやったことは犯罪よ」

 手近にあった筆で署名する。一国の主とは思えない、雑な字だ。

癇癪かんしゃくで火事を起こしたり人を殺しても許されるなら、あたしは宮中に火を着けるし役人を殺しまくってるわ」

「止めろ、笑えない冗談だ」

「そう?鈴朱りんしゅは楽しそうよ」

 黄春は指で鈴を弾く。

 声音を落とし、「瑞月ずいげつは?」と書類を返しながら問うた。

「戻ってから散々泣いていたようだ。すっかり泣き疲れて、部屋で眠ってたよ」

「そう」

 やたらと早く山を下ろされたのは、あの気性が原因か。

「まったく、面倒なのばっかり集まってくる」

(ほほ。しばらくは退屈することがないと言うたであろう、主殿あるじどの

 鈴朱の言葉に眉を顰めていると、理央に呼ばれた。

「なに」

「知っているか?臣下は主君に似るそうだぞ」

「よし理央。あんた解雇」

「そうか。今まで世話になったな。達者で暮らせよ」




 玄冬国。

 毎日夜半過ぎから雨が降り、翌朝には上がる不思議な国だ。

 第52代王朝を治めたのは女王で、側近との間に一男一女を設けたが、生涯独身を貫いた。

 女王は強大な魔力を操る国宝鈴朱と自由に言葉を交わしたという。

 彼女に仕えた先視は、先視の一族でありながらひどく短命で、女王に仕えてから僅か10年で他界したと記録されている。









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