ひとつの終焉(しゅうえん)

 紫鏡しきょうは小さく息をつき、大きな木の門を見上げた。

 頭上に広がる空は青く、雲ひとつない。

 特になにかを考えるでもなく、ただぼうっと見上げる。

 穏やかな時間だ。

 長い時を生きてきたが、思い返せばこうして何も考えずに空を見上げるのは初めてのことかもしれない。

「紫鏡」

 呼び掛けに応えて振り向くと、そこにはよく見知った、桃色の髪の人物が笑顔で立っていた。

「久しぶり」

「久しぶり?そう?」

「そうだよ。3年ぶりだもん」

 同じ師のもとで学んだ桃糸とうしだ。15の時に視力を失い、その後、学び舎であった春青山しゅんせいざんを下りた。時折戻ってくることもあったが、長く留まることはなく、ふらふらとあちこちの国を巡って過ごしていたらしい。


 春青山は仙の住まう場所。仙の役目を継いだ紫鏡のもとに、山を下りよという知らせが届いたのが、明日でちょうど3年前。

 知らせはここ、至天山してんざんから届く。

 金粉のような光をまとった、尾の長い真っ白な鳥が飛んできて、春青山の庵の上をくるりと1周し、すぐに離れていった。


「お待たせしました」

 大門横のくぐり戸から現れた茜色の髪をした女性が、二人に頭を下げる。

「どうぞ」とくぐり戸から入るように促されたので、紫鏡と桃糸は頷いて、女性のあとに続いた。

 会話をすることもなく三人は通りを歩き、一軒の小さな家に入った。

 外観は周囲の民家と同じだったが、室内の様子は民家とは言い難い。

 三和土たたきの向こう、一段低くなった場所から床一面に、真っ白な布が敷き詰められていた。

 壁も白。窓はなく、光源はないようなのに室内はほんのりと明るい。

 案内をしてくれた女性が一礼して部屋を出ていった。

「……これって、靴脱ぐの?」

 桃糸は室内を指さして紫鏡に尋ねる。

「どっちでもいいんじゃないの、別に」

「うえーん、紫鏡ちゃん冷たいー」

 おどけて言う桃糸の様子に、紫鏡は一瞬げんなりした表情を見せたが、すぐにふわりと笑う。

「たしかに、久しぶりかも」

 桃糸は「でしょ」とにかりと笑って、靴を脱ぎ捨てた。



 春青山しゅんせいざんを下りた仙は術士として各国を巡る。期限は三年。

「あっという間だったわ、三年なんて」

 床は白い布というより布団だった。ふわふわとしていて肌触りが良い。

 紫鏡しきょうは仰向けにぽすんと寝転がった。

「何年生きてきたと思ってるの?三年なんてまばたきしたら過ぎちゃう」

「まぁねぇ」

 少し空間を開けて、桃糸とうしも横になった。

「うわ、すごいふかふかじゃん。沈むー」

 術士としての三年を終える日、彼らは至天山してんざんを訪れるのが習わしだ。

「僕のところにも知らせが来るとは思わなかった」

 桃糸は器用に肩をすくめる。

 山を離れた自分はその摂理から外れたと思っていたから。

 知らせが桃糸のところに来た時、彼は錦香国きんこうこくの知人を訪ねていた。慌てて山に戻り、紫鏡と今日の日のことを相談したのだ。

「私たちには預かり知らないことだわ」

「そうだねー」

 桃糸はもぞもぞと腰元をさぐり、紫鏡に向かって「はい」と手を差し出した。

 すっかり大人になった手の平には、雫形をした木製の鈴が乗っている。

 紫鏡はうつ伏せになると、木鈴を包むようにして桃糸の手に自らの左手を乗せた。

「紫鏡の手、ちっちゃいねー」

「は?」

「え、あ、ごめん」

 二人の手の中で、木鈴が優しくころんと鳴る。

橙華じょうか様、めっちゃ笑ってるし」

「いつも通りでしょ」

 木鈴には二人の師である橙華の魂が宿っている。橙華と会話出来るのは魂を移す術を行った桃糸だけ。

 色々と手を尽くしたが、結局紫鏡は会話出来ないままになってしまった。

「声、聞きたかったなぁ」

 ぽつりとこぼす言葉には隠すつもりのない寂しさが滲んでいて、桃糸は彼女の手を握り返すことしか出来なかった。

「……橙華様が、紫鏡の声は届いていますよって。いつもありがとうって」

 紫鏡は紫の瞳を細めて、「こちらこそ」と微笑んだ。


「そういえば……。いつだったか来たわよ」

「ん?」

「あんたの紹介だって。随分前だったけど。蒼螺国そうらこくの……えーと、名前、なんだったかしら」

「あぁ、男の子?」

「そう。あんな子どもに、まさかのろいのまじないを頼まれるとは思わなかった」

「叶えてくれた?」

「当然。事情を聞いたら私怨っぽくなったわ」

「こわ。……どんな子だった?」

「うーん……。あぁ、変わった目の色だったかも。綺麗な赤なんだけど、時々緑が混ざるの」

「へぇ、そっか。そっちが来たのか」

「なによ。なんかあるの?」

「べっつにー。……あ、ねぇねぇ。あの子、名前なんだっけ」

「あの子?」

「次の仙の。次じゃなくて今か」

「信じられない、また忘れたの」

「仕方ないじゃーん。僕はほとんど会ってないんだからー」

海松みるよ。次に聞き返したらひっぱたくわよ」

紫鏡しきょうそれ本気でしょ。やめてよね、僕の可愛い顔に傷がつく」

「うるさいわね。海松の方が何倍も可愛いわ」

「何年一緒にいたの?」

「20年くらいね。あっという間」

「やっぱり、心配?」

「まさか。私たちよりもしっかりしてるし、魔力の使い方もよくわかってる。自慢の弟子よ、心配なんかひとつもないわ」

「そっか……」

「……そっちは?錦香国きんこうこくの、知り合いとか……」

「大丈夫だと思う……。村はすっかり落ち着いたし、子どもや孫も元気そうだし……」

「そう……」

「ごめん、紫鏡……。僕、すっごく眠い……」

「私も、眠くなってきた……」

「ちょっと休もう……。起きたら、また話そうね……」

「うん」

「おやすみ、紫鏡、橙華じょうか様……」

「おやすみなさい、桃糸とうし、先生……」




 金粉を放ちながら、白い鳥が二羽、夜空に飛び立った。

 それを確認し、瑞麗ずいれいは室内に入る。

 三和土たたきの先、一段低くなった場所に、瑞麗は靴を脱がずに足を踏み出す。

 不思議なことに、白い布団と瑞麗の足の間には、透明な板があるようだった。

 こつこつと足音を立てて、果ての見えない真っ白な部屋を歩く。

 二組の衣類が落ちていた。

 仙として生まれ役目を果たした術士には、亡骸なきがらも残らない。風に散らされる塵のように、綺麗に跡形もなく消えてしまう。

 せめて彼らの遺していったものを荼毘だびに伏してやるのが、至天山してんざんに居を構える先視さきみの一族の、墓守はかもりとしての役目だ。

 瑞麗はしゃがんで、足元に落ちていたものを拾い上げる。それは雫形をした木製の鈴だった。

 飾り気のなかったそれを安く買い、表面に梅の透かし彫りを施したのは瑞麗本人だ。

 巡り巡って、戻ってきた。

 手の平で包むようにしてみると、温もりと魂の気配を感じる。宿った魂は、深く眠っているようだ。

「今はおやすみ。お前にはまだ出会いがある」

 懐に鈴をしまい、部屋を出た。

 外に控えていた茜色の髪の女性に無言で頷く。女性は会釈を返し、部屋に入った。


 月の光が眩しい。今夜は満月だ。

 雲ひとつないこの夜空は、小さな箱庭の世界に生きる人々には、どのように見えているのか。

 この箱庭を管理している者には、どのように見えているのか。

「……馬鹿らしい」

 瑞麗は自嘲の笑みを浮かべ、その場をあとにした。



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