双子(ふたご)下

彩雨さいうと申します」

 住居部分に案内され、少しくたびれた敷物に座った。

 座卓に湯のみを二つ用意してくれた女性……彩雨は、桃糸とうしこうを交互に見ながら話し始めた。

「私は十年前に、この子……紺雨こんうと、双子の緑雨ろくうを授かりました」

 寄り添うように座る息子の頭を愛おしげに撫で、

「五歳の時です。宮殿から迎えが来ました。……先視さきみが次代の王をた、と」

 膝の上で握られていた手を取り、緊張をほぐすように開かせた。「大丈夫よ」と微笑む。

「先視の瑞奉ずいほう様は、目の見える紺雨こそが次期国王だとおっしゃいました。しかし」

 双子の緑雨も目が見えていることがわかった。

 蒼螺国そうらこくにおいて、目が見えるということは国王の印。色が分かるのは国王のみ。

「二人の目が見えることがわかり、夫はひどく焦ったようでした」

 子どもが宮殿に迎えられた場合、両親も一緒に王宮に入る。幼いうちに宮殿に入る次期国王の健やかな成長のためだ。

 そのまま王の身の回りの世話をする下官として仕えることもできたし、本人の能力によっては幼い王の手助けをする補佐官として、摂政と同じ役割を担うこともあった。

 もちろん、兄弟姉妹がいた場合はその養育も保証された。それが普通の子どもならば、だ。

「本来は一人しかいないはずの目が見える子どもがもう一人いる。それは国にとって大変なことであり、補佐官としての地位に就くことを強く望んだ夫にも非常事態です」

 王位継承者の実母である彩雨にも、補佐官になる権利がある。実際、両親が補佐官として働き、国を大きく発展させた事例もある。

 紺雨と緑雨。色が分かる子どもが二人いる。だが二王が並び立つことはない。それはつまり、それぞれの陣営に別れて王権を争うことも可能性としては充分にありえたし、夫はなによりもそれを恐れた。

「そんなことは決して起こりえません。なぜなら」

 先視が告げたのは“紺雨”の名だ。たとえ視力があっても、緑雨が次期国王になることはない。

 何度そう伝えても夫は納得せず、「自分や紺雨を懐柔する気だろう」と彩雨を責めた。

 しまいには先視の一族である瑞奉ずいほうも信用できないと言い出す始末。

 王になるため、躾のためと言って、平たい棍棒で紺雨を打つようになった。庇えば今度は彩雨を打つ。

 他の者たちのいないところで、服に隠れる場所を打ち据えた。

 さらに夫は、まつりごとに才を発揮し始める。

「王弟とその母は国王に悪影響を与える」と宣言したのは、先王が崩御した翌日。

 極刑を告げることも躊躇ためらわない様子の夫を「先王に対する非礼が過ぎる」といさめてくれたのは瑞奉だ。

 宮殿を立ち去り二度と紺雨に会わないこと、一切のことを秘することを条件に、彩雨と緑雨は生きることを許された。

 こうして“国王の教育に熱心で政も出来る補佐官”は、完全に王宮を掌握してしまう。

「なるほどね……」

 服で隠れる場所を痛めつけていたそうだが、見晴らし台で会った時に襟元からちらりと見えた青黒い痣が気になっていた。

 肩を軽く叩いた時の反応もやたらと怯えて見えたし、桃糸としては「やはり」という気持ちの方が強い。

 桃糸からその予想を聞いていた晧も、厳しい顔で、しかし瞳には労りの色を乗せて親子を見つめている。

「とにかくさ」

 桃糸はお茶と一緒に用意された砂糖菓子を口に放り込み、しゃりしゃりと咀嚼しながら言う。

「お国のことは僕にはよくわからないんだけど……。補佐官?って人の暴力だけでもなんとかしたいよね」

 飲み込むと、次の菓子を口に入れる。

紺雨こんう緑雨ろくうはたまに入れ替わってるんでしょ?先視さきみの人もいるし、王宮で一人ぼっちにならなくてよかったよ」

 僕だったら絶対に耐えられない、と肩をすくめてみせ、「二人は強いな」と笑った。

 紺雨は一瞬目を見開き、小さく「ありがと」と呟いた。

 今の状況で何ができるのか、どうすることが最善なのか、少し相談したい人がいる。その人と話をしてから、今日の夜、店の閉店後にもう一度来てもいいか、と桃糸は彩雨さいうに尋ねた。

「ありがたいですが……」

「遠慮はなしね。知っちゃったのに無かったことにはしたくないからさ」

 桃糸はぱちんと片目を瞑ってにかりと笑う。

 彩雨は泣き笑いのような表情を浮かべ、深く頭を下げた。


 じゃあまたあとで、と桃糸とうしこうが住居用の出入口から外へ出ようとしていた時、店側の通りがなにやら騒がしくなる。

 男の怒鳴り声と女の悲鳴、時折混ざる子どもの泣き声。

 何事かとそれぞれが顔を見合わせた時、店内で激しく物の倒れる音が立て続けに聞こえた。

 彩雨は紺雨を庇うように抱きしめた。その2人を晧と桃糸が後ろに押しやる。

 店と住居を繋ぐ狭い通路部分に、宮殿の兵士たちが姿を現した。

「いたぞ!」

「誘拐犯だ!」

 恐怖に身を固くする親子に、喋らないよう身振りで伝え、桃糸は懐から一枚の縦長の紙を取り出した。

 口の中で何事かを唱え、持っていた紙をはらりと落とす。

「!?」

「なんだ!?」

「消えた……?」

 兵士たちの様子が変わったのを確認して、晧が慎重に扉を開け、外に出るよう促す。

 一番最後に外に出た桃糸はもう一枚懐から紙を取り出すと、先程とは違う言葉を唱えて、閉じた扉の隙間に差し込んだ。

「これでよし。行こう」

 桃糸に背を押され、紺雨と彩雨は足早にそこから離れる。

 紺雨は興味深そうに桃糸を見上げ、「何をしたの?」と興奮気味に訊いてきた。

「宮殿の兵士が混乱してた」

「魔力の流れをね、ちょっと動かしたんだよ」

「……すごい」

「でしょー?」

 満更でもない様子の桃糸に晧は溜め息をつく。

「で、どうする」

「うーん、どうしよ。助けて、橙華じょうか様ー」

 桃糸は腰に結んであった木の鈴をするりと撫でた。

「……まぁ、それが妥当ですかねぇ」

 宙を見つめ、独り言のように話す桃糸。

 紺雨は不思議そうに首を傾げた。桃糸は笑って雫形の木鈴を見せる。

「この中に、僕の先生がいるの」

「……へぇ」

「その反応、信じてないよね」

 ふいっと視線を外す紺雨に、桃糸は「別にいいけどー」と唇を尖らせた。

「あ、これ、渡しておくね」

 歩みを止めて、三度みたび懐から紙を取り出した。一枚を彩雨に、もう一枚を紺雨に渡す。

「無くさないでよ」

 それから晧の荷物にあった大きめの布を出して、彩雨に頭から被らせる。

「晧と彩雨は大通りを国外に向かって歩いてて。行商人の二人連れは珍しくないし、夫婦でってのもおかしくないしね。……紺雨は、案内してくれる?」

「……まさか」

 驚く紺雨ににかりと笑って、

「うん。緑雨に会いに行こう」

 頭上で、かーんという高い鐘の音が響いた。



 彩雨さいうの菓子屋の周囲は騒然としていた。

 彩雨の人となりを知っている人々は、なぜ兵士が押し寄せるようなことになっているのか理解できず、困惑している。

 だがその理由を、走り回っている兵士を捕まえて問うことは、兵士の殺気だった様子からはばかられた。

「じゃあ、あとで」

 桃糸とうし紺雨こんうとともに人混みに紛れて王宮に向かう。

 心配そうに見送る彩雨に、こうが「大丈夫だ」と明るく笑った。

「ああ見えて桃糸はしっかりやるやつだ。心配ないよ」

「えぇ……」

「さぁ、俺たちも行こう」

 晧と彩雨も人混みに紛れて歩き始めた。すれ違う人の中には彩雨の顔見知りもいたが、桃糸の渡してくれた紙の効果なのか、誰も気に止める者はいなかった。


 その頃桃糸と紺雨は、大通りから右に曲がり、緩やかな坂道を登っていた。

「どうした?」

 やたらと周りを気にしている紺雨に、桃糸は足を止めずに尋ねる。

「知ってる人がたくさんいるのに、誰も声をかけてこないなって」

「あぁ」

 桃糸は親指をぐっと立てて笑う。

「僕、可愛い上に優秀だからね!」

「……え」

 思わず立ち止まった紺雨に、桃糸はさらに笑った。

「なんかそういう反応久しぶりだなぁ」

 きょとんとする紺雨の頭をぽんぽんと軽く撫でた。

「ほら、早く行こう」

「うん。……こっち」

 細い路地を抜け、生活用の道に出る。しばらく進み、そして雑木林に分け入った。

「えー……。ここ進むのー……」

「うん」

 桃糸はげんなりしてしまう。

 山道は歩き慣れているとはいえ、それはある程度人が歩き踏み固めた道だ。まったく手の入っていない薮の中を歩くのは勝手が違う。

 あっという間に桃糸の息は上がり、足元がふらついてくる。

「いや、もう……しんど」

 先を行く紺雨は時折立ち止まり、桃糸を気にかけてくれた。

 つまずいて転ぶ桃糸に何度手を貸してくれたのかわからなくなった頃に、やっと宮殿の白い壁が見えた。

 桃糸は膝に手をつき、必死に呼吸を整える。

「大丈夫?」

 背中を撫でてくれる紺雨に片手を上げて返事をし、「ふー」と大きく息をついた。

「ありがと。よし、行こう」

 いつも窓から出入りしているんだと説明して、紺雨は白壁に近付く。

「あれま」

「窓が……!」

 補佐官の指示だろう、窓には板が打ち付けられてしまっていた。

「そんな……」

「まぁ、兵が来た時点で王宮で何かあったと思うべきだよねー」

緑雨ろくう……!」

 紺雨こんうが焦ったように板を叩く。

「緑雨、そこにいる!?」

 何度か叩くと、内側からも叩く音がした。そしてくぐもってはいたが、「紺雨!?」と呼ぶ声が。

「無事みたいだね、よかった」

「どうしよう、桃糸とうし

「んー……」

 板に触れてみる。そんなに厚さはないようだが、どうやら外側と、内側からもう一枚打ち付けてあるようだ。

 腰にある鈴を左手で撫でて、桃糸は「どうします?」と小さく呟いた。

「……えー。いや、いいですけど……。こういう時だけ急に過激になるのはなんなの、橙華じょうか様」

 不思議そうに見上げてくる紺雨にもう少し後ろに下がるよう伝えて、両手で板に触れる。

「緑雨、聞こえる?この板をなんとかするから、ちょっと離れていてね」

 内側からの返事があったのを確認して、桃糸は目を閉じる。

 深く息を吐き、意識を集中させた。

 次の瞬間、何が起きるのかと見守っていた紺雨の目の前で、板どころか白壁の一部が轟音を立てて崩れ落ちた。

「あ、やべ」

 桃糸は頬を引きらせる。

「……いやいや!だって!こういうの苦手なの知ってるでしょ!?ちょ、橙華様!?」

 木鈴に向かって慌てて言い訳する桃糸の横を、小さな人影が走り抜けた。

「紺雨!」

「緑雨!」

 双子は駆け寄り、お互いの無事を確認する。

「怪我はない?」

「そっちこそ」

「母さんは」

「大丈夫、心配ないよ」

 二人は安心したように息をつき、ぎゅっと抱きしめ合う。

 人の足音や声が聞こえてきた。あれだけの大きな音がしたのだ。人が集まってきて当然だ。

「ここは私に任せて、皆様はお行きなさい」

 そう言ったのは室内にたもう一人の人物、瑞奉ずいほうだった。

 ことの次第を知っていた彼は、幼い王と共に監禁されてしまっていた。

 瑞奉が何者なのかすぐに察した桃糸は頷きかけ、でも、と反論する。

「貴方一人がここに残ったら危険なのでは」

「そうだよ、一緒に行こう」

「瑞奉、行こう」

 双子に左右の手を取られ、老いた先視さきみはふわりと笑う。

「じいやは大丈夫です。ご心配にはおよびません。さぁ、お早く」

 二人の背を押し、桃糸の元へ行くように促す。

春青山しゅんせいざんのお方ですね」

「うん、まぁ」

 瑞奉は頷き、「お二人をお願いいたします」と頭を下げた。

「先視でしょ?どこまでえてるの?」

「私の力はもうかなり弱くなっております」

 瑞奉は目を伏せてしまう。

「終焉も、まもなくでしょう」

「……そう」

 部屋の扉を叩く音がした。城外を警備していた兵士も、少しずつ集まってきているようだ。

「行くよ!紺雨、緑雨!」

 桃糸は二人に手を差し出す。

 一人は桃糸に向かって駆け出し、もう一人は瑞奉の手を強く握った。

「どうなさいました?」

「……俺は、残る」

「何をおっしゃって……!」

「王が国を見捨てるなんてできない。この国の人たちは特殊だ。刻を知らせる役目を果たせるのは俺だけ。それを放っておくなんて出来ない」

 目の見える瑞奉が一時的に肩代わりすることもできようが、おそらくそれは補佐官が信用しないだろう。

 そもそもこの状況下で、瑞奉が肩代わりすることが許されるのかも怪しい。

 次代の王はもちろんまだ選別されていない。王宮内で目が見える者がいなくなる。

 刻を知らせる鐘が鳴らなくなる。国民の生活は立ち行かなくなるだろう。定刻通りに薬を飲まなければいけない者は、命を落とすかもしれない。

 国民が困ることをわかっていながら、それをすることは出来ない。なぜなら自分は、蒼螺国そうらこくの王だから。

瑞奉ずいほうた王は紺雨こんう、俺だ。だから、俺は残る」

 瞳に涙をいっぱいにためる双子の片割れにそう言って、紺雨は力強く笑った。

緑雨ろくうには母さんを頼んだ」

「違う……!」

「大丈夫、任せとせよ」

「ちが……!」

 部屋の外でがちゃがちゃと金属音がし、錠の開く音がした。

「行って!」

 紺雨は駆け寄ってきた緑雨を突き飛ばす。

 よろけたその体を桃糸が抱きとめた。

「急いで!」

 嫌だ行かないと泣きじゃくる子どもを抱え上げ、桃糸は雑木林に飛び込んだ。

 伸びた枝葉に頬や腕を傷付けられるのもいとわず、口の中で魔力を散らすまじないを唱えながら、いっきに下っていく。

 人の声は聞こえたが、どうやら瑞奉たちが上手くやってくれたようで、追いかけてくる様子はない。

「ちょ……も、無理……」

 ぜーぜーと息をつき、抱えていた子どもを下ろす。腕がすっかり痺れていた。

 もう少し行けば生活用の路地に出るあたりだ。

 大きく深呼吸し、桃糸は汗に濡れた前髪をかき上げる。

 子どもは立ち尽くし、丘の上に視線を向けて泣いていた。

「……俺、ごめ……っ。また……、また逃げた……!」

 桃糸は子どもの頭を撫で、抱き寄せた。

 縋り付き泣きじゃくる子どもの瞳は、蕩けた夕日のように赤く、美しかった。


 こう彩雨さいうと合流しても、子どもは桃糸とうしに抱えられたまま、顔を上げようとしなかった。

 何があったのか事情を聞いた二人はそのまま桃糸に子どもを任せることにした。

 彩雨は、自分も行けばよかったと後悔に涙したが、手元に残された我が子を守らなければと気丈に振舞った。


 蒼螺国そうらこくを出て湖に向かう街道。その途中で宿をとった。

 今夜は新月。晴れた夜空に星々が煌めき、見上げる子どもの瞳にも映り込んでいた。

「眠れない?」

 中庭でぼんやりとしていた子どもに、桃糸とうしは上着をかけてやりながら訊く。

「……桃糸は、わかってるんでしょ」

「うん」

 子どもはきゅっと唇を結び、俯く。

緑雨ろくうが決めたことだ。僕らがどうこう言って変えられることじゃないと思うけどね」

 桃糸は井戸の縁に腰掛けた。昼間は暖かかったが、日が落ちると冷える。

「……瑞奉ずいほうは、“紺雨こんう”が王だと言ったんだ」

「うん」

「でも俺は、王になんてなりたくなかった」

「そう」

 自分の体を抱きしめるようにしていたが、子どもの体の震えは止まらない。

「城から迎えが来た時、俺、逃げたんだ。嫌だって。王になんてなりたくないって。……そしたらあいつが……緑雨が、じゃあぼくがやるよって」

 懺悔するように吐き出される言葉たち。

「みんな色が分からない。紺雨と緑雨が入れ替わっても誰もわからない、大丈夫だって」

 桃糸は子どもを、紺雨を抱き寄せ、その背を撫でる。

「時々、緑雨と母さんの様子がおかしいことに気付いたんだ。緑雨から無理矢理聞き出したら、父さんにぶたれるって。だから今度こそ、俺がなんとかしようと思ったんだけど」

 大人の無慈悲な暴力に、子ども一人でどうにかなるものではない。入れ替わった時に反論するようにしたが、暴力を増長させただけだった。

「俺、また、なんも出来ない……」

 食いしばった歯の隙間から、「悔しい」と何度も零す。

 たくさんの後悔と、幼い身には余るほどの憎しみ。それらを溢れる涙と共に肩に受け、桃糸はひとつ息をついた。

 紺雨の背中をぽんぽんと叩く。そっと体を離して、泣き濡れた夕日色の瞳を覗き込んだ。

「ねぇ、紺雨」

「……なに」

 風がでてきたようだ。木々がざわめく音がする。

「悔しい?」

「……うん」

「どうにかしたいって思う?」

「うん」

「わかった」

 強い風が吹き、桃糸の桃色の髪を乱す。同じ色の、いつもからかうように笑う瞳が、今はなんだか怖いくらいに紅く見えた。

「……桃糸?」

「その気持ちが本当で、消えることがなかったら、春青山しゅんせいざんにおいで」

「春青山」

「そう」

 にこりと笑ったが、やはりいつもとどこか違う。

「春青山の仙は、頼ってきた人を無下にはしないよ。出来うる力をもって、助けてくれる

 」

「桃糸は、仙なの」

 先程とは別の理由で声が震えた。

 なんだろう。いつもは明るく軽やかな桃糸の気配が、今はとても重く、暗い。

 作りもののような笑顔を貼り付けて、「違うよ」と続ける。

「僕は仙のなり損ない」

「なり損ない?」

「そう」

 桃糸は紺雨の瞳を真っ直ぐに見つめ、その視線にからめとられた紺雨は身じろぎも出来ない。

「覚えておいてね、紺雨」

 一際強く風が吹いた。桃糸は唇を紺雨の耳に寄せ、「春青山においで」と低く呟く。

 その一言は重く、紺雨の柔らかな心に深く深く沈み、おりとなって留まった。




 蒼螺国そうらこくを出て五日目の朝、湖の船着場に到着した。

 追手はなかった。

 朝日に煌めく湖の対岸を指さし、こうが優しく笑う。

「向こう岸が錦香国きんこうこくだ。明日の夜には俺の村につける。もう少し頑張ってくれな」

 彩雨さいうは「ありがとうございます」と微笑んだ。

 彼女たちはひとまず晧の村に行くことになった。国外に身寄りはなく、行く場所もない二人を、晧が招いた。

「ちょっと色々あって、落ち着けるかはわからんが」

 そう言って申し訳なさそうにする晧に、彩雨は再び「ありがとう」と笑った。

「ねぇ」

 ぐい、と服の裾を引かれ、桃糸とうしはしゃがむ。

「なに?」

「桃糸はどうするの」

「僕はこのまま山に行くよー」

 腰にある木鈴をするりと撫でて、

「今までと違う魔力の使い方を知ったから、試してみないとねー」

 春青山しゅんせいざんに行くなら陸路の方が早い。桃糸とはここでお別れだ。

「……そう」

 素直にしゅんとする様子を見て、桃糸は頬が緩むのを抑えきれなかった。

「えー、なにー。僕と離れるのがそんなに寂しいのー?」

 抱き寄せて柔らかな頬に頬ずりする。

 された方は「離せ、やめろ、違う」と身をよじった。

「桃糸さんにもお世話になって。仲良くしてもらえてよかったね、緑雨ろくう

 彩雨の何気ない呼びかけに、緑雨と呼ばれた子どもは一瞬体を強ばらせたあと、「うん」と笑顔で応えた。

 労うように、桃糸が子どもの頭を撫でる。

「しばらく山にいるつもりだからさ。落ち着いたら遊びにおいでよ」

 商売でくるよね?と問われ、晧は力強く頷いた。

「ついてくればいいさ、緑雨。せっかくだ、あちこち見てみるのも悪くないぞ」

「……うん」

「緑雨」

 呼ばれて見上げた桃糸の顔が、逆光で暗くなる。

「待ってるからね」

 暗い影の中で、桃色の瞳が輝いていた。




 半年後、蒼螺宮そうらきゅうでひとつ騒ぎが起きた。

 王の父として補佐官の任に就いていた人物が変死したのだ。

 会議の最中に突然席を立ち、訳の分からないことを叫んでそのまま倒れた。

 同席していた官吏たちが駆け寄った時には血泡を吹き、すでに絶命していたという。

 持病もなく健康そのものだった。もしや毒殺ではと不穏な空気が流れたが、先視さきみである瑞奉ずうほうが「定められていたこと」と告げたことで払拭された。

「天により約束されていたことです。蒼螺国の損失にはならず、混乱が起きることもないでしょう」

 瑞奉の言葉通りだった。

 補佐官を喪っても王は立派に役目を果たし、まつりごとについても滞りなく身につけていった。

 思慮深く広く意見を聞き入れる王の姿は、多くの人々に愛された。

 時折、急に言葉遣いや食の好みが変わることもあったが、「王のきまぐれ」と侍従たちはそれすらも好ましく感じていた。



 青螺国。

 国民全てが盲目だが、不思議な力により、まるで見えるているかのように人々は生活している。

 色が溢れることで有名だが、それらは全てただ一人、国王のためのものだ。

 王は、鐘を鳴らして国中に時刻を知らせる、ときの管理者の役目を担う。

 蒼螺国の長い歴史のなかで、二人の人物が一人の王を務めたことがあるそうだ。

 宮殿の史書には記されておらず、蒼螺国に仕える先視さきみたちにひっそりと口伝されているらしいが、真実はわからない。












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