夕陽(せきよう)下

 ぴょんと元気に飛び跳ねた子兎は、桃糸とうしを振り返りつつ茂みの奥に消えていった。

「ふー……」

 桃糸はすっかり脱力し、座り込んだまま。目の前には枯れてぼろぼろになった蒲公英たんぽぽがある。

 上手くいってよかった。しかしこれは、そう頻繁にできるものではなさそうだ。自分の消耗がひどすぎる。

「よっこいしょ……」

 膝に手をつき、どうにかこうにか立ち上がる。

 早く戻らなければ。すっかり西日が眩しい。

「ほんに、飽きることがない」

「!?」

 背後から突然聞こえた声に驚いて振り向くと、そこには黒い外套を頭からすっぽりと羽織った小柄な人物が立っていた。

 足音はしなかった。いつからそこにいたのか。

 白い華奢な手が、頭に被っていた布を落とす。

 夕日の中にあってもわかるほど、鮮烈なあかい髪と瞳。

 少女としか言いようのないその人物が満面の笑みを浮かべるのを見て、桃糸は背中が粟立あわだつのを感じた。

(この人は駄目だ)

 警鐘が頭の中で鳴り響く。ここにいてはいけない、そう思うのに、少女の血のように朱い瞳に射抜かれて身動きができない。

 少女は微笑み、ゆっくりと桃糸に近付いてきた。

「まさかこの山で魂移しを行う者がいようとは」

 ころころと笑う様子はまさに愛らしい少女。小さな舌でぺろりと朱唇しゅしんを舐めた。

(喰われる)

 自分がたちの悪い捕食者に目をつけられたのだと自覚した時、背後からばたばたと足音が聞こえた。

 少女の視線が桃糸から外れる。

「桃糸!」

 名前を呼ばれるのと同時に、師が少女の目から隠すようにして抱きしめてきた。師の腕に包まれ、桃糸はやっと息をつく。

橙華じょうか様……!」

 しがみつく手がどうしても震える。

「大丈夫ですか!?」

 顔を覗きこまれ確かめるように頬を撫でられた。だが自分よりも師の顔色の方が青白い。

「僕は大丈夫です。橙華様こそ、ひどい顔色をしてる」

「私は大丈夫。あぁ、桃糸。お前はなんてことを……!」

 師に再び抱きしめられ、桃糸は困惑した。

 なんだろう。悲しみと、驚き?

「久しいのう、橙華」

 少女の声に、師は自分を背に庇うようにして前に出た。

「どれほどの時が過ぎたやら。汝は幾分、歳をとったようだのう」

乖朱かいしゅ……。なぜここに」

 乖朱と呼ばれた少女は目を細め、桃糸をちらりと見る。

「山に次代の降りた気配がしたゆえ、様子見に。……おもしろいものを見つけた。たまには古巣へ戻るのもよいの」

 口元に手をあて笑う様子は本当に愛らしい。だがなぜだろう、桃糸は乖朱が恐ろしくてたまらなかった。

「お引き取りを。ここはもう貴女の帰る場所ではない」

「つれないのう、橙華。幼い頃はあんなに泣いてばかりだったのに。まるで碧天水へきてんすいのようだえ」

「……乖朱」

「そう目くじらをたてるな」

 からかうように笑い、乖朱は「ところで」と声色を変える。

「弟子は二人もたらされたようだの」

「それが何か」

「次代は一人でよかろう。桃糸というたか、その子を我にくりゃれ」

 桃糸の足元から全身に震えが走る。

 恐ろしくてたまらないのに、乖朱に「桃糸」と甘い声で名前を呼ばれると、差し出されている手にすがりたくなってしまう。

 橙華が珍しく怒りを滲ませた声で申し出を拒否していたが、桃糸は自分の足が一歩前に出たのをぼんやりと感じた。

「桃糸!?」

「ふふ、良い子だのう。さぁおいで、桃糸」

 拒絶する心とは裏腹に、もう一歩踏み出してしまう。

 と、後ろから強く腕を掴まれた。驚いて振り向くと、そこには必死の形相の紫鏡しきょうがいた。

 涙を瞳いっぱいに貯めて、両手で桃糸の腕を掴んでいる。

 桃糸は深呼吸をし、紫鏡に向かって頷く。掴んできていた手を取りそのまま握る。そして二人揃って橙華の後ろに下がった。

「これはこれは」

 乖朱はなおも楽しそうに笑っている。

「よいよい。慌てる事はなかろう。明日の夕刻にいおりを訪ねるゆえ、ようくお考え」

 背を向け歩み去っていく乖朱。ほんの数歩進むと、その姿は霧のように消えてしまった。



 庵までの道のりを、桃糸とうしを真ん中にして三人で手を繋いで歩いた。

 日はすっかり傾き、今日最後の橙色の光が森の中を満たしている。

「先生、あの人は」

 紫鏡しきょうはおずおずと橙華じょうかに尋ねた。

 橙華はちらりと二人の弟子に目を向けたが、厳しい表情のまますぐに前を向いてしまう。

乖朱かいしゅといいます。私の姉弟子だった人物です」

 桃糸と橙華は固く繋いでいた手をさらに強く握る。

「六歳の頃です。禁術に触れようとして、師に下山を言い渡されました。……あの姿はお前たちよりも幼い。おそらくあの姿の時に術を完成させ、己の身体を時間の流れから切り離したのでしょう」

 眩しいほどの夕日が、橙華の美しい金髪を照らす。

「死は全ての命に平等に与えられたものです。仙やそれに連なる術士、先視さきみの一族は長い時を生きる。しかしそれには必ず果てがあります。果てがあるからこそ、人々とは違う時を生きていけるのです。乖朱は」

 立ち止まり、真摯な瞳で二人の弟子を見つめる。

「彼女は、その死を拒絶し、永遠の時を生きることを選んだのです」

「……橙華様。僕」

 言いかけた桃糸に首を振り、言葉を遮る。膝を付き、桃糸の両手をひとまとめにして握りしめた。

「知っています。魔力の流れでわかりました」

「……ごめんなさい」

「いいえ。きちんと伝えていなかった私にこそ責任があります」

 桃糸の頬を涙が転がった。

 心配そうにしている紫鏡を手招き、その手を取る。

「二人はとても大きな力を宿しています。どちらが仙を継いでも、なんの遜色もないでしょう」

 微笑み、二人を引き寄せて抱きしめた。あんなに小さかったのに、いつの間にこんなに成長してしまったのだろう。

「このまましっかり学び続けていけば、乖朱の行った禁術にも手が届くかもしれません。実際桃糸は、そのきっかけに触れています」

 桃糸の体が緊張する。それにくすりと笑って「大丈夫」と続けた。

「様々なことを知っておくのは悪いことではありません。重要なのは、その知識や力が何を引き起こすものなのかを理解し、時には自らの意思で踏み留まることです」

 桃糸は繰り返し頷き、頬を流れる涙を拭った。

「桃糸が行ったのは魂移しと言われるもの。本来簡単に出来るものではありませんが、対象が強い魔力を持っていなかったことが幸いしました」

 立ち上がり、膝を払う。

「魔力を持った相手が対象だった場合、大きな代償が伴います。魂と肉体、そして時間を結びつける魔力ちからは、とても強大なものだからです」

 二人の弟子の頭を撫でて、ふわりと笑う。

「たったひとつの命を、与えられた肉体からだで、限られた時間の中で生き抜く。だからこそ生き物は美しいのだと私は思っています」

 沈みゆく夕日を眺めて、橙華はほうと溜め息をついた。

「あぁ、美しい夕日ですねぇ」

 なんとなくその日の夜は三人とも離れがたくて、全員で橙華の寝室で眠った。

 二人の弟子を抱えて見た夢は、泣き叫ぶ赤ん坊の二人を初めて抱き上げた時のものだった。




 紫鏡しきょう桃糸とうしも朝から落ち着きがない。

 座っては立ちを繰り返し、珍しく紫鏡はお茶をこぼし、桃糸は橙華じょうかのあとをついてまわった。

「大丈夫ですよ」

 雛鳥のようなその様子を見て、橙華は笑った。

乖朱かいしゅに桃糸を渡すなんてことは絶対にしません」

 いつもと同じ師を見ても、二人の心はこれっぽっちも凪ぐことはなかった。

 何も手につかないまま時間を過ごし、気付けば日が暮れ始めている。

 昨日と変わらない美しい夕日が庵を照らしてくる。

 このまま何も起きず、変わらない明日がくるのだろうとなんとなく桃糸が考えていると、橙華が無言で席を立った。

「橙華様?」

 厳しい表情をした横顔に声をかける。橙華は「ここにいるように」と言いおいて、庵の外に出ていった。

「紫鏡!」

 自室で微睡んでいた紫鏡を揺り起こし、視線で外を示す。

 察したのだろう、頷くと、紫鏡は魔除けの札を桃糸と自分の服の内側に忍ばせた。

「効果があるかはわからないけど」

「助かるよ。行こう」

 庵を出るとすぐ師の背中が見えた。向き合うようにして乖朱が立っている。

 庵から出てきた二人に気付き、とろりと笑った。

 橙華が振り向き、

「二人とも戻りなさい!」

 だが二人は一定の距離を保ったまま、その場を動こうとしない。

 曇りのない真っ直ぐな瞳で、橙華を見ている。

「よいよい」

 乖朱はころころと笑った。

「橙華は我に桃糸をくれぬと言う。桃糸は?我と共に山を下りる心づもりはあるかえ?」

 問われ、桃糸は力強く首を横に振った。

「ありません。僕はここで学びます。ずっと」

 桃糸は紫鏡と手を繋ぐ。それを見た乖朱は口元に手をあて、視線を落とした。

「そうか。それは残念よのう」

「乖朱、お引き取りを」

 橙華は乖朱に背を向け、庵へ、弟子たちのもとへ戻ろうを足を踏み出す。

 背後で乖朱が楽しそうに笑い声をあげた。

「……乖朱?」

「よいよい」

 愛らしく微笑み、乖朱は桃糸に指を突きつける。

「来たくないのならば」

 突きつけていた指を移動させ、今度は橙華を指差す。

「来たくなるようにしてやろうぞ」

 橙華を示していた指を腕ごと勢いよく天に向かって振り上げる。その途端、橙華が膝から崩れ落ちた。

「先生!?」

「橙華様!」

 二人は慌てて駆け寄った。

 乖朱の姿は既になく、ただ笑い声だけが辺りに響いていた。その笑い声の合間に「さぁ、どうするかえ」と愉快そうな呟きが聞こえてくる。

「先生!」

 紫鏡は倒れた師の頭を抱え、その顔色を見て言葉を失う。青白く、まるで死人しびとのよう。

 瞳は固く閉じられ、呼吸はあるが今にも掻き消えてしまいそうにか細い。

「なんで、何これ、どういうこと!?先生!」

 落ち着かなければと思うのに、目の前の師の姿に紫鏡はどうしても狼狽うろたえる。

 一方桃糸は、橙華の手を取り目を閉じていた。

「……桃糸?」

「紫鏡、よく聞いて」

 開かれた桃糸の瞳は、いつになく真剣で。紫鏡は頬を流れていた涙を拭い、深く頷いた。

「今、橙華様の体からは、生きるための力が……魂が、少しずつ抜けていってるんだと思う」

「……うん」

「このままだと橙華様は死んでしまう」

「どうすればいい?」

 先程までの混乱が嘘のように、紫鏡は冷静に桃糸に問う。

「留めればいいんだけど、上手くいかなくて」

 目を閉じて意識を集中する。「留まれ」「動くな」と力の流れに命ずるが、全く聞き入れようとしない。

 熱くて冷たいものがするすると師の体から零れ落ちている。師の魔力による抵抗というより、別のものに邪魔されてそもそも桃糸の意識が届いていないように感じる。

 桃糸の頭の隅で、別の考えがよぎった。

 留められないのなら、邪魔のいない別の場所に導けばいい。

「でもそれは駄目だって先生が」

「わかってる。でもこのままだと橙華様は」

 このまま看取ることが正しいのか。師はこんな別れを望むのか。

「先生、どうしたら」

 尋ねる相手は応えない。

 悩む間に、じわじわと橙華の体温が失われていく。

 桃糸とうしは自分の腰に提げていた木鈴を左手に持ち、右手を橙華じょうかの胸の上に置いた。

「桃糸」

「やるだけやってみる。このまま何もしないで見てるだけなんて、僕は嫌だ」

 再び目を閉じ、力の流れを探る。

 それはすぐに見付かった。細く流れ続ける橙華の力を右手に引き受け、留めるのではなく流れを変えるように左側に導く。

「く……っ」

 子兎の比ではない抵抗感。

 温度や明暗だけではなく、それは痛みをも伝えてきた。

 胸の奥をえぐられるような痛み。

(大丈夫。大丈夫です、橙華様)

 桃糸は強く瞼を閉じ、逃れていこうとする橙華の力に呼びかける。

 力の流れを通して、たくさんの光景が桃糸の頭に浮かんでは消えていく。様々な夢をいっぺんに見ているような気分だ。

(まさか、これは)

 金の髪を持つ幼い子どもが、見覚えのある寝台で膝を抱えて泣いている。

(橙華様の)

 桃糸は意識の中で、泣きじゃくる子どもを抱きしめた。

(大丈夫です、橙華様)

 子どもが顔を上げ、よく知っている橙色の瞳が笑った時、手の中にあった力の抵抗感が無くなった。

 右から左に力を導き、橙華の体から離れるそれに、別の器に留まるよう命じる。

「桃糸……?」

 抵抗感は無くなったが、橙華の魔力は今の桃糸よりも遥かに大きかった。

 強い魔力を受け止めるには未熟な体は、通り道になるだけでも酷く損なわれていく。

「いったー……」

「桃糸!」

 閉じられたままの桃糸の両目から、鮮血が滴る。

 だが橙華の魂が無事に木鈴に移ったのを感じ取り、桃糸は満足そうに口元を緩めた。

「魂が新しい器に馴染んでくれば、橙華様とまた話もできるよ、きっと」

 その時がきたら、やり遂げた自分を師はきっと褒めてくれるだろう。




(褒めるわけないでしょう)

「えー……」

 橙華じょうかと意志のやり取りができるようになったのは、一ヶ月ほど経ってからのことだった。

 術を行った桃糸とうしと会話することは出来たが、紫鏡しきょうとは通じ合うことが出来ず、彼女も橙華も随分と落ち込んだ。

(駄目だと言ったでしょう、桃糸)

「そうなんですけどー……」

 紫鏡は桃糸の包帯を変えながら、首を傾げる。

「先生はなんて?」

「めっちゃ怒ってる」

「もっと怒られろ」

「えー……」

 桃糸の目は完全に光を失った。傷が癒えても、視力が戻ることは無いだろう。

「だいたいなんであんただけなのよ。私も先生と話したい」

「それはわかるんだけどさ……」

 机の上に敷いた柔らかい布の上、ちょこんと置かれた木鈴を、紫鏡は愛おしげに撫でる。

「橙華様も、紫鏡と話したいって」

「……うん」

「いっぱい勉強して、いっぱい調べよう」

「うん」

「……そろそろ日が沈むよね」

 桃糸は見えない目を窓の外に向ける。

「今日の夕日も綺麗」

「見えるの!?」

「見えない。でもなんかわかるんだ」

「ふーん」



 春青山しゅんせいざん

 仙の産屋うぶやと呼ばれるその山には、仙とその弟子が住まう。

 当代の仙はいつの間にか姿を消した。

 二人いた弟子のうち、一人は新しい仙として山に残り、もう一人は術士として山を下りたという話を、行商人の男は麓の村で聞いた。






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