別離(べつり)下
日が
どれほど長い時間外を歩いていたのだろう。幼い弟子たちはさぞ不安がっていよう。
ようやっと見えてきた
その庵から、赤い髪の子どもが飛び出してきた。
「おや、
珍しく血相を変えて走ってくる子どもに、
「碧天水、
「おかしなもの?」
とにかく庵へ、と急かされて、小走りに庵へ向かった。
暖かな光に包まれた庵の中は、とてつもない異臭がした。
「これは」
死臭。鼻を袖で覆って、碧天水は庵の中を見回す。
どこからともなく、呻き声のようなものが低く聞こえてきた。
「橙華!」
姿の見えない弟子の名前を呼ぶと、普段は使っていない奥の部屋から返事がある。
どこか悲鳴じみた、切迫した声だ。
「乖朱、お前はここにいなさい」
乖朱が頷いたのを確認し、碧天水は奥の部屋に向かった。
呻き声もこの部屋から聞こえる。それに合わせて、異臭も強くなった。
「橙華?」
「碧天水様ぁ!」
部屋に入ると、がばっと金の髪の子どもが抱きついてくる。
泣きすぎて顔が真っ赤になっているが、体に異常は無さそうだ。
服の所々に、黒っぽい染みのようなものがある。
「これは、いったい……」
橙華の背を撫でてやりながら、室内に視線を走らせた。
ここは客間として用意してあった部屋だ。
使うことはほとんどないので、寝台と机がひつずつあるだけの、大した作りではない。
その寝台に、一人の男が仰向けに倒れていた。
着ている服は粗末なもので、破れたのを何度も繕っているのがわかる。
しかしそんなことは驚くようなことではない。
碧天水は橙華を自分の背後に下がるよう押しやり、男に近付いた。
「貴方はどこからいらしたのですか?」
静かに問うと、苦しげな息の合間に「麓の村から」と男が答える。
男が呻くたび、苦しそうにもがくたび、その身体からは血が吹き出た。
あらゆる箇所から出血しているのか、小さな寝台はすでにどす黒い。
橙華はすすり泣いている。
「村はもうおしまいです。薬師では手に負えません……。どうか、仙のお力を……!」
息も絶え絶えに訴える男の目から、血の涙が流れた。
「碧天水様、助けてあげて……!」
縋り付き、懇願する橙華。
乖朱は橙華が招いたと言っていた。
男の苦しむ様子を見て、放置できなかったのだろう。素直で優しい、良い子だ。しかし。
泣きじゃくる弟子を腕に閉じ込め、碧天水は冷静に告げる。
「私では、どうすることも出来ません」
「どうして!?碧天水様、お薬もおまじないもたくさん知ってるのに……!」
「出来ないのです。私の術は傷を癒すもの。病を取り除くものではありません。方法が無いわけではありませんが、それは今は出来ません」
男に向かって、碧天水は小さく頭を下げた。
諦めたのか納得したのか、男は一瞬穏やかに微笑み、そしてまたすぐに苦しそうな表情を浮かべた。
大きく咳き込み、背を弓なりにしたかと思うと吐血してしまう。
「橙華!」
男の背を撫でようと前に出た弟子の腕を、強く掴んで引き止める。
「いけません、下がりなさい!」
「いや!」
「橙華!」
師の腕を振りほどき、橙華は男に駆け寄った。
だが当の男自身が、橙華に近付くなと手を振る。
「おじさん!?」
男が呼吸するたび、風が隙間を抜けていくようなひゅーひゅーという音が響いた。
「この病は伝染する……。近付いたら駄目だ……」
ごめんな、と力無く笑い、男は一際大きな血塊を吐いた。そのまま、痙攣し始める。
「おじさん!」
ぼろぼろと涙を落とし、それでも橙華は目を離すことが出来ない。
「橙華」
「おじさ……!」
碧天水は肩を震わせる幼い弟子を、後ろからきつく抱き締めた。
「命あるものはいずれ滅びます。全ての命に、唯一平等に与えられたものが死です。決して、忘れてはいけませんよ」
「……はい」
男は
「どうしました」
自室の窓から夕日を静かに眺め、考え込んでいるふうの
あの病の男を看取った日から、こうしていることが増えた。
「
真剣な目で問われ、碧天水も表情を固くする。
「私はそうだと思っています」
「ではお前の師は、それから自由になろうとしたのだな」
「……やはり、気付きましたか」
「あぁ」
暖かな風が、どこからか花の香りを運んでくる。
「お前は?出来るのかえ?」
「……おそらく、可能でしょう」
穏やかに、できるだけ弟子の心を刺激しないように。
しかし乖朱の瞳からは、欲望の色が消えない。
「そうか」
嬉しそうに微笑み、乖朱は座っていた椅子から立ち上がる。
服の裾を払って埃を落とした。
「あの術は決して使ってはいけません。時の流れに逆らったとてなにがありましょう。自然の内に身を置いてこそ、命はその命足り得るのです」
滅多に聞くことのない碧天水の真剣な言葉はしかし、乖朱には響かなかった。
「教えてはくれぬのかえ」
「なりません」
これが6歳の子どもか。なんという強い意思と魔力。世界はなぜこのような生き物を生み落としたのか。
「貴女が強いのは分かります。しかしこの術は駄目です」
二人の視線が宙で絡み合う。先に逸らしたのは乖朱だった。
「わかった。ここにいては学べぬのだな」
「乖朱」
「我は山を下りる」
「……許可は、与えません」
「わかっておる」
楽しそうに笑って、乖朱は部屋を出ていった。
「碧天水様、起きて!!」
翌朝早く、寝室の扉を激しく叩かれて目が覚めた。
「
声をかけながら扉を開けると、そこには薄い夜着のまま、大粒の涙を零す橙華の姿があった。
「おやおや。怖い夢でも見ましたか」
「乖朱が、乖朱がいないの!」
泣きじゃくりながら、彼女の荷物もいくつか無くなっているのだと説明する。
外ではようやっと霧が晴れてきたようだ。鳥たちが歌い始めるのが聞こえる。
目線を合わせるためにしゃがみ、
「橙華、落ち着いて聞いてください」
「っはい……」
「乖朱は、二度と戻りません。いえ、戻ることを許しません」
「え」
「彼女は強い。しかしあまりにも強い力は、いずれ自らをも滅ぼしてしまう。ここを離れた時点で、彼女はその道を歩むことを選んだのです」
静かな、厳しい師の声。
橙華はただ涙を流すばかりで、何も言葉が出てこなかった。
「貴方が仙を継ぐのですよ、橙華」
「碧天水様……?」
普段の柔らかな様子とは違う、厳しい目をする師に、橙華はもうすっかり混乱してしまっている。
何を言われているのかよく理解できない。
仙?継ぐ?誰が?
「……碧天水様は、どうするのですか!?僕は、仙って、どうして……!?」
乖朱がいなくなってしまったことの衝撃もあり、橙華は完全に落ち着きをなくしている。
呼吸が荒くなっているし、薄く汗もかいているようだ。
「橙華、こちらへ」
自分の部屋に招き入れ、寝台に座らせる。
寝起き用に準備してあった水差しから水を湯のみに注いで、橙華の小さな手に持たせた。
「お飲みなさい。少しでいいので」
素直にこくんと一口飲み込んで、ほうっと息を吐く。
「
「……はい」
「
「禁忌」
多少落ち着いたのか、もう一口水を飲み、橙華は真っ直ぐに
「自らの時を永遠のものとし、死から逃れる術です。私の師が追い求め、そして」
碧天水は一度視線をさ迷わせたが、決意したように再び橙華の瞳を見た。
「そして、命を落としました」
「あの部屋の……」
目に見えて、橙華の顔色が消えていく。
「そうです。そして私は、あの部屋の時間を周囲から切り離しました」
小さな唇が喘ぐように開く。だが声は出ず、代わりに、手にした湯のみがかたかたと震えた。
「朽ちることのない命ほど、価値のないものはありません。その術を、私は乖朱にも貴方にも教えていませんし、これから教えるつもりもありません。ですがあの子は、いずれ辿り着くでしょう。魂と肉体を、時の流れから切り離す方法に」
ぽろぽろと涙を流す橙華。
うまく話すことも出来ず、可哀想にただしゃくりあげている。
「私は乖朱を、許すことはできません。愚かな師と同じ道を行こうとするあの子を」
聞こえているのか、きちんと理解しているのか。ひとまず落ち着かせ、それからまた話をしようと、碧天水は橙華から湯のみを取り上げた。
「食事をしてから、場所を変えて、またゆっくり話をしましょう」
「……」
「……橙華?」
泣いてしゃくりあげているだけにしては、呼吸音がおかしくはないか。
不審に思って見ているうちに、橙華は小さな手で胸元を抑え、苦しそうに体を折った。
顔色が青白くなっていく。咳き込み、そして
「橙華!?」
吐血した。
慌てて夜着をめくり、体を確認する。
ところどころに黒い斑点が浮かんでおり、皮膚の下でいくつも出血しているのがわかる。
庵で看取ったあの村人と同じ。
「橙華……!」
咳の合間に、痰と一緒に血を吐き出す。
幼い橙華の身体は、あっという間に病魔に
乖朱は山を降りた。
橙華は死ぬ。
それはつまり、次代の仙が消えることを意味した。
この世界が出来た時から、湖の守り神を
代々その力の使い方やあらゆる知識を弟子に伝え、役目を終えた先代は山を下りるのだ。
その後は術士として各国を巡り、魔力が滞りなく流れ消費されていくのを手助けする。
そして春青山の反対側にある
本来山を下りるはずだった先代は、その役目をまっとうすることなく没した。
乖朱と橙華が山にもたらされた時点で、自分の命数は先が見えている。当然、新しい弟子が与えられることはない。
正統な仙も術士も絶えれば、この世界に満ちた魔力の流れは
何が起きるのか、自分には検討もつかない。
碧天水は大きく息をつき、震える橙華の体を力一杯抱きしめた。
「橙華。必ず助けます。もう少しだけ、頑張ってくださいね」
弟子の背に枕をあてがい、寄りかからせる。
美しい金の髪を撫で、その額に口付けた。
「貴方と乖朱に出会えたこと、私は心から嬉しく、感謝しています。どうか、健やかに」
碧天水は寝室を出ると、あの部屋に向かった。
扉に触れ、解呪の言葉を呟く。
欲望のために、唯一の弟子であった自分をおいて果てた師。許すことはついぞ出来なかった。
「……橙華は、私を許してくれるでしょうか」
碧天水は師の部屋に入ると、静かに扉を閉め、施錠した。
どこからともなく、泣き声が聞こえてくる。
赤ん坊の泣き声だ。おそらく、二人分の。
まだ濃い霧の中、長い金の髪を乱し、声の元を探して茂みをかき分けていく。
「……いた」
低木の茂みの中、開かれた場所で、元気に泣き声をあげる二人の赤ん坊。
一人は白、もう一人は桃色の髪。
小さな手をぎゅっと握りしめ、必死に声を上げている。
届くのは、生きようとする強い意思。
自分の頬を涙が流れていくのを、橙華は感じた。
師も、こんな気持ちだったのだろうか。
「……ほら、もう泣くんじゃありません」
二人の赤ん坊を引き寄せ、縋るように抱きしめた。
「あまり大きな声を出すと、湖の守り神様に叱られてしまいますよ」
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