別離(べつり)上

 春青山しゅんせいざん

 麓にある湖を挟み、玄冬げんとう国と向かい合う美山である。

 低木が多く、草原に包まれた山だ。

 仙の産屋うぶやとも呼ばれ、世界が誕生した時からその全てを見守ってきたとされている。

 朝と夕、頂上付近にのみ濃い霧が立ち、遠くから見ると山の頂上が消えてしまったように見え、下界の人々は神聖な場所として尊んでいる。



 どこからともなく、泣き声が聞こえてくる。

 強い意思を訴える、赤ん坊の声。おそらく、二人分の。

「こんな朝早く……」

 いおりの周囲はまだ深い霧に沈んでいる。

「おやおや」

 一人は赤髪、もう一人は金髪。

 低木の茂みの中に寝かされていた。

 二人とも小さな手をぎゅっと握りしめて、必死に声を上げている。

 生きようとする、強い意思。

「ほら、もう泣くんじゃありません。あまり大きな声を出すと、湖の守り神様に叱られてしまいますよ」

 白い手を伸ばして、二人の赤ん坊を抱き寄せた。

 動きに合わせて長い銀髪が揺れる。

 赤ん坊の体は冷えきってしまっていた。

 二人を抱いて立ち上がろうとしたが、体がよろけて上手くいかない。

「おやおや。これはまずいですねぇ」

 置いていくわけにもいかない。

 知らない人間に抱かれて怯えたのか、二人はますます泣き声を上げた。

「さて、どうしましょうか。……おや、いいところに」

 薄靄うすもやの中から、茂みをかき分けて一匹の猿が現れた。

 春青山しゅんせいざんに居を構える、体の大きな雌猿だ。

 ついこの前、怪我の手当てをしてやったことから仲良くなった。

「お願いできますか?」

 相変わらずぐずっている二人の赤ん坊のうち、金の髪の子を雌猿に預ける。

 彼女は静かに受け取って、その赤ん坊を慣れた手つきで胸元に抱えた。




 そして月日は流れる。

碧天水へきてんすい様、お水運んできました!」

「碧天水、薬草取ってきた」

「ありがとうございます、橙華じょうか乖朱かいしゅ

 椅子にゆったりと腰かけて、碧天水は本を読んでいた。

 赤髪の乖朱と金髪の橙華。二人が碧天水に拾われて6年が経つ。

「なんの本を読んでいたんですか?」

 手元を覗き込んでくる橙色の瞳。橙華の名の由来だ。

「橙華にはまだ難しいですよ」

「……ふろう、ふし?」

 橙華の反対側から同じように覗き込んでいた乖朱の呟きに、碧天水は素直に驚いた。

「おやおや。乖朱はこうこれが読めるんですねぇ」

 今はもう誰にも使われなくなった古い文字。本来、6歳そこそこの子どもが読めるものではない。

「お前の本棚はいつ見ても飽きない」

「嬉しいことを言ってくれますね」

 碧天水はぱたんと本を閉じると、乖朱の赤い髪に手をやった。

「乖朱はどの本棚が気に入りました?」

 橙華はきょろきょろと周囲の本棚に目を向ける。

 三人が暮らすこのいおりは、部屋という部屋全てに本棚が置かれていた。

 特定の内容にとらわれることなく、様々な本が雑多に並んでいる。

 料理の本、子ども向けの絵本、ただの落書きのような、まるで意味があるとは思えないような本。

 橙華じょうかはぐるりと見回して、乖朱かいしゅに視線を戻した。

「あの部屋の本だ」

 乖朱が指さした部屋。その扉には、先程碧天水へきてんすいが見ていたのと同じ古代文字で、何事か刻み込まれている。

「おやおや……」

「……碧天水様?」

 一瞬、師の瞳が氷のような色をみせた。

「乖朱、橙華。約束をしてください」

 幼い二人の弟子の手を取り、緩く握る。

「あの部屋に入ってはいけません」

「どうしてですか」

「なぜだ」

「あの部屋は、私の師の部屋です」

 席を立つと、碧天水は机に湯のみを3つ並べた。

「私の師は、自らの研究に溺れ、自らの力を過信し、そして死にました。あの部屋で」

 花の香りのする茶を注ぎ、二人の前に勧める。

「あの部屋はそれ以降、何も手をつけていないのです」

 橙華は自分の湯のみに手を伸ばしながら「大切なお部屋なんですね」と無邪気に笑った。

「そう……ですね……。なのであの部屋には、入ってほしくないのです」

 こくんと素直に頷く橙華。

 その隣で、乖朱は不服そうにしている。

「入るなというなら入るまい。我が気になったのは、あの文字だ」

 そう言って乖朱は立ち上がると、扉に刻み込まれた古代文字を指さした。

「なぜこんなものを刻んだ?」

「……」

 乖朱の問いに、碧天水は答えない。ただ穏やかに微笑んでいる。

「……あのっ」

 二人の間に漂った冷たい空気に耐えかね、橙華はぴょんと椅子から降りた。

「僕、母さんと遊んできます!」

「!待て、橙華!」

 ばたばたと足音をたてて、二人は部屋を飛び出して行った。

 残されたのは飲みかけのお茶と、彼らの師。

「おやおや。慌ただしいことで」


 春青山にはたくさんの生き物がいる。その生き物全てが、乖朱と橙華の遊び相手であり教師であった。

「母さんの居場所を知ってる?……小川だね、ありがとう!」

 木の枝に休んでいた小鳥に尋ねて、橙華は笑顔で走り出す。

 乖朱は静かにその後ろ姿を追った。

 春青山を流れる清らかな小川。やがては山の麓の湖に辿り着く。

 その小川の縁で、川の中を覗き込んでいる大きな猿が一匹。

「母さぁん!」

 橙華の声に反応して振り向いたのは、いつかの雌猿だ。

 走り込んできた橙華を胸に抱きとめ、その後ろをのんびりやってきた乖朱を手招きする。

「母さん、何してたの?」

 雌猿は小川の中を指し示した。

 橙華は雌猿の体から離れ、小川を見に行く。ここぞとばかりに乖朱が雌猿の膝上に座り、ちらりとその顔を見上げた。

「何かあるのかえ?」

 橙華はそろっと小川の中を覗く。

 そこには黒い、丸いものが沈んでいた。

 よく見ると細かな毛があり、大きな毛玉にも、まりもにも見えた。

 小魚がそれをつついて泳いでいく。

「なんだろう」

「どうした」

 不思議そうに小首を傾げた橙華に、乖朱が雌猿の膝上からぴょんと飛び降り近付く。

「まりも?かな?」

 示された川底を覗き込み、

「こんな黒いまりもなぞ聞いたことない。そもそも、春青山にまりもがいるのかえ?」

 乖朱は袖をまくると、迷う様子もなく流れに手を入れ、その黒い物体を掴んだ。

「きゃあっ!」

 橙華は乖朱が引き上げたものを見て悲鳴をあげ、雌猿の後ろに逃げてしまった。

「なにそれ!?なんで!?」

「我が知るわけあるまい」

 それは頭部だった。

 小さなそれは、雌猿とは別種の猿の子どもの頭だった。

 瞳はしっかりと閉じられている。

「やだ、乖朱……!早く、それ、どっかにやって……!」

 もう完全に怯えてしまって、橙華は雌猿にしがみついたまましゃくりあげ始めた。

「血が滴っているわけでもあるまいに……」

 乖朱はつまらなさそうに、手にしていたそれを川に放った。

 ぼちゃんと音をたてて、水に沈む。

「行くぞ」

 泣きじゃくる橙華に手を伸ばし、乖朱は声をかけた。

「ふっ……ぅえっ……」

「橙華」

 雌猿にしがみついたまま、橙華は離れようとしない。

「……ここに残るかえ?」

 冷たい乖朱の声音に「やだぁっ」と橙華は慌てて顔を上げた。

「では行くぞ。一様、碧天水に知らせねば」

「うん……」

 鼻をすすりながら、橙華は差し出されていた乖朱の手を取る。

「またね、母さん」

 雌猿に涙を拭われて、やっと小さく笑う。

「行くぞ」

 乖朱に手を引かれながら歩き出した橙華。空いた方の手を振ると、雌猿も応えて小さく手を振り返した。



「おや、橙華じょうか乖朱かいしゅはどうしました?」

 碧天水へきてんすいが昼食を入れた籠を持って、小川のほとりに座り込んでいた雌猿に声をかけた。

 彼女は静かに庵のある方向を示す。

「おやおや、入れ違いになりましたか」

 特に気にすることもなく、その場に腰を下ろした。

「あぁ、食事中でしたか」

 自分の湯のみを用意しつつ、碧天水は雌猿が何かをんでいるのに気付いた。

 同時に、彼女の膝上に、水に濡れた黒い毛玉のようなものがあるのに目を止める。

「二人はそれを見て帰ったのですね」

 碧天水は恐れる様子もなく、その小猿の

 頭部を撫でた。

「まだわからないのですよ」

 薄く笑み、湯のみに茶を注ぐ。

「生きているものが、行き続けていくための犠牲の存在を」


「碧天水!」

 乖朱は橙華にしがみつかれたまま、庵の入口で大声を上げた。

「……お出かけ、かな」

 人の気配が感じられない庵。

 普段なら、入口で声をかけると笑顔の師が出迎えてくれるのだが。

「いかがする?」

「うーん……」

 碧天水のいない庵というのを、二人はあまり経験したことがない。

 そこかしこにある小さな影が、なんだか不気味なものに見えてくる。

「戻るか?」

 乖朱は薄い笑みを浮かべ、橙華に訊いた。小川の代母の所に戻るか、と。

「……いや!」

 慣れない庵の様子に怯え、それでも小川に戻るのも怖い。

 どちらも選ぶことが出来ず、橙華は駄々をこねるようにやだやだと繰り返した。

 乖朱は面白そうにそれを眺めていたが、ふと思い出したように橙華の手を引いた。

「……なに?」

 涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を上げ、橙華は乖朱に導かれるまま、あの部屋の前に立つ。

「この部屋……」

 扉に古代文字が刻まれた部屋。

「入ったことは?」

「ないよ。怖い感じがしてたし……」

 乖朱は冷静に扉の古代文字を見上げる。

「我は一度、入ったことがある」

「朝、言ってたね。でも、もう駄目だよ」

 橙華を振り返った乖朱の瞳は、血のようにあかい。

「何もなかった」

「え?」

「小さな机がひとつと、ただ本が溢れているだけだった。他の部屋と大差ない」

「そう、なの?」

「碧天水は何を隠しているのだろうなぁ」

 乖朱は手近にあった椅子を運び、踏み台代わりにする。

 扉に刻まれた文字を撫で、何事かを呟いた。

 その呟きに呼応するように、文字が白く発光する。

「きゃあ!」

 ぱちんと弾けて、それきり静かになった。

「なに、今の!?」

「……封印であろう」

 顔色ひとつ変えずに、椅子から降りた乖朱は扉の取手に手をかけた。

「乖朱、駄目だよ!」

「今なら部屋のまことの姿が見えるであろう。碧天水が何を隠しているのか、気にならぬのかえ?」

 にやりと笑った乖朱のその笑みは、6歳の子どもが見せる表情ではない。

 橙華はただひたすらに怯え涙を落とすばかり。その様子を鼻で笑って、「開けるぞ」とゆっくりと取手を回した。

 押し開かれた扉の隙間から真っ白な光が溢れ、一瞬視界を奪われた。

 そして部屋は、師の封印しておきたい過去の存在をさらけ出す。



 体の中にあったものを、無理矢理破壊されたような感覚。

「封印を解きましたか……」

 小川のほとり、手の中にある湯のみを見つめつつ、碧天水へきてんすいは一人呟く。

乖朱かいしゅ、貴女は本当に強い。知も力も兼ね備えています。次代の仙は貴女が相応しいでしょう。しかし、自らを律することのできない今のままでは……」

 手の中の湯のみ、茶の注がれたその表面には、庵の様子が映っている。

 橙華じょうかは逃げ惑い、乖朱は興味深そうに何かを見ている。

 くるりと場面が変わって、水面は部屋の様子を映した。

 そこは、数百年前と何も変わっていなかった。

 壁を埋め尽くす本棚。散乱した薬瓶。小さな机。そしてその机に倒れ込み、苦悶の表情で目を見開いた師。

 どれだけ長い時間が過ぎても、自分のかけた術によって朽ち果てることはない。

 師は自らの力をおごり、不老不死の体を手に入れようとした。

 しかしそれは成功しなかった。

 逆流した力は師の体に流れ込み、そして逆の効果をもたらした。

 もがき苦しみながら、身体が細り、見たことも無い老人へと変化していく自分の師を見ても、碧天水は特に何も感じなかった。

 息絶えていく師をただ眺め、それだけ。

 自分がその時何を考え何を思っていたのか、全く覚えていないし、それはさして大事なことだとも思えない。

 しかしあの時から、他人に対して穏やかに笑いかけることが出来るようになった気がするのだ。


(続)


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