思慕(しぼ)下

 こうは馬に荷物をくくりつけ、村の入口に向かった。

 その後ろに、線の細い娘が従っている。

「明日の昼には戻るから。それまでにあんたの待ち人が来たら、気にせず行ってくれて構わないからな」

 先日、しこうと名乗る娘を保護した。

 父親とはぐれたという彼女を放っておくことができず、行く場所が無いのならと自宅に招いたのだ。

 彼女は驚くほど家事が出来なかったが、それでも一人で寝起きするよりはずっと楽しかった。

「じゃ、行ってくる」

「……いってらっしゃい」

 しこうと出会って今日で五日。父親は未だ現れない。

(もしこのままなら、嫁さんになってくれねぇかなぁ)

 晧は後ろ髪を引かれながら、村を出る。

 出てすぐの所で、一頭の白馬とすれ違った。

 白い外套をすっぽりと纏った人物が乗っている。布のせいで顔はよく見えない。

(旅人か)

 ここは集落を繋ぐ要所。旅人や商人は珍しくない。

 今日も良い天気だ。子どもたちは元気に遊びまわり、男たちは力仕事に忙しい。女たちはお喋りを楽しみながらも、その手はせっせと家事をこなしている。

(今日もいい一日になりそうだ)

 微笑んで見上げた空は、雲ひとつない、とても綺麗な青空だった。


 果てなく続く青い空を見上げて、藍香あいこうは思う。

 父をいさめるべきだったのか。もしくは紫香しこうを。

 二人の関係が、いつからか男と女のそれに変わったことには気付いていた。

 自分は父を、そして姉を愛している。しかし自分のその愛情は、二人には届いていなかったのか。

 表面的には仲の良い親子。だがひとたび宮殿の奥に入れば、そこは父と姉のための場所だった。

 兄も瑞綺ずいきももちろん気付いていた。しかし彼らも、藍香と同様、止めることは出来なかった。

「行ってくる」

 村の入口に、男女の二人連れが歩いてくる。

 男は行商にでも行くのか、たくさんの荷物を馬の背に括りつけていた。

「……いってらっしゃい」

 後ろに従っていた線の細い女が、小さく呟いて男を送り出す。

 すれ違いざまに見えた男は、陽の光を集めたような暖かい目をしていた。

 藍香は馬を進める。

 男を見送った女は、そのまま元きた道を戻ろうとしていた。藍香には気付いていない。

(間違いない、紫香しこう…!)

 青い髪に、淡い紫の瞳。そして

(そして、私と同じ顔)

 馬の腹を軽く蹴り、歩き去ろうとしていた紫香の行く手を遮るように移動する。

「紫香」

 下馬して近付いてくる藍香を、紫香の濁っため目が見つめてきた。

「紫香、探したのよ」

「……」

「紫香!」

 呼びかけても反応はない。

 ただぼんやりと藍香を見つめるだけ。いや、見てすらいないのかもしれない。

 紫香の瞳はまるで息絶えた魚のようだ。

「紫香、ねぇ。私を見て」

 青白い頬を両手で包み、額と額を合わせる。

 幼い頃、夜の闇が怖くて一人で眠ることが出来なかった。

 同じ寝台で温もりを分け合ったあの頃と同じ、なにも変わらない温かさが、紫香の頬や額から伝わってくる。

 失いたくない。

「一緒に帰ろう、紫香」

 腕を背に回し、ぎゅっと抱きしめる。

 紫香の香りが藍香の鼻腔をくすぐった。

 それは紫香も同じだったようで、僅かに顔の向きを変え、くん、と鼻を鳴らした。

 されるがままだった紫香が身をひねり、藍香の腕から抜け出す。

「紫香?」

 紫の瞳が揺れている。

「紫香。私よ」

 顔を覗き込むようにすると、やっと目が合った。

 紫香が自分を見ている。その歓喜が、藍香の頬に涙となって溢れた。

「……あいこう」

「紫香!?」

 微かな呟きと共に、紫香の瞳の靄が晴れた。

 どれくらいぶりだろう、姉が自分の名を呼ぶのは。

「紫香!よかった……!さぁ、宮に帰りましょう!」

 飛び跳ねるようにして藍香は紫香を抱きしめる。

 何度も名前を呼び、その頬に自分の頬を寄せた。

 もう離さない。私の片割れ。

「父様はどこ?」

「!」

「ねぇ、藍。父様はどこ?兄様は?」

「紫香」

「父さま、兄さま」

 紫香は藍香に背を向け、ふらふらと歩き出してしまう。

「紫香!」

 焦りのあまり、藍香は紫香の腕を掴むと無理矢理引き寄せ、再び腕に閉じ込めた。

「父様はお隠れになったわ。わかるでしょう!?」

 必死に訴え、紫の瞳に自分の姿を映そうとする。

 しかし姉の瞳は、すでに濁ってしまっていた。

「あぁ、とうさま。そうこう。いとしいひと」

「紫香!!」

 紫香は膝をつくと、空に向かって両腕を伸ばした。

 そしてそのまま、見えない誰かを抱きしめるような仕草をする。


 ……結局、駄目なのか。

 どんなに願っても、声を荒らげても。

 紫香にも、父にも、自分の心は届かない。


 姉が父の寝室に忍んで行こうとしていたある日の夜、耐えきれずに呼び止めたことがあった。

 許されることではない、と。

 あなたがたのしていることは、国をも傷付けているのだ、と。

 朱唇を噛みしめ俯く藍香あいこうに、紫香しこうはそっと微笑みかけた。

「私は父様を愛しているの。愛した男がたまたま父親で、たまたま国王だっただけよ」

「紫香、その理屈は決して通じないわ。今ならまだ間に合うの。私と兄様、そして瑞綺ずいきが目を閉じ耳を塞ぎ、口を噤むことで片付くのよ。お願い、紫香。もう父様の所には」

 行かないで、そう言おうとした藍香の唇は、紫香の人差し指で止められた。

「じゃあ、あい

 紫の瞳が、誘うように美しく揺らめく。

「貴女はどうなの?」

「え」

「貴女が最も愛する人はだぁれ?」

 くすくす笑い、真っ赤になって返答できずにいる妹の頬に、紫香はふわりと口付けた。

 背に腕を回し、抱き寄せる。

「藍。私も貴女のことが大好きよ。兄様のことも大好き。でも父様のことは、愛しているの」


 天を仰ぎ、愛しい男の名を呼ぶ姉。

「紫香姉様」

 大好きよ。今も昔も。私の心は何も変わらないのに。

 藍香の瞳からぽろぽろと涙が零れていく。

「とうさまは、そうこうはどこ……?どこにもいないの……」

 虚ろに尋ねてくる、最愛のしこう

 だがその唇が呼ぶのは、最も嫌悪したちちおや

「姉様、私を見て」

 膝を折り視線を合わせ、もう一度自分を見てくれと懇願する。

「紫香」

「そうこう、どこ?」

「姉様、お願いよ」

「そうこう」

「愛しているの」

「そうこう、あいしているわ」

「姉様、私が貴女を誰よりも愛しているのに」

 抱き寄せても、口付けても。

「そうこう」

 どれだけ愛を伝えても。

「そうこう」

 紫香あなたは、藍香わたしを受け入れない。

「そうこう」

 もう聞きたくない。

「姉様」

 もういらない。

「……愛していたわ」

 私を愛してくれない貴女は、もう必要ない。


(ふぇ、うぇぇん)

(どうしたの、藍)

(ねーさま、ねーさまぁ)

(泣かないで。大丈夫よ)

(夜が怖いの……)

(大丈夫。私がずっと藍の傍にいるわ。ずっとずっと一緒よ)


「……紫香?」

 自分は何をした?

「姉様?」

 目の前に横たわる姉は、赤い水に沈んでいる。

 肩を強く揺さぶってみるが、反応は無い。

「きゃーっ!」

「おい、役人を呼べ!」

「人殺し……!」

「うわぁーんっ!」

 自分の手にあるのは、懐に閉まってあった護身用の小刀。

 赤に染まり、柄に結んであった小さな鈴も元の色が分からない。

「紫香?」

 抱き上げた姉の体はまだ温かい。

「どうして」

 震える指で、そっと頬を撫でる。

「目を閉じているの?」

 藍香の瞳からは涙が止まらない。

「姉様!」

 小刀を捨て、両手で強く肩を揺すってみる。

 しかし紫香は目を閉じたままだ。

 その唇は朱に染まり、胸や腹、あちこちから生暖かい水が流れ出ている。

「あ……あ……」

 恐怖か、悲しみか、後悔か。

 あらゆる感情が心から溢れ、その衝動に任せて藍香は絶叫した。

「うわっ」

「なんだ!?」

 藍香の悲鳴に呼応するように、突風が巻き起こる。

 あまりの強さに家々がなぎ倒されて言った。

「おい、火が!」

「燃え広がるぞ!」

 どこからか点いた火は巨大な火炎となり、あっという間に集落を包んでいった。

 集まっていた人々は手を取り合い、助け合いながら逃げていく。

 残ったのはただ一人、泣き崩れる藍香だけ。

「嫌よ」

 藍香の声はまさしく風に呑まれた。

「貴女がいなくなるなんて、許さない」

 ほんのわずか、姉の唇から息が漏れている。

 まだ間に合う。

「姉様、私は貴女を」

 風に煽られた炎が二人を包み、その姿はどこからも見えなくなってしまった。




 炎は三日をかけ、小さな村を焼き尽くした。

 あとにはなにも残らず、逃げ遅れた人の確認も困難を窮めた。

「ここか」

 馬にまたがっていた人物、秦香しんこうは、抱えるようにして同じ馬に乗せていた瑞綺ずいきに問う。

「……はい」

 瑞綺は涙に濡れた灰色の瞳を、焼け落ちた集落に向けた。

「間違いございません」

「よし」

 後ろに従っていた数名の兵士に視線で促す。

 焼け跡に散っていく彼らを見送り、秦香は深く息をついた。

「お前の先視さきみの通りになったな」

「……申し訳ございません」

 細い手は青白くなるほど強く握られていた。

「なぜ私はここにいるのでしょう。あるじ殿の望みを叶えることも出来ず、いったいなんのための力なのでしょう」

「瑞綺」

「どんなに言葉を尽くしてもお詫びには足りません。私はなんと役に立たない先視か……!」

 顔を覆い、華奢な肩を小さくして瑞綺は嗚咽し始める。

 秦香にはただ抱きしめてやることしかできない。

 先視の一族が視たものを変えることなど、当人たちはもちろん誰にだって不可能なことだ。

 もしも出来るものがいるとしたら、それは唯一、神だけであろう。

 晴れ渡った空を見上げていると、兵士が一人駆け戻ってきた。

 その手には見覚えのある小刀が握られている。

「あったか」

 秦香は下馬し、小刀を受け取った。

 集落を焼き尽くすほどの炎に飲まれても、その小刀には傷もなく、曇りもない。

 そしてその柄には、藍色の紐で結ばれた小さな鈴がついていた。

 変わった意匠のその鈴は、お守りにと、父が藍香に渡した物だ。

「間違いない、これだ」

 秦香は瑞綺を馬から降ろし、小刀を預ける。

 瑞綺はぎゅっと、小さなその鈴を握りしめ、その手を祈るように自分の額に当てた。

「こちらに、おられます」

 鈴を解放し、小刀ごと秦香に返す。

 膝を折り、両手をつき、深く深く頭を下げた。

「こちらの鈴に、紫香様の魂が封じられております。藍香様が自らの全てと引替えに、魂移しを行われました」

「……そうか」

「紫香様は深く眠っておられます。いつお目覚めになるのか、今はまだえません」

「瑞綺」

「はい」

「ご苦労」

「……はい」

 秦香は小さな紫の鈴を握りしめ、もう一度「ご苦労」と告げた。


 錦香きんこう国。

 にしきの香りが漂うと言われるこの国には、夜毎愛する者を求めてすすり泣く鈴があるという。

 なんとも悲しげなその泣き声は、持ち主の心を掻き乱し、狂わせてしまうそうだ。





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