思慕(しぼ)上
どこかで火の
周囲ではまだあちらこちらで煙があがっていた。
崩れた家屋の下から呻くような苦しそうな声が聞こえていたが、それもすぐに止んだ。
町を繋ぐ乗り合い馬車が、がらがらと車輪の音を響かせ、そして止まる。
「本当に降りるのかい?」
御者の男は不安そうに、しかし好奇に充ちた目で座っていた客の一人に声をかけた。
ほとんどの乗客は先程立ち寄った城下町で買い物を終えた者たちだが、今声をかけた客は真っ白な外套に身を包むばかりで、特に荷物を持っているふうではない。
布を目深に被ってるため、顔ははっきりしない。
「はい、ここで結構です」
しっかりと返事をすると、御者に運賃を渡す。
声の感じではかなり若い娘のようだ。
「お客さんの行き先にとやかく言う気はねぇが」
馬車を降りていく娘の後ろ姿を見ながら、壮年の御者は自分の頭を軽く撫でた。
「この村は三日前に突然消えちまった。気味の悪い噂もあるし、早々に離れた方がいい」
先を急かす他の乗客を制しつつ、御者は娘に手を伸ばした。
「娘さん、悪いことは言わねぇ。降りるなら次の村にしな。金のことは心配しなくていいから」
御者からの申し出に、娘は緩く首を振る。
「お気遣いありがとうございます。でも、私はこの村に用事があるので」
「……家族か、友人でもいたのかい」
「双子の、姉が」
暗く重い雲から、大粒の雪が舞い始めた。
南は
初代国王が香に精通した人物であったこと、隣国の翠木国から質の良い香木が手に入ることから、国民の多くが香に関わる仕事に就いている。
その素晴らしさは国外にも届いており、質素で有名な
この国はつい最近、代替わりがあった。
先代王、名を
民からの信頼が篤く、その葬儀では国中の人々が泣き崩れたそうだ。
息子、
新王には二人の妹がいる。
妹たちは時を同じくして生まれた、双子であった。
母は、王女たちを出産し名付けた直後に、静かに息を引き取った。
20年ほど前の話だ。
「ただいま戻りました、陛下」
厚手の絨毯が敷かれた部屋、降り続く雪を眺める王の背中に、白い外套の人物が声をかけた。
布を取って膝を折ろうとしたところで、王が振り返り、
「
陽の光を集めたような優しげな瞳が、外套の人物、藍香に笑いかけている。
その名の通りの深い藍色の瞳を細めて、帰城の挨拶をやり直した。
「ただいま、兄様」
「うん、おかえり」
人払いされた王の私室。
錦香国国王、秦香と同じ卓についているのは、妹姫の藍香と宮廷付の
「それで、どうだった」
兄王が手ずから淹れてくれた茶を一口すすり、藍香は力なく首を振った。
「瑞綺が先視した、三日前に焼失した村を訪ねてみましたが、何も。しかしあのようなことが出来るのは、錦香国広しと言えども瑞綺と、
俯く藍香の顔を、短く切られた青髪が縁どっている。
双子の姉姫が城から消えた日の夜、藍香は長かった自慢の髪を自ら切り落とした。
「何度も先視をしてもらってるのに……。本当に申し訳ないです」
頭を下げる王女の肩に、先視の一族の皺だらけの手が触れる。
頼りなく見える老婆の掌は優しく、慈愛に満ちた母のようだった。
「よいのですよ、藍香様。我が
「瑞綺……」
再び軽く頭を下げる藍香に視線をやりつつ、秦香は昨日城下町で買ってきた甘味の袋を開けた。
「瑞綺のようなよく出来た人物が我が国の先視でよかった。おかげで民が潤い、こうして限定の菓子も手に入る」
「兄様!またそのように瑞綺の手を
人好きのしそうな笑みを浮かべる兄に、藍香は思わず声を荒らげてしまう。
瑞綺はそれこそ兄妹喧嘩を眺める母のように笑ったまま、
「よいのですよ、藍香様」
「しかし、いくらなんでもこんな時に」
「このような時だからこそ、気が休まるのです」
静かに灰色の瞳を閉じた瑞綺に、藍香は不思議そうに首を傾げてしまう。
「瑞綺に視てもらう先はここしばらく辛いものばかり。そんなものを視続けていては、瑞綺が壊れてしまうよ」
ふと顔を上げてみた秦香の顔は、国王というよりはただの兄のもので。
「理屈はわかりますが」
まだごねようとする妹に、兄は優しく笑いかける。
「それに、
自分の眉間を撫でつつ、藍香は苦笑してしまう。
「紫香のことはもちろん俺も気がかりだ。可愛い妹だ、当然さ。だがそれと同じように、目の前にいるお前たち二人のことも愛しく思っているんだよ」
「……兄様には敵いません」
やっと笑った王女の手を、瑞綺は両手で優しく包み込んだ。
「おい、お前。そんなとこにいたら邪魔だぞ」
集落の入口に呆然と立っている黒い外套の人物に、
「どうした。具合でも悪いのか?」
晧は引いていた馬から離れ、視線を向けてくるだけで未だに立ち尽くしているその人物に近付く。
「この村に何か用事か?」
声をかけつつ、目深に被っている布の中を覗き込んでみた。
「……あなたはだぁれ」
「名前か?俺は晧。あんたは?どこに行く」
「こう?そうこう?」
顔を隠す布に手をかけながら、その人物は小さく呟く。
声の感じではかなり若い娘のようだ。
「
人好きのしそうな笑顔を浮かべ、晧は手を振って否定した。
「俺はそんなご大層な身分じゃねぇよ」
昨日までの雪が嘘のような暖かな昼の日差しの下、布が落とされ、娘の顔があらわになる。
空の色を集めたような美しい青髪に、淡い紫の瞳。
光を失ったようなその目は、ただ虚ろに晧を見ている。
「あんた、名前は。行く宛はあるのかい」
人のいい晧は、娘を放っておけなくなってしまった。
「あたしは、しこう。ひとを、さがしているの」
「人?」
無表情のまま、しこうは首を縦に振る。
「とうさま」
「父親とはぐれたのか。それは困ってるだろう。しばらくこの村で待ってみたらいいさ。ここは必ず旅人が通る。あんたの父親もそのうち来るだろうよ」
晧の言葉に、しこうが
「ほんと?とうさま、くる?」
「あぁ。きっとな」
しこうはうっすらと笑みを浮かべると、雲ひとつ無い空を見上げた。
「とうさま。まってるからね」
ごうごうと音がする。
これは炎だ。
巨大な火炎だ。
炎に焼かれ、沢山の星が、堕ちていく。
悲鳴をあげて、
内側にある鏡がうっすらと白く発光し、すぐに消える。
瑞綺は顔を覆い、嗚咽し始めた。
「瑞綺」
震えるその体を、
「すまない。また辛い先だったのだな」
まるで自分が
「いいえ、わたくしのことはよいのでございます。そのような事よりも」
上げられた瑞綺の顔は、普段より白み、むしろ青くすらあった。
秦香の肌触りの良い上着を強く握りしめ、珍しく取り乱す。
「今すぐ、
「心を乱すな、瑞綺。何を視た」
「あぁ……!」
再び顔を覆う瑞綺の背に手をやり、緩く撫でてやる。
しばらくそうしていると落ち着いたのか、押し殺した声で瑞綺が話し出した。
「……紫の星は落ちましょう。その直後、
秦香の眉間に皺が寄る。
「……私と紫香は、死ぬのですか?」
静かな声に二人が振り返ると、部屋の入口に
広大な
国王秦香の友人であり忠実な
入室が許されているのは僅かに三人。
国王と、その妹姫たちだけである。
日は既に没し、明かりは秦香の灯した蝋燭と藍香の手にあるらんたんのみ。
ふたつの小さな炎が、
藍香の足元に
「どうか此度の出立はお辞めくださいませ。せめてあとひと月、お待ちくださいますよう!」
「私と紫香は、果てるのですね?」
藍香の声は穏やかだ。
長い白髪を乱し、縋るように話す瑞綺を冷静に見下ろしている。
「命を落とされるだけならばどんなによかったか……!」
「……瑞綺、何を
「いいえ、
どんなにくだらないことでも喜んで教えてくれていた瑞綺がやたらと渋る。
先視が視た時点で、それは約束された先だ。言葉にしようとしまいと、いずれ現実になる。
「……錦香国国王として命ずる。何を視た。申せ」
主の変化に気付いた瑞綺は、伏せていた体を起こした。しかし秦香の顔を見ようとはしない。
「……此度出立なされば、妹姫様たちは命を落としましょう。しかし、藍の仁が闇に呑まれる代償に、紫の仁はこの世に留まるかと」
「では私は、魂までも消え果てると」
藍香の冷静な問いに、瑞綺は深く頭を垂れることで応えた。
「
秦香は妹姫の瞳を気遣うように見つめる。
「兄としては、命が果てることを知りながら大事な妹を送り出すことはできない」
優しく、芯のある声。
兄のこういう話し方が、父によく似ていると藍香は思った。
「しかし国王としては、国を騒がせている存在を無視することもできない」
「兄様のお気持ちも、国王としてのお考えも、よくわかります」
蝋燭の炎を反射する、穏やかな藍色の瞳。
全てを包むような優しさを感じさせるそれが、母によく似ていると秦香は思った。
「瑞綺の気持ちも、とても嬉しく思います」
顔を伏せたままの瑞綺の手を取り、きゅっと握る。
視線を合わせて、微笑んだ。
「でも私は、紫香に会いたい」
「藍香様!」
縋り付く瑞綺に対して、藍香ははっきりと首を振った。
「たとえ私が命を落とし魂までも失ってしまっても、紫香が幸せでいてくれるのであれば、それで充分です」
藍香の瞳にあるのは決意の色。揺らぐことの無い、強く美しい瞳だ。
「……では、藍香」
「はい」
「国王として命ずる。現在失踪し、多数の集落を破壊していると思われる錦香国第一王女、紫香の捜索を続けよ」
「承知いたしました」
「瑞綺」
「……はい」
「お前の視た、最後の紫香の居場所は?」
秦香の問いに、瑞綺は唇を噛んで拒絶する。
しかし藍香に「瑞綺」と優しく名を呼ばれ、ゆっくりと口を開いた。
「…先日焼失した村から北に2日。宮からは5日、早馬ならば4日ほどの所にある、小さな集落に」
たまらずに、藍香は瑞綺は抱きしめた。
「ありがとう、瑞綺」
自分のしていることはただの自己満足でしかない。
大切に思ってくれている人たちの手を振り払って、死のうとしている。
兄姉妹の中でもとりわけ彼女は父にべったりだった。
強い呪術の力を母から継いだ紫香を、父も溺愛していた。
二人の間に割って入ることは、
紫香は父の急逝を聞いた時、絹を割くような悲鳴をあげて昏倒してしまった。
次に目覚めたのは父の葬儀が全て終わった十日後で、紫香の記憶は半年分ほど抜け落ちていた。
父を求めて、昼も夜も宮内を徘徊するようになり、面差しの似た兄の言葉にしか反応しなくなった。
なんて可哀想に。
最愛の男を失って、紫香はさぞ苦しんでいることだろう。
だがそれは、自分も同じ。
自分も、最愛の人を失った。
「藍香様?」
物思いに沈んでいた藍香の前に、女官の手が伸びてくる。
「どうなさいました?」
「ご気分が優れないのでしょうか」
「出立は明日になさっては」
代わる代わる、女官たちは藍香の顔を覗き込み、服の裾を直してやったり襟を整えてやったりしていく。
早朝の光が差し込む部屋では、衣擦れの音が行ったり来たりしていた。
「大丈夫。早起きだったから、ちょっとまだ眠くて」
そう言って、おどけて笑ってみせる。
「今回は紫香様にお会い出来る可能性が高いとか」
「頑張ってくださいまし」
花を生けていた女官が笑う。
紫香があちこちの集落を破壊していることは、宮内でも限られた者たちしか知らない。
女官たちは皆、紫香と藍香が揃って錦香宮に戻ることを望んでいる。
三兄妹がいてこその宮だから。藍香も彼女たちの気持ちはよくわかっている。
しかし
「皆さん、今日までありがとう」
突然あらたまって頭を下げる藍香に、女官たちは一瞬呆然としてしまった。
「今までの長い間、本当にお世話になりました」
一人一人を見つめるように言って、ありがとう、と再び頭を下げる。
「何をおっしゃるのです!」
慌てて膝を折る女官たち。先程までの明るい笑顔が、不安な表情に代わっていく。
「なんとなく、言いたくなって」
「出立のご挨拶にしては縁起が悪うございます!」
「お止めくださいませ!」
青くなって訴えるその様子が嬉しくて、藍香は満面の笑みを浮かべることができた。
「大丈夫。紫香は必ず見つけてくるわ」
待っててね、と片目を瞑ってみせてから、藍香は自室をあとにした。
厩舎に向かって歩く途中、一度だけ立ち止まり、濡れた頬を拭った。
【続】
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