還魂(かんごん)
早朝。
霧立ち込める森の中、1人の青年が水の入った木桶を持って歩いている。
感情のない瞳は何を見ているのかわからない。
長く蒼い髪が風にのって白い頬をくすぐっていたが、それを楽しんでいるふうでも邪魔にしているふうでもなかった。
「おや、お戻りかえ」
古ぼけた小屋の前、切り株に座って本を読んでいた小さな影が、青年に声をかけて立ち上がる。
青年は持っていた桶をその人物、
「ご苦労」
深く被った布の下から覗く朱い瞳が、優しい微笑みを形取る。
木桶を提げて小屋に入ろうとする乖朱に、青年は音にならない声をかけた。
(次は?)
「なにも」
こくんと頷き、青年はくるりと乖朱に背を向ける。
「
振り返ると、布を外した乖朱がいつの間にか間近にいた。
青の頬に手を伸ばして引き寄せ、柔らかくその唇を噛む。
「夕刻までには戻りや」
青が頷いたのを確認し、乖朱は小屋に入った。
取り残された青は、特に目的もないまま、森の中をゆっくりと歩き始めた。
太陽が真上を少しすぎた頃、青は小川の岸辺に座り込み、さらさらと流れる水を眺めていた。
魚が鱗をきらきらさせて、群れを作り泳いでいく。
しばらくそうして魚を眺めていた青は、ふと思い立ち、川の中ほどへと入っていった。
水量は膝までしかない。
光る魚が、足の間を抜けていく。
(私はどこに行くのだろう)
青には
青という名も、乖朱に与えられたものだ。
(私はなぜ、ここにいるのだろう)
最初の記憶は、気付いたら乖朱の小屋で倒れていたところから始まる。
外傷は全く無いのに、自分の服が血まみれだったのを、ぼんやりと覚えていた。
この川は、水量は少ないがそこそこの速さがある。
仰向けになり、水の浮力に乗るように力を抜けば、自分の体がゆるゆると川の流れに乗ったのがわかった。
小屋で1
あたりには夕暮れの光が差している。
「……青?」
その頃、どうしてこうなったのか自分でもよくわからないが、青は見知らぬ男たちと一緒にいた。
水の流れにのって漂っていたところを突然抱き上げられ、この小さな洞窟に連れてこられた。
彼らはここを
それを眺めては下品な笑い声をこぼしている。
「お前、名前は」
声をかけてきたのは青を連れてきた男だ。
青はただふるふると首を横に振る。
「なんだ、名無しか?その割には上等なもん着てるよな」
青には何が高価で何が安価なのかよくわからない。
そもそも興味がなかったし、青が身に付けるものは全て
見知らぬ男たちに話しかけられることがこんなにも面倒なのかと、青は生まれて初めて気が付く。
なによりもここにいるのが嫌だった。
下品な笑い声、酒の臭い、薄い暗闇。全てが不快でしかない。
一言も発することなくただ座り込んでいる青の肩に、今度は別の男の手がかかる。
押し倒されて、馬乗りにその男が乗ってきた。
(乖朱)
先程から何度も呼んでいるのだが、反応がない。届いていないのだろうか。
馬乗りになった男は、抵抗しない青を見下ろし愉悦の笑みを浮かべている。
恐怖心を煽りたいのかそういう趣味なのか、男はゆっくり時間をかけて、青の服の留め具を外していった。
上半身が空気に晒され、男の無骨な手が青の白い脇腹をするりと撫でた時、洞窟の外から悲鳴が聞こえてきた。
「どうした!?」
洞窟の入口に、小柄な人影が見える。
体をすっぽりと覆う外套を身につけており、その手には血に濡れた長剣が握られていた。
「おや、お邪魔だったかえ」
乖朱は布を落とし、優しく笑う。
「それは我の人形。返してくりゃれ」
「残念だが、これはオレたちの獲物でね」
「お嬢ちゃんは別のお人形をお父様に買ってもらいな」
少女にしか見えない乖朱に男たちがそう言って嘲笑った時、青の脳裏には彼らが八つ裂きに切り倒されている姿が視えた。
複数の男たちに刃を向けられても、乖朱は楽しそうに笑っている。
どうやらその様子が、男たちの機嫌を逆撫でしたらしい。
「たった一人で、しかもてめぇのような小娘がオレたち全員を相手にする気か?」
「見たとこ綺麗なツラしてるし、このお嬢ちゃんも高く売れるぞ」
全て片付いて、乖朱と青が小屋に戻る頃にはすっかり日が落ちてしまっていた。
乖朱の灯す魔力の明かりがゆらゆらと揺れて、室内に2人の影が泳ぐようだ。
返り血を浴びた体を水で濡らした布で拭き、そのまま乖朱は青の体もあらためる。
「怪我は無いようだね」
頷きもせず、ただ俯いている青。
「
青を見上げてふわりと微笑む乖朱は、朱い瞳と髪を持つ、愛らしい少女にしか見えない。
「汝はなぜ、ここにいるのか」
青の頬に、細い指が伸びてくる。
「汝は我が人形」
僅かに震える青の瞳。それを乖朱は面白そうに覗き込んだ。
「汝は我が元で、人形として生きるために生まれた。それが我と汝の契約ゆえ」
(契約)
「そう」
青の滑らかな髪を一房取り口付ける。
「
今度は手を取り、手首に唇を落とす。
「魂の器を替えてでも
ころころと笑いながら、乖朱は手を伸ばす。青の右耳にある、青い鈴の耳飾りに触れた。
「汝は我が秘術によって蘇りし
乖朱は心底楽しそうに続ける。
「目覚めた時、汝は全ての記憶を持っておらなんだ。声まで失っていたのは予想外であったの」
ひとしきり笑い、乖朱は床に放り出してあった新しい服を拾って身に付け始めた。
「汝が動き、自ら思考できるは全て我の力。汝は我が人形。それ以上でも以下でもない。我と共に永きを生きればよい」
(乖朱)
呼ばれて振り返ると、青が長剣を握っている。
(では、私と契約を)
「契約。汝と?」
青の表情に変化はなく、真意が読めない。
(私と、新しい契約を)
青の瞳から涙が溢れ、頬を伝う。
「おや」
驚愕に見開かれる朱い瞳。
初めて見せる心の機微に、乖朱は興味をそそられた。
「聞くだけ聞いてやろうぞ、青。汝の望みは?」
静かな力強い声が、乖朱の頭の中に届く。
(眠らせてください、永遠に)
「ほう」
(それが元の姿。どうか私を、自然の流れに戻してください)
「なんとまぁ」
乖朱はころころと笑い、そして奥歯をぎりっと強く噛む。
やっと見つけたと思ったのに。
自分とともに、永い時を生きる者を得たと思っていたのに。
下唇を噛んだが、今はそんなことをしている場合ではない。
壊れた人形を、元に戻さなくては。
「よかろう、青。眠らせてやろうぞ」
あとで再び起こせばいい。
記憶の処理をしてしまえばなにも問題はない。
目を閉じ、術のために意識を集中させる。
足音がして、青の気配をすぐ近くに感じた。
「青、あまり動き回ると……!?」
体の中心を焼かれるような感覚が走り、集中が途切れる。
長剣が、腹に埋まっていた。
「青、貴様……」
柄を握っていた青の手が、膝を折って崩れていく乖朱の体を支えた。
床に横たえてやって、その横に座る。
唇を薄く開き肩で息をしている乖朱。
彼女は自らの腹に突き刺さる剣を抜くと、力無く投げ捨てた。
「……青」
血に染った指を伸ばし、近付いてきた青の頬に、鈴の耳飾りに触れる。
「汝は、愚かな仔よの」
乖朱の手を取り、青は強く握った。
蒼い瞳からとめどなく涙が溢れていたが、表情は変わらない。
(永い時から解き放たれましょう。私も、貴女も)
血泡をこぼしつつ、乖朱は笑う。
「面白いことを言う。我が何者かお忘れかえ?愚かで憐れな青、汝は1人で果てるがよい」
青は乖朱が放り出した長剣を再び手にする。
切っ先を乖朱の首に定めた。
(乖朱。貴女が果てれば、私の術も消えましょう)
彼女の唇が知らない言葉を呟き、そして笑みを形取る。
青の手が、剣をゆっくりと下ろした。
肉を断ち骨を砕く感触。
掌に伝わるその感触を最期に、青の意識は途絶えた。
森の中を1人の少女が歩いている。
彼女は血にまみれていた。
首の傷は致命傷に見えたし、そもそも出血量が尋常ではない。
しかし少女は笑みを浮かべながら、しっかりとした足取りで歩いている。
自分の肉体を朽ちることの無いものに変化させた、唯一の術者。
そんな彼女にとって、死の直前に自分の魂を他のものに移し替えることなど、赤子の手を捻るよりも簡単だった。
乖朱は青の耳にあった鈴に、自らを移し替えた。
(なんと容易い)
今は長剣の柄に錦の紐で結ばれている。
思念が届く範囲であれば自由にものを操れることを、乖朱は不死になる前から知っていた。
小川までやってくると、元の自らの体に長剣を対岸へ放り投げさせる。
剣が手を離れた瞬間、体は糸の切れた操り人形のように、かくんと倒れてしまった。
肉体と魂を司る者。
神でも人間でもない存在。
この国は、夜半から毎朝決まった時刻まで雨が降る。
人々は雨音に抱かれて眠り、その優しい雨音が消えることで夜明けを知った。
陽光が降り注ぐ時刻。
第2代王朝の国王はやっかいなものを受け取っていた。
それは最近世間を騒がせている、呪われた鈴と呼ばれるものだ。
手にした者が次々と不審な死を遂げているらしい。
隣国の
「で、これをどうしろと」
「これ以上国民に被害を出すわけにはまいりません。どうか、宮殿の奥深くに封じてくださいませ」
なんの飾りもない長剣の柄に結ばれた鈴は、血の色をしていた。
最初は別の色だったそうだが、何人もの血を浴び、その色が染み付いたのだという。
「うん、
「は?」
国王の呟きに、側近は首を傾げた。
「美しい色をしているだろう。この色にちなんで、鈴朱と名付けよう。おい、誰か。呪力封じの札を貼って、鈴朱をオレの部屋に置いてきてくれ」
「陛下!」
「大丈夫だって。札はしっかり貼る。それに、国王の部屋からおいそれと持ち出す馬鹿もいないだろうよ」
第51代玄冬国王朝・王の間。
「
黄春は朱い鈴を振り回しながら茶の席に現れた。
「鈴朱が外に出たいってうるさいんだよ」
「しかし」
「鈴朱のことはあたしに一任されてる。何か文句でも?」
黙ってしまった女官を無視して、黄春は自分の席に着いた。
(さすがは我が
「うるさい」
自分にしか聞こえない鈴朱の声にいらいらと返事をする。
ころころと鈴朱が笑っているのが、黄春の頭の中でいつまでも響いていた。
黄春が鈴朱の……
気の強い瞳が気に入ったし、なによりも人の
血を浴びることに慣れているようだったから。
実際黄春は、父王の政治を助けるために幾度となく人を殺めている。
それが黄春の国における仕事だ。
裁判によって死刑を宣告された者を切ることもあれば、賊を始末することもあった。
その度に、黄春は鈴朱の結ばれている長剣を使った。
(我が主殿はよい。小娘かと思うたが、意外に話せる。なんとまぁ、永い時も飽きることはせぬものよ。青、汝はほんに愚かで可哀想な仔よのう)
ころころと笑い、乖朱はもう顔も思い出せない、その人物に思いを馳せた。
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