鈴青(りんしょう)

 朱夏しゅか国。

 国土の北側に深い森を持ち、東方を玄冬げんとう国に接した国。

 毎日夜半すぎから空が厚い雲に覆われてしまうので、この国で美しい星月夜を見ることは難しい。

 先代の王から王位を継ぎ、現国王が即位したのはわずが3年前。

 歳若い王に伴侶はおらず、1日も早くきさきめとり次代を、と王の周囲では口々に言われていた。


 白い雲の切れ目から朝日がわずかに差し込む時刻。

 国がゆっくりと目を覚まし新しい1日を迎えようとしていた。

 普段は賑やかな大通りもまだ静かな時間に、宮殿では多くの侍従たちが走り回っていた。

「いらっしゃったか?」

「いえ、こちらには」

「いつからおいでにならないんだ」

「昨夜は遅くまで寝室の明かりがともっておりました」

 今朝、王の身の回りの世話をする下官が寝室を訪ねると、そこはもぬけの殻だった。

 王の夜着が寝台の上に放り出されているのを見て、下官は何が起きているのか理解できぬまま、青ざめた顔で上官に報告をしたのだ。

「侍従長!」

 厩舎うまやを見に行かせた若い(幼いというほうが正しいか)部下が駆けてくる。

「どうだ」

「おりませんでした」

「こんな早朝から馬まで引き出されてどちらへ」

「侍従長!」

 今度は女官長が今にも泣き出しそうな顔で駆け寄ってくる。

 侍従長は今度は何事だと眉間に皺を寄せたが、王が朝から失踪している以上のことなどもう起きるまい。

「どうなされた」

鈴青りんしょうが見当たりません!」

 深い深い溜め息をつき、予想外の報告に侍従長は右手に顔をうずめた。


 朱夏国は民の貧富の差が激しい。

 大きな館を持ち、幾人もの従者を連れて町を歩く者がいれば、その一方で家も無く、毎日を生きることに精一杯の者がいる。

 現国王はもちろん、先代王もその前の王も、なんとかその差を埋めようと手を尽くしてきた。

 公共事業を増やして人を雇い、少しでも貧しい人々のためになればとあれこれ努力してきたが、一度できしまった大きな溝を完全に無くすことは一筋縄ではいかなかった。

 城の近くには財ある者が、そうでない者は城から離れた場所に居を構えるようになったのは、もう随分と昔からだ。

 いつの間にかそれぞれの層に縄張りのようなものができあがり、互いの地域を行き来することも滅多になくなってしまった。


 白馬が、人を乗せてのんびり歩いている。

 馬上の人は一瞬女性と見間違えるるが、その体型から男性だと分かる。艶やかな銀髪を長く伸ばしていた。

 馬は城に背を向けて、真っ直ぐ街道をくだっていく。

 豪奢な家々は遠のき、今はかろうじて建っているあばら家があるばかり。

 やがて白馬は、宮殿から最も離れた、最下層と呼ばれる居住区に入っていった。

 この地域の人々にとっては馬の存在はとても珍しく、すれ違う人はみな一様に振り返る。

 馬にまたがる若い男性の服は最上層の物のようで、蒼地に髪色と同じ銀糸で花の模様が縫いとられていた。

 腰には一振りの剣が下げられていたが、身なりとは対照的に、どこの武器屋でも扱っていそうな物に見えた。

 ゆっくりと馬の足を進めていた男性が、ふと何かに呼ばれたかのようにぴくりと肩を揺らす。

 手綱から手を離すと、右手でそっと剣の柄を撫でた。

 白くしなやかな指が、柄に錦の紐で結ばれていた小さな青い鈴を慰撫するように触れる。

 その時、通りすぎようとしていたあばら家から1人の少女が出てきた。

 10歳にも満たないように見える。

 着ている服はぼろ布としか言いようがなく、靴も履いていない。

 小さな足は遠目にも傷だらけだった。

 さらにこの少女は、左手に長い棒を持ち、自らの前で左右に揺らしながら歩いていた。

 両目は、固く閉じられている。

 男性はふわりと馬から下りると、少女に近付いていった。

「おはようございます、お嬢さん」

 突然かけられた声に少女は驚いたようだったが、それでもうっすら笑みを浮かべて「おはようございます」と返してくれた。

「旅の者なのですが、朱夏宮しゅかきゅうへ行くにはどちらへ行けばよいのでしょう?」

「お城、ですか?」

「正確には、朱夏宮南門、でしょうか。近くにある友人の家に行きたくて」

 少女は頷いてその場にしゃがむと、迷う様子もなく地面に簡単な地図を描いてみせた。

「この道をまっすぐ行ってください。宮殿が見えてきたら、右へ」

「なるほど。ご親切にありがとうございます。僕は白秋はくしゅうと申します。お嬢さんのお名前をうかがっても?」

「……春蘭しゅんらん、です」

 体は小さく、手足も折れそうに細い。

 だが春蘭の声は、その名の通り春のように明るく、生きることへの希望を感じられた。

「綺麗なお名前ですね」

「ありがとうございます。祖母がつけてくれたんです」

 ほんのりと染った頬が愛らしい。

「本当に助かりました。僕は道に詳しくないので、とても困ってしまって」

「お手伝いできたならよかったです」

「ぜひ、お礼をさせてください」

「え?」

 春蘭は困惑し、こてんと首を傾げてしまう。

「このあたりの皆様は、あまり僕のことはお好きではないようで。唯一、親切にしてくださったのが貴女だったので、嬉しくて」

「あぁ。白秋さんは、馬を連れていらっしゃるでしょう」

「え、はい。……よくお分かりに」

 春蘭はくすりと笑い「足音や匂いでなんとなく」とさらに笑みを深めた。

「悪い人たちではないんです。でもどうしても、違う層の人だと思ってしまうと……」

「あぁ……」

「申し訳ないです。気分を悪くされてしまいましたよね」

「とんでもない。僕のほうこそ、ご迷惑を」

「……春蘭?」

「あ、ごめん!ちょっと待ってね!」

 あばら家の奥から咳き込む声と一緒に呼ばれ、春蘭は慌てて返事をした。

「ごめんなさい、私、お水を用意してこないと」

「ご家族ですか?」

「母です。もうずっと、咳が止まらなくて」

「それはご心配ですね。医者はなんと?」

 春蘭は困ったように笑い、緩く首を振った。

「そんなお金はありません」

 話してみて分かったが、春蘭は賢い。だが歳若く、目が見えない。

 雇ってくれる場所がないのだと、亡き父が遺してくれたものを売って日々の食い扶持をなんとか得ているのだと、教えてくれた。

「わかりました」

「え?」

「明日、今日と同じ時刻にまいりますね」


 次の日から毎日、空に薄日が差す時刻になると、白秋はくしゅう春蘭しゅんらんの家を訪れた。

 初日に医師を伴ってきた時は春蘭も母も泣いてお礼を言ったが、連日となると話が変わってくる。

 靴や服、食べ物に高価な薬と、本来の春蘭では手に入れることの出来ないであろう品々を白秋は届けた。

 たった一度道を教えただけなのに申し訳ない、これ以上は過ぎる、と春蘭は拒んだが、りんしょうの言いつけなので、と白秋も引き下がらない。

 りんしょうという人物が何者なのか春蘭はわからなかった。

 やはり受け取れない、と断ったその日、それでは帰れないとあばら家の前で白秋が一晩を過ごした。

 翌朝、冷え切った白秋の手を握った春蘭は、諦めのため息をつき、折れることにした。


 白秋が通い始め、1ヶ月ほどたった頃。

 母親の具合いが快方に向かい始めたらしく、春蘭はよく笑うようになった。

「母さん、白秋さんがまた服をくれたの。今度のは何色かしら」

 とこについたままの母に見えるように服を広げる。

「空色だね。とても綺麗な色だ」

「空色……。青ね!いつか私も見てみたいわ」

 白秋からの贈り物は春蘭1人のものにはならなかった。

「昨日の服はお隣の子にあげたわ。今日のおやつはみんなとお喋りしながら食べたの」

 彼女が周囲の人々に配っていることはもちろん白秋も承知していた。

 だからといってとがめることもなく、促すわけでも褒めるわけでもない。

 ただ彼女のしたいように、白秋は任せていた。




 いつもなら雲か切れる時刻になっても、今日の空は暗いままだった。

 今にも雨が降り出しそうな様子は、侍従長の小言を寝起きから聞き続けていた王の……白秋の機嫌をさらに損ねた。

「聞いておられますか!?」

 白秋は春蘭の所に行こうと、いつものように荷物を抱えて白馬に飛び乗る。

 その行く手を遮るように、数名の侍従が立ちふさがった。

「お待ちください!」

 国王が毎朝いなくなっては周囲の者たちは落ち着かなない。

 ましてや、高価な女物の服や装身具などを持ち出していればなおのことだ。

「王が向かわれているのは最下層のご様子。いったい何をお考えなのですか」

「わかりません」

「……は?」

鈴青りんしょうが、行けと言うのです」

 侍従長の視線が、剣の柄に結ばれた小さな鈴に移る。

「あの娘を気にかけておけと、鈴青が」

「……最下層の居住区近くに夜盗が出るとの報告が」

「なるほど」

 白秋は愛おしげに鈴を撫で、そして手綱を握り直した。

「どうか、ご用心くださいませ」

 侍従長の緊張した声音は、涼やかに響いた鈴の音に混ざって、消えた。



「春蘭?」

 最近は出迎えるために外にいるはずの小さな姿が見えず、白秋は困惑した。

 家の中に声をかけてみるが、返事はない。

 春蘭の家だけではない。

 周囲に住んでいる人々の声どころか、そもそも気配が無かった。

 白秋は入口にかかっている布をそっと持ち上げ、室内をうかがう。

 独特の鼻をつく臭い。

 寄せ集めの木材で作られた壁に囲まれて、春蘭と母親がいた。

 うつ伏せの春蘭に覆い被さるようにして、母親は倒れていた。

 室内にはあちこち物色した形跡と、飛び散った大量の血痕。

「……鈴青」

 白秋の震える声に応えて、長剣の柄に結ばれていた青い鈴が、冷たくゆっくりと揺れた。


 普段ならすでに青空が見える時刻になって、朱夏国では雨が降りだした。

 雨の雫は様々なものを洗い流す。

 例えば家屋の汚れや、たくさんの足跡、そして浴びた返り血。

「あんなあばら家に、これだけのお宝があるとはなぁ」

「あの娘、どこから持ってきたんだか」

「いやぁ、悪いことはできねぇよなぁ」

 下品な笑い声が広い洞窟に満ちている。

「さぁて、次はどこに行くかねぇ」

 各々酒瓶を手にし、男たちは楽しそうに次の獲物の算段をつけ始めた。

「もう少し上の層のやつらに手を出してみるか」

「いいけど、あんまり城に近付くのはなぁ」

 そうこうしているうちに雨は強さを増し、雷がとどろき始めた。

 激しい雷雨の音に混じって、馬のいななく声が聞こえた気がする。

 一人の男が不思議に思い洞窟の入口に顔を向けると、白馬を連れた人物が立っていた。

「誰だお前」

 気付いた他の仲間たちも次々と集まってくる。

 白い服をまとった、長い銀髪の男。

 雨ですっかり濡れてしまった前髪を鬱陶しそうにかき上げた。

「その目は」

「……まさか!?」

「おや、ご存知でしたか」

 朱夏国王の瞳の色が左右で違うことは、他国でも有名だ。

 人でも神でもない存在と契約をした証だという噂があるが、真実はわからない。

 国王白秋は腰に下げていた剣を抜き、その柄に結ばれていた青い鈴に口付けた。

「いきますよ、鈴青」

 洞窟の奥から、武器を手にした男たちが向かってくる。

 真っ先に駆け寄ってきた体格の良い男を一太刀で両断すると、白秋は顔色を変えることもなく、次々と男たちを切り倒していった。


 雷雨はいくつもの水溜まりを残してあっという間に去ってしまった。

 いつもの曇り空に、通り雨が重なっただけのようだった。

 すっかり赤くなったしまった服で、白秋は剣の柄と鈴を拭う。

「鈴青。もう少し早く、教えていただくことはできないのですか」

(申し訳ありません。この姿はなにかと不安定なもので。しかし我が主君きみは悠長すぎる。このような輩、わたくしがお教えしなくても早々に対処できましたでしょうに。それに、私が予見した時点で血が流れることはお分かりだったはず)

「そうだね……」

 呟いた白秋の瞳は、長い前髪に隠されていた。


 朱夏国。

 国の北方を深い森に包まれた、新王が即位したばかりの国だ。

 この国には、手にした者に先をる力を与える、鈴青という宝があるらしい。






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