Undefined

I.G

第1話 存在しない星条旗

 雷鳴が轟く荒天の中、日の丸を付けた戦闘機の編隊が沖縄近海を飛行している。

 波は大きく荒れ模様を呈し、通常であれば航空機の出撃など行われるはずのない天候の中、急遽出撃命令が下った背景には日本本土の逼迫した情勢があった。


 機体のエンジン音に雨音と雷鳴が入り交じる音楽を耳にしながら、コクピットの風防の隙間から漏れ滴り落ちてくる雨水を見つめていた。

 ふと耳慣れた声が無線機から聞こえた。

 隊長機から、もう間もなく敵艦が視認できる空域に到達するとのことだった。

 途端に、操縦桿を握る自分の手から力が抜けていくのを感じた。それは恐怖からか、あるいは武者震いからか。後者だと言い聞かせても、本当は前者であることを心のどこかで知っていた。

 この任務に志願してから今日この日まで、自らの人生とその運命に自分なりに区切りを付け消化しきったつもりだった。だが、死という現実が実際に眼前に迫ってきたことで、地上で感じ続けてきた恐怖とは質の違う恐怖を覚え、消化しきれない死という現実で頭がいっぱいになった。


「対空砲火!」

 突然、隊長機からそう叫び声が聞こえた。雲間を抜け眼下の視界が開けたのと同時に、海上から無数の対空砲弾が編隊に襲い掛かった。すぐさま機首を上げ高度を上げるべく操縦桿に力を込めた。視界不良の中突然射撃を受けたため、何発かが機体を掠めそうになったが、幸い被弾は免れたようだった。

 機体の態勢を安定させると、そのまま高度を上げつつ海面を見下ろしながら、僚機を確認すべく周囲を見渡した。

 すると、最初の斉射で運悪く右翼を吹き飛ばされた一機が、そのまま火だるまとなり黒煙を上げながら海面へと落下していった。

 仲間の一人が大声で叫びながら彼の名前を呼んだが、応答が返ってくることはなかった。苦渋に満ちたような声にならない声が聞こえた気がした。

 ―次は自分の番かもしれない―、そう脳裏によぎった。

「無駄死にだけは御免だ」

 歯を食いしばり、眼前の漆黒の艦隊の最後方に位置する航空母艦を睨みつけながら、操縦桿を強く押し倒した。

 すると、待ってましたといわんばかりに高高度で待機していた艦載機の編隊が自分たち目掛けて襲い掛かってきた。数えている余裕など無いが、恐らくいつも通り数は自分たちの10倍以上いるだろう。

 直上からの遠距離射撃を一瞬の読みで躱し、すぐさま敵機から距離を取る態勢を整える。

 さっきまで震えていたことが嘘だったかのように、今は握り拳に死ぬほど力が込められている。何かを考える時間も恐怖に心臓が竦む余裕も与えてくれぬほど、敵機の追撃は苛烈さを増した。

―しまった―

 余計なことを考えた一瞬の隙に、敵に背後を取られた。

―やられるッ!―

 背後の敵機がこちら目掛けて射撃しようかというその時、数発の銃弾が機体に命中する金属音と共にエンジンが火を噴き、背後を振り返ると同時に目の前で敵機が爆発した。

 爆発の光に一瞬眼を眇めながらも、射線の方向を見やるとそこには味方機の姿があった。

―助かった、ありがとう―

 僚機の援護に感謝すると、一息つく間もなくまた2機、3機と複数機で追撃を掛けてくる。1機を振り切ってもまた別の敵機が現れては、こちらを追尾してくる。振り切っても振り切ってもまるできりがない。

 戦場はさながら乱戦だった。追いかけまわされドッグファイトを強いられる日本軍機を弄ぶかのように、敵機は集団でこちらを追い詰めてくる。空はさながらサーカスのようだった。

 雨で視界が悪い中を、雲に入り込んだりしながら敵機を振り切ろうとする日本軍機。空には銃弾の軌跡が描かれ、薄暗い視界を、航空機が爆発する閃光と共に明るく照らした。


 空母に近づけさせてもらえないまま乱戦は続き、徐々にパイロットの体力は奪われていった。そんな弱り切った隙を見逃す敵ではなく、黒いカラスの群れに襲われる1匹のハトのように、1機、また1機と味方機が火の鳥となって落ちていく。

 その光景を眺めながら、どこか自分がこの世界に居ないみたいな感覚に陥り、デジャヴのような感覚にも陥った。

―どこかで似たような光景を…どこだ?日本ではない、どこか遠い海の…―

 時間がゆっくりと流れていくような感じがした。

 ふわふわとした不思議な感じ。周囲がじんわりと色褪せていき、パステルカラー調に空間が霞んでいく。

 しかし、銃弾が機体を掠める甲高い金属音と近くで響いた爆音と閃光で、急速に世界は色を取り戻した。

―僚機が撃墜された―

 さらに上方でもまた爆発がこだました。

―あぁ…隊長まで…―

 自分の近くで戦っていた両名の戦死を見させられ、全ての終わりを悟った。その時、銃弾が首筋を掠めすぐさま大きな違和感に襲われた。銃弾によって貫かれたキャノピーの大きなひび割れをじっと見つめながら、強張る表情で首筋に意識を集中させた。

 つーっと、生温かい液体が首筋を伝うのを感じた。激痛が後から来た。

 それからの行動は早かった。痛みだけに神経を集中し、ただ無心で操縦桿を倒して、攻撃目標に一直線に向かった。

 背後から追撃してくる敵機の銃撃も、急速で上空を通過する自機目掛けて放たれる敵艦からの対空砲火も、致命弾にならないギリギリのラインで回避し続けた。極限状態に陥り、集中力が研ぎ澄まされ、周囲の空間と敵機の位置、自分の機体の態勢を完璧に把握することができた。次に何をすればいいかが直感的に分かった。むしろ脳内を支配していたのは、もはやそのことだけだった。

 敵空母に近づくにつれ対空砲火の弾幕は激しくなり、もはや回避し続けることは不可能だった。あとは、どの弾をどのように受けるかだけだった。

 次々と被弾音が激しくなり、右翼のエンジンが遂に火を噴いた。それに一瞥した瞬間、銃弾がコクピットを貫通し右膝を貫いた。右足の感覚が無くなる。膝から下がぶらんと垂れ下がっているだけのような感覚に陥る。

―もう時間は無い。―

 その時、左前方に位置していた重巡洋艦の大砲から放たれた砲弾が近接信管によって近傍で爆発した。直前で何とか機体を強引に倒して致命弾を避けたものの、コクピットにまで火が回った。

 だが不思議と熱さは感じなかった。炸裂によって飛び散った破片が左足の腿の辺りを抉って持っていった。許容度を超える痛みで脳の神経が麻痺したのか、あらゆる痛覚を感じなくなっていた。

 視界は赤く染まり、左半分は見えなくなっていた。恐らく眼球が潰れているか、あるいは顔がいくらか持っていかれているのだろう。飛行服は血で赤く染まり、抉られた左腿は筋線維が露出していた。使えない左視野を早々に諦め、右目だけはなんとしても失うまいと必死で対空砲火を避け続けた。

 もはや自分に出来ることはただ一つだった。

 むせかえるように口から溢れ出る血液で喉がつまり呼吸ができない。酸素が脳に回らなくなって頭がぼーっとしてきた。

 遠のく意識の中で、最後の力を振り絞って操縦桿を力一杯前に倒した。

 目標、敵航空母艦。


 時間が、本当に止まったような感覚だった。


―あと100メートル。10メートル。1メートル。1センチ。―


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――。


 黒い空母のはらわたに火の鳥が突っ込んだ。爆発の炎と共に、空母ホーネットの脇腹に大穴が空いた。ホーネットは、お腹から火災の煙を立ち込めらせ、弾薬室に引火すると同時に大爆発を引き起こし、ホーネットの身体は真っ二つに爆折した。

 断末魔のようにホーネットは沖縄の海底へと沈んでいった。


―――


 1945年4月、空母機動部隊を中心とする総数数百隻もの艦隊が日本本土を目指し北上。本土防衛のため、大本営は日本本土近海で滅亡を覚悟する規模の特攻作戦を展開した。それでも尚、侵攻艦隊を食い留めるには至らず、防空能力を喪失した日本本土への戦略爆撃は苛烈さを増す一方であった。

 そして新型爆弾を搭載したB-29が次々と、米本土からテニアン島へと集結しつつあった。

 滅亡までの時間的猶予はもうあまり残されてはいない。


 沖縄近海に集結する黒い艦船群。艦隊を構成する艦船にはアメリカ合衆国国旗が付けられている。

 だが1945年4月現在、アメリカ合衆国という国家はこの地球上に存在していない。

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