②Chapter.5
首相官邸、五階の内閣総理大臣執務室に松江昴はいた。松江は厚生労働大臣であったが米原内閣総理大臣の死を受け、急遽繰り上げとなりこの国のトップに立った。しかし政治家ならば誰もが夢見る椅子の座り心地は最悪だった。
「問題が山積しているな……」
賀上という男のプロファイルを〈リック〉で確認しながら、松江は一人呟いた。
この男が優秀な犯罪者であり、捕まったことは喜ばしい。しかし右腕ともいえるウィザード級ハッカー〈Spider〉は未だ雲の中である。そして何より、賀上は刑事である弟に向かって、また犯罪が起こるようなことを口走っていたという。
弟。
白瀬慶介。寧の件で関わっていた刑事だ。まさかマツリカ義体製造会社であのようなおぞましい実験が行われていたとは、松江も知らなかった。〈ラベル〉法案を通じて、義体所有者と非所有者を分けようとしていた松江だが、そこに更に〈レプリカ〉という存在が加わったことになる。国際倫理委員会がマツリカ義体製造会社にどのような罰を下すのかはわからないが、白瀬慶介は被害者でもある。そう思うと、多少ともあの刑事を哀れに思った。
だが無用な同情心は職務の邪魔でしかない。そう判断した松江は、息を吐いて〈リック〉の表示を閉じる。そのとき、ダークスーツを身に纏った警護係がノックもせずに部屋の中に飛び込んできた。
「総理!」
次の瞬間、日本では聞きなれない銃の発砲音が響いた。廊下の方からだ。松江は警護係に庇われるようにして、机の後ろに身体を隠す。
「何が起きている!?」
「わかりません。突然、警護係の一人が仲間を撃ちました。それから同時に様々な場所で発砲音が。犯人は複数人とみられます」
「なんだと?」
発砲音が近づいてくる。やがてそれは松江のいる部屋の扉を開いた。
「松江昴首相ですね」
不気味な仮面をつけた警備員服の男女六名がそこにいた。猟銃のような長銃を天井に向けて威嚇射撃をする。リーダー格と思わしき、泣いているピエロの仮面が言った。
「条件を飲んでくだされば、あなたを傷つけることはありません」
机の後ろに隠れていても無駄だと判断した松江は、警護係を押しのけて立ち上がる。
「その条件とやらを私が飲むよりも先に、君たちは捕まることになる」
ハッタリではない。現に非常事態を知らせるサイレンが官邸中に響き渡り、多くの警察官が今にも彼らを捕まえにやってくることだろう。しかし彼らは不思議と急ぐ素振りを見せなかった。
「ここに来るまでに各階のシャッターを閉めてきました。あれを突破するには十分はかかる」
「そして十分後には君たちが捕まる。自ら袋のネズミになったというわけか?」
「ネズミで結構です。可愛いじゃないですか、ネズミ」
するとピエロは〈リック〉で映像を表示させた。小学校で授業を受けている寧が映っている。
「寧……」
動揺するなと松江は自身に言い聞かせる。この映像が本物だという証拠もない。第一、寧には警備会社の警護をつけている。
「あの警備会社について調べましたか?」
ピエロが嘲笑うように言う。松江は意味が分からなかった。
「どういう意味だ?」
「ダメじゃないですか。素行調査はちゃんとしないと。基本ですよ。あの会社は〈区外〉出身の全身義体の人間を多く雇っているんです。寧さんについている警備員も〈区外〉の出身者ですよ」
「だから……?」
「警備員は我々の協力者です」
映像を再び見る。映像の角度は寧の真後ろから撮られている。
「人質にとったつもりか?」
余裕を見せなければと思いながらも、松江の声は上ずっていた。
「ええ」
「目的はなんだ?」
「〈フットボール〉を渡してください」
〈フットボール〉と聞いた松江は覚悟をしていたものの凍りついた。
第三次世界大戦後、戦勝国となった日本は被爆地域の反対を封じ込め、非核三原則を捨て核兵器を保有した。その核兵器の使用許可を下すことができるスイッチが黒革の鞄、通称〈フットボール〉の中に入っている。
「渡すものか」
それだけは避けなければならない。松江は固く口を結んだ。
「お孫さんがどうなってもいいのですか?」
「寧は政治家の孫だ」
胸が引きちぎられるような思いで松江はそう口にした。地獄で寧になんと詫びればいいのかと思いながらも、松江は〈フットボール〉を渡す気にはならなかった。
「いいでしょう。それでこそ一国の首相です」
ピエロは満足そうに笑い、何の躊躇いもなく警護係を撃ち殺した。血を流し床に倒れる警護係はぱくぱくと口を開き、何事かを発することもできずに絶命した。
「でもあなたはまだ事の大きさを理解していないようだ。人質は寧さんだけではありません。この小学校にいる生徒、教師、その全員です」
***
つんとするアルコールの匂いで堂安は目を覚ました。白い天井。ベージュ色のカーテン。鉄格子のついたガラスの向こうは深い夜。
……警察病院か。
そういえば捕まったんだったなと思い返す。しばらくして賀上の父親は死んだらしい。これで堂安も賀上との約束を果たしたことになる。長い長い響輝をめぐる事件はこれで終わることになる。
そのときピコンと壁一体型スクリーンが鳴った。時計とカレンダーだけが表示されているはずのスクリーンにはメッセージが届いたと書かれていた。恐る恐る、手で触れてそのメッセージを確認する。
『パーティーにおいでよ』
誰からのメッセージなのかはすぐに検討がついた。ガチャンと音がして、電子錠が開く。賀上は体の痛みをこらえながら扉を開けて外に出た。看守の姿はない。そのままぺたぺたと素足で廊下を歩き、病院の裏口から外に出る。夜風が少し冷たい。生垣の向こうに、黒いスポーツカーが止まっている。
別にこのまま逃げたっていい。
堂安はパーティーとやらに興味があるわけではなかった。けれど、不思議と体は車の中に吸い込まれていった。
「よく出てこれましたね」
助手席のドアを閉めながら、堂安は運転席の賀上に言った。
「何が起こったか知りたい?」
新しい遊びを思いついた子供のように楽し気な賀上は、堂安がうんとも言っていないのに〈リック〉で映像を見せた。派手な爆発が起こり、警察官が飛んでいった。同時に賀上がいた独房が開き、煙の中、悠々と賀上が外に出ていく監視カメラの映像が見える。
「面白いですね」
まったく面白そうではない感想を堂安は述べた。この人が自分に何を求めているのか、よくわかならなくなる。
「首相官邸にも計画通りに侵入できたし、〈フットボール〉を手にできそう」
「〈フットボール〉?」
「核兵器の起爆装置。これを奪えば〈区外〉の人々は、〈区内〉をねじ伏せるだけの力を持てる」
「なるほど。あなたの考えそうな派手なバカ騒ぎだ。……〈区外〉の人々はみんな、あなたの復讐を信じてる。でも、本当はそんなことどうだっていいんでしょう?」
この人は〈区内〉の生まれだ。自分たちの苦しみを本当の意味で理解しているわけじゃない。
「そうだよ」あっけらかんと、賀上は認める。「俺は今から海外へ高飛びする。で、君は来る? それとも降りる?」
今更それを聞くのかと、堂安は少し呆れた気持になる。
「僕だってもう日本にはいられませんよ」
堂安は夜道を駆けるスポーツカーに身を預けた。響輝と過ごした日本を離れるのは辛かった。だが一生を刑務所で死んだように過ごすくらいならば、敗戦国で泥にまみれて生きる方がましに思える。
日本がこれからどうなるのかなど、堂安にはもうどうだったよかった。
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