Chapter.5 紛い物の戯言 -Replica acts foolishly‐
①Chapter.5
逮捕された賀上の身柄は拘置所へと移送された。取り調べには完全黙秘を貫いているが、弁護士を通じて、白瀬慶介と話をすることは了承したらしい。
「殴るなよ」
真っ白のリノリウム素材の床に天井の明かりが反射する。拘置所の廊下を鵜飼と白瀬は歩いていた。
「努力する。殴りそうになったら鵜飼が俺を殴ってくれ」
「冗談。君を殴ったらこっちの指が折れる」
「ああ、冗談だよ」
そう言いながらも、自信はなかった。自分がアクリル板を蹴り破り、賀上に掴みかかる可能性だってゼロではない。〈ホルス〉にいたときのように感情を怒りに支配されてしまうかもしれない。
だけど今の俺は刑事だ。そしてこれから行うのは取り調べ。
自身にそう言い聞かせて、扉の前で立ち止まる。深呼吸して扉を開けた。パーテェーションの向こう側には、賀上がいた。賀上はこちらをちらりと見ると、にたりと笑った。
「慶介、来てくれたのか」
冷静さを保ちながら、白瀬は向かいの席に座る。
「話があるなら手短にした方がいい」
賀上は背もたれに背を預け、悠然とした様子で言った。
「洪水が起こる。何もかもを飲み込んで更地に還る洪水だ」
「たわ言を言って捜査をかく乱させにきたのか? 帰るぞ」
「まあまあ、お兄ちゃんの言うことは聞いておくもんだ。洪水は怖いだろう? 今のうちに東京から逃げることをお勧めするね」
「東京で何かを起こすのか?」
白瀬が眉根を寄せる。賀上は笑った。
「起こすのは無理だ。俺はもう捕まったからな。でも、いわゆるピタゴラスイッチだよ。もう起きてる。そして誰にも止められない。〈区内〉の連中は今までのツケを払うことになる」
「そんなことはさせない」
「どうかな。まあ、せいぜい死なないように頑張れよ、慶介」
もう話すことはないというように、賀上は伸びをする。その直後、白瀬の〈リック〉が振動した。灯也が入院している病院からの着信だった。
「電話? 出なよ。もう面会はいいだろう」
全てを見透かすように賀上が言う。鵜飼が目配せし、出て行ってもいいと言った。
「これは面会ではなく、取り調べだ」
そう言い残し白瀬は席を外し、病院からの電話を受ける。嫌な予感がして、心臓が痛かった。
「落ち着いて聞いてください」
その一言ですべてを悟った。
「白瀬灯也さんが亡くなられました」
***
白瀬灯也はファイルQのゴシップが明るみに出るまでは優秀な科学者として知られていたらしい。研究が明るみに出る前なら大きな葬式もできたかもしれないが、〈レプリカ〉研究がマスコミのやり玉に挙がっている今となってはそうはいかなかった。
一日だけ休みをもらい、白瀬は自分だけで形式ばかりの小さな葬儀をしようと思った。しかし火葬場には律儀に苑原も姿を現した。
「慶介くん……」
礼をされたので、おずおずと礼を返しながら、白瀬は訊ねた。
「父に会っていきますか? まだ焼かれる前なので」
「ああ。そうだな。顔を拝んでおきたい……」
今にして思えば苑原と父は共犯関係であり、友人でもあったのかもしれない。白い棺に横たわっている父の顔は頭蓋を撃たれたとは思えないほど安らかだった。
「灯也……」
苑原がぽつりと呟き、両の手を合わせる。その様を白瀬は静かに見守っていた。
やがて別れの時間が来て、父の身体はもくもくと立ち上る煙に姿を変える。空に消えていく父を見ていると苑原が問いかけた。
「智也は捕まったそうだな」
「ええ」
「君はこれからどうする?」
警察官になったのはもともと智也を捕まえるためだ。そして白瀬慶介として生きてきたのは灯也のためだった。その二つが立ち消えとなった今、白瀬には無数の選択肢があるように思えたし、砂漠の真ん中にいて、なんの道もないような気もした。
「正直、わかりません。ですが、警察官を目指したのは賀上の件だけが理由じゃないんです。なんとなく、自分という不安定な存在が世界にとって有益であればいいと考えたんです」
「それで警察官か。昔から君は道徳意識のスコアが異常に高かったな。おっと、嫌味で言ってるんじゃない」
「わかっていますよ」
苑原は礼をすると、黒い乗用車の中に戻っていった。ファイルQについて国際倫理委員会から説明を求められているらしい。苑原はもしかしたら牢屋の中に入ることになるかもしれない。そう思うと、少なからず同情心が湧いた。だが、白瀬にはどうすることもできない。
「遅れてしまった」
白瀬が帰ろうかと思ったときに、ふと火葬場に現れたのは礼服姿の鵜飼だった。
「香典、仕事で来られない塔乃さんたちの代わりに」
「いいのに」
「いいんだよ」
大人しく香典をもらいつつ、白瀬は空に浮かぶ父の煙を見上げた。
「父さんが死んだんだ。俺に白瀬慶介って名前をくれた父さんが……」
「ああ」
「俺はもう、白瀬慶介じゃなくてもよくなった。賀上と同じように別の名前を名乗ったところで止める人もいない」
「そうだな」
それでも、と白瀬は苦笑する。
「白瀬慶介に縛られたくないのに、それに縋りたい自分もいるんだ」
しばらく考えるように黙ってから、鵜飼が言った。
「自分が何者なのか、他人に決めてもらって方が楽に決まってる。こういう風に生きろっていうレールや道があった方が、窮屈だけど失敗しても言い訳できる。でもたぶんそれじゃダメだ。苦しくても、辛くても、僕らは僕らであるために、自分で道を選び取らないといけない」
──君が生きている意味を、君自身が作るんだ。
逢野に鵜飼がかけた言葉を思い出す。
それを聴いたとき、白瀬は自身に雷が落とされたような感銘を受けた。鵜飼の言うように、生きていくことは選択の連続であり、その結果として自身が作られていくのかもしれない。だとしたら白瀬はまだその過程にあるといえる。
たしかに俺はただの人間とは少し違う。
他人であることを求められて生きてきた〈レプリカ〉だ。けれどそれを言い訳にしてはいけないような気がした。
「白瀬慶介の名前は使い続けるよ。今更、他の名前を使うのも変な気分だし。でもこれからは、もう少し、別の生き方を考えてみてもいいのかもしれない」
自分らしく生きていくために。自分で自分の道を決める。
「俺は俺だから」
白瀬はどこか憑き物がとれたように笑った。めずらしく鵜飼もどこか笑っているように見えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます