⑤Chapter.4
堂安三鶴は典型的な〈区外〉の小さなアパートのバスタブで生まれた。産院に行く金もない〈区外〉の中でも底辺の貧困家庭だった。
〈区外〉にももちろん保育園や小学校はある。しかしどちらにも堂安は満足に通えなかった。たまに役所の人間が家を訪れるが、その度に母親は癇癪を起した子供のように意味不明の言葉を叫び彼らを追い返した。堂安は月に一度、学校に行ければいい方で、行ったところで汚れた服から漂う腐臭を馬鹿にされ、何かを学ぶことはできなかった。そのまま義務教育期間を終え、父親が命じるまま近所の工場で働いた。工場では比喩ではなく、よく大型機械に挟まれて人の指がよく消えた。堂安も左手の人差し指を失った。
無気力で無感情で、空気のような人生だった。それしか知らないので、苦痛さえ感じられなかった。そんな人生が変わったのは、家の中に突然現れた赤子のせいだった。
「何……?」
平たい声で堂安が訊ねる。家の中はいつも以上に荒れていて、父親の荷物がなくなっていた。狭い居間の真ん中、ゆりかごに赤子が眠っている。その横で母親が泣いていた。
母親が泣きながら事情を話した。要約すると、この子供は母と不倫相手の男の子供らしく、それを知った父親は激怒して家から出ていったらしい。ならば不倫相手の男を頼れと堂安が言うと、その男とはもう連絡がつかいないといって、またいっそう悲痛そうな声で泣いた。
父親の違う、十六も年の離れた妹が泣きもせずにこちらを見上げている。たちまちに温かなものが食道を伝い、腹を温めた。この感情の名前を堂安は知らなかった。ただどうしようもなく、彼女を守りたいと思った。
妹の名前は
「兄ちゃん」
十年後、母は別の男と駆け落ちをして家から出ていった。堂安は二十六歳、響輝は十歳で小学四年生になった。小学校でいじめられないように普通の服を普通のスーパーで買うために、堂安は体を壊してでも働いていた。
「なんだ?」
キッチンで鍋を作っていると、響輝がやってきて、画用紙を見せてくれた。スーツを着た女性が黒板の前に立っている絵で、上の方に金色の折り紙がついている。
「この絵、金賞もらったの」
「すごいじゃん! お祝いだな!」
聞くと、この絵は響輝の将来の夢だという。
「先生になるのが私の夢なの。国語が得意だから、国語の先生になる」
「響輝は俺と違って賢いからな。絶対なれるよ」
えへへ、と響輝が笑う。
堂安に怖いものはなかった。この貧しくとも続く日常が最底辺であり、これからは上向いていくばかりだとずっとずっと信じていた。
それは響輝が絵画で金賞をもらった数か月後の春の出来事だった。桜の木などほとんどない〈区外〉で春を感じる瞬間はほとんどない。ただ春休みになった響輝は家にいる時間が増えて、その分、家事や勉強を頑張っていた。いつも通り深夜に堂安が帰宅すると、家の鍵が開いていて、家の中に響輝の姿がなかった。外に出てみると、まだ冬の気配が残る冷たい風が通り過ぎていく。嫌な感じがした。とても嫌な気配だ。
ふと耳を澄ますと、車が走り去る音がした。堂安は何気なくその車を見て、背筋が凍った。後方の窓から、子供の足らしきものが見えたのだ。足には赤い靴が履かれている。あの靴が響輝のものであるとすぐに結びついた堂安は無我夢中で車を追いかけた。しかしそれに追いつくはずもなく、堂安響輝は誘拐された。
「本当に見たんですか?」
すぐさま警察に駆け込むと、怠惰そうな警官がそう言った。こちらがドラッグでもやっているのではないかとその目は疑っているようだった。
「本当だよ!」
「ナンバーは?」
「ナンバー……」
堂安は数字が読めないので、車のナンバーもただの模様にしか見えない。その模様を必死に思い出そうとしたが、頭の中からひっかかって出てこない。
警察官は協力的とは言い難いが捜査をしてくれた。だが、結局、一月たっても響輝は見つからなかった。
響輝を失い、堂安は生きる気力をなくした。仕事を無断欠勤し、おそらく首をきられた。確認すらしていない。生きる廃人となり、食事もせず排泄も億劫だった。ただ響輝を見つけろという幻聴だけは聞こえ続け、眠りもせずにネットに張り付いていた。堂安は児童を販売しているダークウェブ見つけ、毎時そこに張り付いていた。響輝が見つかってほしいと思う反面、ここに売られていたらどうしようかと怯えていた。響輝がどこの男とも知れないものの玩具となるのを想像すると大声で叫びだし、自分の喉を掻っ切りたくなった。
八月の夏日、家のチャイムが鳴った。開けると警察官が数名いた。堂安の無残な姿と鼻を突く臭いに必死に顔を歪めないようにとしながら、警察官が家にあがってきた。
「大事な話って何ですか? 響輝が見つかったんですか?」
一番の年上と思わしき白髪の男が切り出しにくそうに答えた。
「響輝さんは──」
廃工場に六つの死体が転がっている。それらを殺した男は白いスニーカーが血で汚れてしまったことを残念そうに語った。
「本当によかったんですか……」震える声で泣きながら堂安が言った。「あなたを人殺しにしてしまった……」
「その涙は誰のためなの? 俺のため? なら泣かなくていいよ」
賀上と名乗る男は愉快そうに瞳を細める。
「俺は初めて人を殺したけど、何も感じなかった。何も感じないってことがわかって、ひとつすっきりした。人殺しは楽しくない。重労働だし、他人にやらせた方がスマートだ」
うんうん、と頷き一人納得した様子の賀上に堂安は訊ねた。
「なんで殺人を依頼したか、聞かないんですか?」
賀上とはダークウェブ上で知り合った裏社会の人間だった。百万円で六人を殺すという法外に法外を上乗せした条件を唯一飲んでくれた始末屋だ。
「そうだね。気になると言えば気になるな。なんで?」
男たちを滅多打ちにしたバッドを置いて、工場にあった椅子に座りながら賀上が問う。
「俺の妹を殺したんです」
「なるほど敵討ちなんだね。でも人数多くない? ここどこかの工場でしょ」
「ここは臓器売買のための工場なんですよ。俺の妹は臓器のために殺されて、死んでからもばらばらに刻まれて、こいつらに売られた。だから、俺、許せなくて……」
思い出すだけが吐き気する。
「でも出せる金額は百万しかなかった。当然、依頼を受けてくれる相手は見つからず難航。偶然、俺がそれを見つけた。ふーん。なんだか運命的だね」
賀上はにこにこと笑う。天使のようで悪魔みたいな顔だった。
「ねえ、じゃあ、やっぱり百万円はいらないからさ、俺のお願い聞いてよ」
「お願い?」
「いつか俺の父親を見つけたら、君が殺して」
「……なんでそんなこと俺に頼むんですか?」
「さっきも言ったでしょう。人殺しはスマートじゃない。他人を使った方が早いし、楽だ。その男は必ず殺さないといけない人間だけど、直接手を下したくはない。だから、君を使う」
そのときかわした殺人の約束を堂安は忘れたことがない。六人の命を殺めてくれたお礼に、一人の人間を殺す。簡単なことではないか。それがどれだけ道徳や倫理に反していても、そうしなければいけないと堂安は思った。
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