Chapter.4 発火点 -The ignition point‐

①Chapter.4


〈メッセージを受信しました〉

 暗闇の中で一台のコンピューターが目を覚ます。梁島やなしまとおるはパネルに触れ、その中身を確認する。

〈ファイルQが拡散された。次は君の番だ〉

 繋がってきたリレーのバトンがようやく自分に手渡されたことを梁島は嬉しく思った。同時に、ようやく賀上の役に立てることが喜ばしかった。

 自分を〈区外〉の泥沼の中から救い上げてくれた救世主。彼に対する恩義を梁島は忘れたことがない。

『革命をもたらそう』

 優しく微笑みながら、彼はそう言った。革命。なんと胸が躍る言葉だろうか。


 ***


 思えば、自分が何者であるのか、いつも悩んでいたように思う。

 けれどそれも仕方のないことだろう。私は『誰』でもないのだから。

 私は人工母胎からほぼ成人に近い身体で生まれた。しかし生き延びるうえで必要な基本的知識はもちろん常識なども知らず、とりあえず手が届く範囲のものを口に含んだり、癇癪をすぐ起こしたりしていた。

 そんな私をいつも世話してくれたのは白衣を着た研究所の人間と、私の研究の責任者であり『父親』の白瀬灯也博士だった。

「慶介、おやつの時間だよ」

「……」

 父は私に日本語を教え込んでいた。決してスパルタというわけではなく、私が興味を持った絵本から言葉を少しずつ教えた。

「お・や・つ」

「……お・や・つ」

 私が繰り返すと、父は嬉しそうに笑った。

「慶介はどのおやつが好きだい?」

 父はいつも様々な種類のお菓子を持ってきてくれた。私はその日の気分で咀嚼するものを選んだが、バターがたっぷり入ったクッキーを選ぶと殊更喜んでいるように見えた。

 精神的に幼い私はまだ私が生まれた意味を知らなかったので気づかなかった。バターがたくさん入ったクッキーは生前『白瀬慶介』が好んでいたものだった。

 一年がたつと、私は社会経験がないことを除けばほぼ成人男性と変わりない学力、常識を備え、通信制の大学入試への準備を進めていた。そのとき一人称や喋り方は『白瀬慶介』を参考にした。抵抗はなかった。なぜなら俺は『白瀬慶介』なのだから。

「いい加減にしろよ!」

 大きな声が部屋の外から聞こえたので、俺は廊下へと出た。そこには言い争う兄の智也と父の姿がある。

「何をそんなに怒っているんだ、智也……」

 狼狽える父に対して、智也は苛立ちを露わにしていた。

「俺をその名前で呼ぶな! 俺は白瀬智也じゃない!」

 またか……。

 そんな感想を俺は抱いた。こちらに気がついた父が肩をすくめて、助けを求めてくる。俺は智也に近づいた。

「落ち着きなよ。安定剤を飲んでないの?」

「あんなの飲んだら気が変になる。どうせお前は飲んでるんだろ。だからいかれたままでいられるんだ」

 ひどい言いようだが、これは今に始まったことではない。

 智也は白瀬智也であることを拒絶していた。白瀬智也であるようにと願われて生まれてきたのに、そうであることを否定して生きている。それは俺からすれば、とても生き辛いことのように思えた。

 なぜ智也は自身のアイデンティティーを認めようとしないのだろう。

 そんな疑問がわくほどだった。

 結局、智也はろくに研究所内での授業も受けずに自室に立て籠もってしまった。

「すまないな、慶介」

 疲れた顔の父に対して、俺は微笑んだ。

「気にしないで。いつものことだろ」

 それでも俺は智也のことが決して嫌いではなかった。もしかしたら生前の白瀬慶介と白瀬智也の仲が良かったため、それに習おうとしているだけかもしれないが、それでも別に構わなかった。

 しかし事件はその一か月後に起きた。

 俺が起床して研究所の施設内を歩いていると、急にサイレンが鳴り響いたのだ。何事かと辺りを見回すと、硝子片を所持した智也が走っていた。

「捕まえろ!」

 父の悲痛な叫びが聞こえ、警備員たちが智也にとびかかる。しかし智也は獣のような声をあげて束になってかかってきた警備員たちを蹴散らした。

「智也!?」

 何をしているんだ、と思いつつ俺が駆け寄ろうとする。自分なら兄の凶行を止められるかもしれないという自信が根拠もなく存在していた。しかしそれは裏切られた。智也はこちらに近づいてきた俺の首を腕でホールドすると硝子片を近づけた。

「これ以上近づいたら、こいつを滅多刺しにするぞ!」

 それは脅しではあったが、今の智也には本当にそうするだけの凄みや狂気をはらんでいた。まるで今にも爆発しそうな大きな風船だ。

「智也、こんなことしても何にもならない……」

「黙れ!」

 首元からぬめりとした白い人工血液がしたたり落ちる。咄嗟に痛覚を切ったのでわからないが、どうやら首を軽く刺されたらしい。

「どうしてだ、智也……」

 一定の距離を取りつつ、父が悲しい瞳で問いかける。

「ここで生まれてから俺の自由はどこにもなかった。俺は俺の人生を歩む。白瀬智也としてじゃない。俺が選んだ、俺の生き方を勝ち取る!」

 バッと智也は硝子片を捨て、出口へと走り出した。俺は追いかけることができなかった。ただ茫然としていた。

 俺が選んだ、俺の生き方。

 ただ作られたレールの上を沿って歩いてきた俺には理解できない動機だった。けれどなぜこんなにも動揺しているのだろう。

 いけない。俺には父さんがいるんだ。父さんを守らないと。

 そんな気持ちが俺をこの研究所に引き留めた。智也が逃亡して数日の間、父はひどく憔悴したけれど、何とか立ち直ってくれた。そのときすでに認知症が進行し始めていたらしい。

 一年後。白瀬智也が闇ブローカーとして犯罪と関わっているという情報を得た。そして自分を捜しているらしいということも聞いた。理由はわからない。けれど警察は白瀬智也、いや賀上と名乗る男に翻弄され突破口を求めていた。

「警察官にならないか?」

 マツリカ義体製造会社とパイプを持つ警視庁高官の宇野栄彦という男がこの秘密裏の実験に気づき、黙っていることを条件に俺を人身御供に差し出せと言ってきた。無論、研究所側は抵抗したが、この秘密はあまりにも大きすぎたし、頼みの綱の父はほぼ廃人になっていた。

「なります」

 俺は宇野の手を取り、研究所を去った。父と兄以外に親しい人もいないので、未練は感じなかった。

 外の世界は晴れやかだった。ただ兄の暗い影がいつも自分を追ってきているような気がした。

 それにもしも自分の秘密を外の世界の人々が知ってしまったらと思うと怖くもあった。

 研究室の玄関の前、ふと俺は立ち止まる。燦燦とした太陽が白い外壁を照らす。外の世界まであと一歩。

「平気さ」

 怖がることはないと、宇野は言った。

「はい」

 俺は、一歩を踏み出した。太陽がまぶしく、俺は一瞬目を細めた。


 白瀬がピットから降りると、駅のホームは警察官と駅員とでいっぱいだった。立ち入り禁止のテープの向こうにはマスコミの姿も見える。

「お怪我はありませんか?」

 救急隊員が訊ねてくる。平気です、と白瀬は答えた。それからしばらく事情を聴かれ、午後九時には解放された。それから〈リック〉を見ると着信が数件入っていた。どれも塔乃班の面々からだった。白瀬は一番初めに入っていた着信、鵜飼に折り返し電話をかける。

「もしもし」

「怪我は?」

「ない」

「そうか。明日の出勤は問題ないと伝えておこう」

「俺、行ってもいいのかな」

「は?」鵜飼の言い方は少し怒気をはらんでいた。「どうしてそうなる」

「だって……」

 ──人間じゃないから。

 人間、の定義とは何だろうか。母親の胎内から生まれ、自分が何者かと問いかけることもなく生きていけるものではないだろうか。自分がロボットというには出来すぎていることもまた理解していたが、人間だと肯定できるほど、白瀬は図々しくなかった。

「職務放棄か?」

「まさか、そんなことしない」

「君は賀上を捕まえるために警察官になったんだろう。なら、役目を果たせ。何者かなんていうのは実績でしか計られない」

 システマティックな鵜飼の言は、多少とも説得力があった。

「わかった。行くよ」

 霧が晴れたわけではないが、たしかにここで仕事をやめるわけにはいかない。賀上はまだ野放しにされ、今も誰かを犯罪という暗闇へ連れ込もうと狙っているかもしれない。

 賀上を止めるために、自分は警察官になったのだから。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る