④Chapter.2
自分の人生は平凡で幸福で穏やかなものだと、心のどこかで信じ切っていた。世の中にある寂しいことや暗いことはもちろん目に付くし、心を痛めるが、自分には関係ないとどこかで思っていたのだ。
自分が事故で義体になるまでは。
義体差別があるということはもちろん知っていた。けれどいざ差別される側にならなければ、その痛みや辛さはわからない。
「どうして私が⁉」
部長に向かって叫ぶと、彼は迷惑そうに眉をひそめた。
「最近このあたりで女性が暴行される事件が増えてるでしょう?」
「だから何ですか、私が関係しているという証拠はあるんですか⁉」
「証拠ぉ? そんなものはないさ。けどねえ、噂っていうのがこの世の中にはあるんだよ。あと会社の顔である営業マンがそんな黒い噂を漂わせているのはねえ」
「訴えます。必ず」
「そう」
部長は取り合わなかった。私は妻と協力し、会社を訴えようとしたがその費用を工面することができず、結局は諦めた。それから私はその大きな挫折を機に働く意欲をすっかりと失ってしまい、やがて妻にも見捨てられ、ある日、パチンコから家に帰ると娘を連れていなくなっていた。三重の実家に連絡しても「ここにはいない」の一点張りで私はどうすることもできなかった。私は妻と、最愛の娘を失った。けれども、それでも、私はまた社会に復帰する気になれず、死ぬ気でいた。
歩道橋の上から道路を眺める。ここから飛び降りれば車にはねられて死ねるだろうか。もう何日もまともに寝ておらず、頭に靄がかかったようにぼおっとする。
「おじさん、死にたいの?」
ふと声をかけられた。声の主は二十代後半くらいの黒髪の男だった。耳には銀色のピアスがきらりと光り、にこにこと笑う顔は人懐っこく邪気がない。その無邪気さが逆に恐ろしくもあった。
「なんだ、お前……」
「俺? 俺は賀上」
「名前を聞いてるわけじゃない。こんなやつに話しかけるな」
「不幸が移るから? なんかおじさん、幸薄そうな顔してるもんなあ」
「うるさい……」
「ねえ、おじさん」何でもないことのように賀上と名乗る男は続けた。「世界を変えてみない?」
一瞬言っていることの意味が分からなかった。
「世界を変える?」
「そう。このどうしようもない世界を少しでもましにしようよ」
私は苦笑した。この男が何者であるにせよ、世界を変えることなどできるわけがない。けれど、それは大きな勘違いだった。
「死ぬくらいなら、逆にこの世界を殺してやろう」
この男は普通じゃなかった。まともじゃないと言い換えてもいいかもしれない。けれどひとつ確かなのは、私の世界に現れた賀上という男は、まぎれもなく私を救った。
私は義体差別を受けた仲間を募り、〈ラベル〉法案に目を付けた。賀上からの手ほどきを受け、私は犯罪者として生きることへの躊躇いを捨てた。
為すべきことを為す。それはきっと私に課せられた使命だ。
「人質は?」
仲間の一人、林が答える。
「バスの中で大人しくしてる」
暗視カメラで地下の様子を見る。白瀬という刑事と人質の娘はバスの中で用意された菓子を食べているようだ。会話は聞こえないので何を話しているのかわからないが、大方、子供を安心させようとしているのだろう。
私はラップトップを開き、賀上からのメールを確認する。
『松江は〈ラベル〉法案の廃案へ動き出したようだよ』
その文面を見て、私は歓喜に打ち震えた。二年をかけたこの計画がようやく報われようとしていた。あとは人質を解放するだけだ。
計画通り、刑事と娘は飲料水の中に含まれている睡眠薬で深く眠ってしまった。傷つけないように再び拘束し、車の中に入れる。廃工場を出て公園に二人を置き去りにする計画だった。廃工場から出ようとシャッターを開けたとき、外に人がいた。
「西園寺……さん?」
西園寺は〈ラベリング〉法案反対派の急先鋒としてテレビで活躍している女性ジャーナリストであり、仲間の一人だ。
「どうしてここに?」
「人質を解放しようとしているのよね」
西園寺の顔は厳しく、なぜかこちらを非難するような目で見ていた。それに若干たじろぎながらも私は返事をする。
「ええ。松江は条件を飲みました。これ以上、人質がいても……」
「殺す」
「は……?」
西園寺の瞳は血塗られた殺意で炯々と光っていた。
「本当の正義を実行するためには松江をさらし者にするしかない。義体差別主義者に思い知らせてやるにはこれしかないの」
「待ってください。そんなこと計画には」
焦る私に対して、西園寺は狂気をはらんだ瞳で答えた。
「このまま人質を解放したら、松江はまた数年後に〈ラベル〉法案を通そうと動き出すかもしれない。徹底的に打ちのめす必要がある。わかるでしょう?」
「けど」
車の中で眠っている寧という名の娘を見る。彼女は起きたのか、丸い目でこちらを見ている。会話が薄いガラス越しに聞こえたのだろう。その身体は殺されるかもしれないという恐怖で震えていた。
──お父さん。
そんな姿が、顔が、私の娘と重なった。
「まあまあ、なにも水樹さんに殺してもらおうってわけじゃないよ」
ふらりと姿を現したのは紺色のパーカーを着た賀上だった。賀上と直接会うのはほぼ一年ぶりで私は驚いた。
「賀上さん! 今までどこに?」
賀上は飄々とした風に笑う。
「うーん。まあ、色々と。で、そんなことより人質だよ。人質。その女の子は西園寺さんが始末する。そっちの刑事は俺が預かるから」
私は疑問に思っていたことを口にした。
「あの、なぜこの刑事を連れ去るように言ったんですか?」
「まあ、ちょっと用があって」
そういうなり、賀上は拘束されている刑事を担ぎ、停めていた紅色のスポーツカーの座席へ雑におろした。
「あとは任せて」
そして西園寺が寧に触れようドアを開ける。その瞬間、私の中の何かが弾けた。私はその手を払いのけ急いでドアを閉めると、運転席に乗って車を発進させた。何かを考えている暇もなく、気がついたらそうしていた。
そのまま廃工場の立ち並ぶ〈区外〉を抜けて首都高速に乗り換える。私は息を吸うのもやっとの気持ちで車を運転していた。
「おじさん……」
後部座席の女の子が恐々と話しかけてきた。
「助けてくれたの……?」
「そんなわけないだろ。おじさんは、君を攫ったんだよ」
「でも……」
自分でもなぜこんなことをしているのかわからない。首都高速に乗った以上、監視カメラで警察に位置がバレる。けれど、でも──。そのとき私の頭の中にある考えがよぎった。それはこの作戦が無事にうまくいったら考えていることの一つだった。やり方は違うが、結局は同じことだ。助手席のそれを手に取り、私は息を吐いた。もう警察に捕まってもいいと思った。
覚悟はできた。
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