③Chapter.2


 目を覚ますと、白い天井が目に入った。ツンとするアルコールの匂いと、ほっとしたような人のため息。

「ここは……病院?」

 鵜飼は上体を起こそうとするが、肩にナイフで刺したような鋭い痛みが走る。

「ああ、起き上がっちゃだめだよ」

 ため息を吐いたのは宇野だった。心配そうに眉を八の字にして、けれどどこか安心したようにこちらを見ている。

「銃で撃たれたんだって?」

「かすり傷です」

 そう言いながら鵜飼は宇野の制止も聞かず、無理やりに上体を起こす。傷跡には包帯が巻かれていたが、どうやら大したことはなさそうだ。

「松江寧さんは?」

 宇野は表情をこわばらせる。

「連れ去られた。白瀬くんも」

「白瀬も? どうしてですか?」

「わからない。犯人の行方を今、捜しているところだよ」

「僕が倒れた後、寧さんたちを乗せた車はどこへ?」

「〈区外〉だ」

 〈区外〉。都市の暗部。アンダーグラウンド。悪の巣窟。呼び方は様々だが、治安が良い場所ではない。あのあたりの警察組織は賄賂に溺れ、ろくに機能していなければ、監視カメラもほとんど存在しない。実質、国外逃亡されてしまったようなものだった。

「松江大臣は無事だけれど、警察に相当腹を立てていてね。人質をとったからには何らかの要求をしてくるはずなんだけど、こちらに協力的ではなくて……」

「…………」

 鵜飼は奥歯をぐっと噛んだ。自分が寧をしっかりと守ってやっていれば、こんなことにはならなかった。

「僕も捜査に参加します」

「その傷で? 塔乃さんが休むように言っていたよ。僕はそれを伝えに来たんだ」

「言ったでしょう。かすり傷です」

 言うが早いか、鵜飼は無理やり立ち上がる。少し貧血気味なのかふらふらするが、文句は言っていられない。今も、幼気な女の子が危機にさらされているのだ。白瀬も無事とは限らない。

「一応、白瀬は僕の相棒ですからね。だったらやっぱり行かないと」

 前髪をかき上げ、鵜飼はジャケットを羽織った。


 ***


「──さん、白瀬さん!」

 誰かの声がする。

 誰だろう。

 夢?

 いや、夢じゃなくって……。

「寧ちゃん?」

 白瀬は暗闇の中、目を覚ました。口の中に人工血液のコンクリートみたいな味が広がっている。そういえば、角材か何かで殴られたんだった。いくら全身義体だからって、脳はあるのだから、脳震盪くらい起こす。手加減してくれてもいいじゃないかと心の中でぼやきながら白瀬は椅子にちゃんと座った。

 それは古びたバスの中だった。もう使われていない地下空間の中にバスが一台止まっている。ガラス窓から外を見るが、誰もいない。見張りもいないことを、白瀬は奇妙に思った。

「寧ちゃん、怪我は?」

 寧はふるふると首を横に振る。

「怖かったね。名前、呼んでくれてありがとう」

 白瀬が頭をなでると、精いっぱいだったのだろう寧の目から雫がこぼれた。

「……平気、です」

 強い子だ。これも松江昴の血が流れているせいだろうか。

「俺たちを捕まえたやつのこと、見た?」

「上から」

「上?」

 寧が手を引っ張る。バスの扉はすんなり開いた。広い地下空間と思われていた場所はところどころ崩落していた。壁際にコンクリートの階段があり、天井には扉がある。

「あそこから俺たちを連れてきたのか……」

 階段を上り、天井の扉を叩いたり、動かそうとしてみるが、やはりびくともしなかった。それにしてもこの地下空間は恐ろしく冷える。寧を心配した白瀬はバスの中へ戻ろうと提案した。

 バスの中にはランタンもあればクラッカーなどの保存食や水、簡易トイレまで置かれていた。人質を生かすためにあらかじめ準備しておいたのだろう。

「あ、チョコレートがあるよ。寧ちゃん、チョコ好き?」

 やや落ち着いてきた寧が首を縦に振る。板チョコを割り、大きい方を渡すと、それをほおばる。その姿を見ながら白瀬は思考を巡らせていた。

 松江寧を誘拐する理由はわからないこともない。松江昴の弱点がこの少女だからだ。犯人の目的はわからないが、こちらへの殺意は感じられない。少なくとも、寧が殺される心配はしなくてもよさそうだ。

 だが、問題は自分だ。

 ──なぜ俺を殺さなかった?

 単純に殺人罪になることを恐れたのなら、軽率に鵜飼に発砲したとは思えない。誘拐犯たちには人殺しもやむなしという意識があったはずだ。だが、白瀬は殺されなかつた。それどころか寧と一緒に地下に閉じ込められている。まるでもう一人の人質のように。

 悪寒がする。

 寒さのせいではない。

 警察官になるにあたり、さまざまな犯罪があることを知った。悲しい動機もあれば、許せない動機もあった。人は誰しも犯罪者になりうるのだと、何度も打ちひしがれた。しかしそのたびに、人を犯罪者に堕とす前に救えたのならばと思った。そして逆に、無辜の人々を犯罪者にしてしまう、怪物のような存在とも遭遇した。

 ──賀上……。

 嫌な予感のせいで、動悸が激しくなる。そんなはずはないと一蹴するのは簡単だったが、白瀬はそうは思えなかった。


 ***


 鵜飼は塔乃に連絡し、現場復帰を願い出た。渋々という風に了承され、松江邸に向かうように指示される。車を走らせ向かうと、外からでも松江昴の怒声が聞こえてきた。大事な孫が攫われたのだから怒髪天を突くのも無理もないだろう。謝罪をしなければならないと、叱責される覚悟を決めた鵜飼はチャイムを鳴らす。家政婦が出て中に案内されると、リビングでは複数の刑事に取り囲まれている松江昴が目に入る。

「くそう。こちらの足元を見て……」

「松江大臣……」

 鵜飼の姿を認めた松江昴は怒るどころか、今にも泣きだしそうだった。

「何があったんですか?」

 隣の刑事に訊くと、小声で答えられる。

「たった今、犯人から電話がありました」

「えっ」

「機械音声で、〈ラベル〉法案を否決させろ、できなければ孫を殺すと」

「逆探知は?」

「できたら、雁首揃えて待機なんてしてませんよ」

 それはそうだ。鵜飼はため息を吐くのをこらえ、狼狽している松江昴を見やる。

「ロビイストを総動員させて、〈ラベル〉を廃案にさせるしかない……!」

 議員秘書と思わしき男が悲鳴を上げる。

「しかし、それは先生の悲願ではありませんか!」

「寧の命がかかってるんだ!」

 犯人の目的はやはり〈ラベル〉法の棄却にあるようだ。松江昴は法案を通さないつもりらしいが、そうしたところで松江寧が本当に帰ってくるかはわからない。そのとき、鵜飼の〈リック〉に着信が入った。塔乃からだ。廊下に出て、応答する。

「鵜飼、事情は聴いたわ」

「はい。逆探知は失敗したようですね」

「私たちは別の方向から犯人を追う。ひとまず白瀬の家に行く」

「白瀬の? なぜです?」

「住所を送った。来なさい」

 着信が切れる。仕方なく鵜飼は指示に従った。

 白瀬の家は都内のどこにでもありそうな十階建てマンションの三階だった。集まった塔乃、宇野、玖島と共に、大家に話をしてキーカードを借りて中に入る。

「白瀬くんに何かあったんですか?」

 人の好さそうな大家の女性が不安げに言う。

「いえ、まだ事件と決まったわけではありませんので」と塔乃。

「白瀬くん、いつも笑顔で挨拶してくれてねえ。とってもいい子なのよ。そんな子が何かに巻き込まれるなんて……」

「大丈夫ですよ」

 宇野がにこりと笑う。大家は不安そうなまま黙って家から出ていった。

 白瀬の家の中はこざっぱりとしていた。ステンレス製の棚に、木製のローテーブル。窓際には小さな観葉植物が飾ってあった。けれど全体的にみてもかなり物が少なく、引っ越したばかりなのかとすら思うほどだった。

「小奇麗にしてるな。俺の部屋とは大違いだ」

 感心するように玖島が言う。

「玖島さん、デスクも乱雑ですからね」

 宇野が苦笑いを浮かべた。鵜飼も同意見だ。

「それで、塔乃さん。なんで白瀬の家に?」

 玖島の問いかけに、塔乃は真顔のまま答える。

「白瀬が犯人組織と通じている可能性がある」

「えっ」

「は?」

「嘘でしょう?」

 三者三様の反応に、塔乃は息をつく。

「あくまでも上の考えは、だけど」机にあったコンピューターを立ち上げ、悠々とハッキングをしてロックを解除する。チェックしているのはメールボックスだった。「賀上という男を知っている?」

 宇野と鵜飼は互いの顔を見合わせる。玖島だけは知っているようだった。

「ジョン・ドウみたいなもんでしょう。あるいは名無しの権兵衛。いるらしいけど、本当にいるという証拠がない男。大きな事件の裏側にいるとされる犯罪者……」

「そうでもない。既に戸籍は割れている」塔乃は少し声を低くする「賀上は白瀬の兄なの」

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