⑥Chapter.1


 当時小学生だった逢野さくらは義体の交換のために、頻繁に九条自然義体会社を訪れていた。手術のための麻酔一本を打たれるのが怖くて、何度も泣いて里親や医師たちを困らせたし、術後のリハビリでもよく泣いた。

 リハビリ施設に通っていた頃、逢野は今日も泣いていた。足を動かすたびに針で刺されたような痛みが襲うのだ。歩行器を離し、ベンチに腰掛ける。逢野は泣きはらした目でフローロングの床を見ていた。そのときだった。

「どうして泣いてるの?」

 男の子の声が聞こえて、顔を上げた。黒い髪に分厚い眼鏡をかけている、いかにも賢そうな男の子だった。

「……痛くて」

 逢野が呟くと、男の子は悲しそうな顔をした。

「どこが痛いの?」

「おひざ」

「触っていい?」

「うん……」

 男の子は逢野の膝をさすり、痛いの痛いのとんでいけをやってくれた。そんなことでは治らないことくらい知っていたが、男の子はとても真剣な顔でその呪文を唱えていた。

「義体なの?」

「うん」

「そっか」

「私、さくら。君は?」

 男の子はリハビリ施設では見たことのない顔だった。

「九条聡。お父さんがここの会社の社長で、今日はたまたま用事で僕もここに来てたんだ」

「じゃあ義体じゃないの?」

「うん。だから、さくらちゃんがどんな風に痛いのか、わからないんだ。ごめんね」

 謝る必要なんてないのに、聡はそれが恥だというように顔を俯かせた。

「義体なんかじゃない方がいいよ」

 心から逢野はそう思った。

 それからしばらく、他愛ない話をした。逢野はリハビリをサボる口実が欲しかったし、聡はこちらに興味を示していた。やがて話題はクラスの人気者や面白い先生の話になり、二人はいつの間にか笑い合っていた。

「あー、面白い! 聡くん、今度はいつここに来るの?」

「わかんない。でもIDを交換しておこうよ。またいつでも話せるように」

 知らない人と個人情報のやり取りをしてはいけないと習ったけれど、逢野にとって聡は既に知らない人ではなかった。

「うん!」

 逢野は初めてできた男友達に心躍った。そしてその男友達が初恋の人にかわるまでにそう長い時間は必要なかった。


 ***


「聡くん、今、どこにいる?」

 現在。〈リック〉から、逢野は聡に電話をかけた。

「もう薬局は見えてるよ。ここの角を曲がるんだよね?」

「うん……。監視カメラに気をつけて」

「わかってる」

 朝焼けの見える路地裏。逢野は息を吐く。銃がずしりと重たかった。

「さくら?」

 駆け寄ってきたのは長身の青年だった。丸い眼鏡をかけており、理知的で落ち着いた印象を与える。

「聡くん、背、のびたね」

 そんなことを言っている場合ではないのに、つい逢野はふにゃりと表情をほころばせてしまう。毎日のように連絡は取りあっていたけれど、こうしてあうのは一年ぶりだ。

「そんな恰好で。寒いだろ」

 聡が羽織っていた上着を逢野の肩にかける。大きなブルゾンだった。

「ありがとう」

「それで、どうして病院を抜け出したんだ?」

「ごめんね。自分のことだから、やっぱり自分の目で見届けたくて。作戦は、上手くいってるの?」

「それが……。会社のサーバーをクラッキングしたまでは良かったんだけど、どうやらオフラインに例のデータがあるらしいんだ。おそらくUSBか何か、持ち運べる小さなディスクに入れられているはずだ」

「ネットワークからクラッキングするのは無理ってことだね」

「すまない。俺のリサーチ不足だ」

 謝る聡に対して、逢野は首を横に振る。

「ううん。実はそんな予感はしてたの。やっぱり来てよかった。私、会社に行く。行って、あのデータを消す」

「無茶だ」

「じゃあ、このまま見て見ぬふりをするの? 何も知らない顔をして生きていけって言うの? 全部、私のせいかもしれないのに……。第三次世界大戦は、私の……」

 胸の中に墨汁のような黒い液体が流れ込んでくる。考えるだけで恐ろしいことが、起きてしまった。そのトリガーを引いたのは、九条自然義体会社であり、私だと逢野は思った。

「俺も行く。会社の中のことなら多少は詳しいし、セキュリティカードも持ってる」

「わかった。行こう」

 逢野は頷き、一歩を踏みしめる。自分のことを正義だとは思わない。けれど間違いなく、九条自然義体会社がやったことは裁かれるべきことだ。


 ***


 昼。九条自然義体会社から白瀬と鵜飼は警視庁へと戻ってきていた。逢野は依然として逃亡を続けているが、捜索は他の班が続けていた。白瀬と鵜飼は塔乃に報告を終え、席に着く。全員の顔を見回してから、塔乃が口を開いた。

「さきほど別の班から、逢野さくらのクラッキングについての詳細が判明した。結論から言えば、あれはクラッキングではない」

「クラッキングじゃない? でも逢野さんは暴れたんでしょう?」と宇野。

「演技だったってことか……」玖島が気だるげに伸びをする。

「汚染されたように見せかける時限式ウィルスを潜ませておいて、自分の意思で暴れた後にハッキングで暴れたと機械技師を誤解させた」

「そんな高等技術、どこの誰が?」

 鵜飼が問う。

「それも既にわかっている。九条聡。九条自然義体会社の跡継ぎで都内の高校通っている。逢野さくらも同会社の義体を使っているのは、先ほど報告があった通り」

「じゃあつまり、九条聡っていうスーパーハッカーさまがその時限式ウィルスを逢野さくらの義体に仕込ませて、逢野さんは演技で暴れたと」

 白瀬が宙を見ながら必死に頭を動かした。

「なぜそんなことをしたのかは私にもまだわからない。ただ明確な目的があるのはやはり間違いなさそう」

 扉がノックされ、別の班の刑事が入ってくる。

「塔乃さん。動画サイトに逢野さくらの投稿が上がっています!」

 タブレットが接続され、オフィスのスクリーンに映像が映し出される。それはどこかの路地裏で撮られているような不鮮明な映像だった。画面の中央に逢野さくらが立っている。何か強い意志を秘めた瞳がこちらを見た。

『私の名前は逢野さくら。突然ですが、これからする話をどうか聞いてください』

 さくらは自身の首元に触れた。ちょうど耳の後ろのあたりだ。すると顔のパーツが動き、機械でできた顔面があらわになる。薄気味悪い銀色の表情筋や、剥き出しの眼球がグロテスクだった。

『私は全身義体です。家族はいません。父親は不明。母親は私を生んですぐに死にました。病院で生まれた私は未熟児で、今にも死にそうでした。そこで九条自然義体会社という義体会社が私の体にパーツをあてはめました』

 未熟児を全身義体に?

 にわかには信じがたいことだった。

「そんなことが可能なんですか?」

 呟くように宇野が言う。

「聞いたことがない。第一、手術へのリスクが高すぎる」

 玖島が言う。白瀬も同感だった。素人判断だが、成功する確率は五パーセントを切るのではないだろうか。逆を言えば、九十五パーセントの確率で未熟児は死ぬ。どのみち危うい命だったのだから、どんな可能性でも試すべきだと言われればそれまでだが、やはり危険な賭けに思える。

 画面の中の逢野さくらは続ける。

『私の手術は成功しました。私の命を救ってくれたことは本当に感謝しています。……手術の後、身寄りのない私は養子となり、九条自然義体会社に研究対象として定期的に通いました。内臓や脳の発達とともに何度も何度も義体手術を受けました。危険な橋を、私は運よく勝ち続け、渡っていきました。私は……』言葉を詰まらせながら続ける。『本当に感謝していたんです。私はたしかに研究されていたけれど、友達もいたから。でも知ってしまった。知ってしまったから、私は恩を仇で返す。九条自然義体会社を告発します』

 静まり返った会議室に、逢野さくらの声だけが響く。

『私の研究データは、望まない……恵まれない国の子供を兵器化するためのプロジェクトに使われていました。生まれたばかりの子供をサイボーグにする計画です。私が生まれた十七年前、第三次世界大戦が勃発の兆しを見始めていた頃、この計画は立ち上がり、今も研究は続いているはずです。証拠はまだありません。私が最近、友人と共に遊び半分で研究所内のデータをクラッキングしようとしたら出てきたというだけで、それも作りものだと言われればそれまででしょう。けれど確証はあります。だから、確かめに行きます。……九条自然義体会社に行きます。すべてを知っているはずの社長に直接話を聞きます』逢野が懐から銃を取り出し、ちらつかせる。その目は揺るがない意思で燃えていた。『どんな手段を使ってでも』

 映像はそこで終わっている。再生数はまだ三桁にも達していない。

「九条自然義体会社に向かって」こんなときでも恐ろしいほど冷静な声で塔乃が指示を出す。「急いで」

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