荒神鎮送2

 縁側の奥に橘姫を捕まえた邪鬼の後姿がある。

 その足元には奥方が倒れていた。気を失っているだけであろうか、それとも既に殺されているのか。

 

 「その手を離せ、邪鬼!」

 猛追する勢三郎の刃が邪鬼を間合いに捉え、ぎらりと光った切っ先が飛び退く邪鬼を追う。


 邪鬼が退く。


 だが、勢三郎の踏み込みが速い!

 下から上へ斜めに邪鬼のみを斬る!


 「!」

 だが、勢三郎が刀を振り切ることはなかった。


 その手が止まり、冷気を裂いた刀身が濡れたように光を反射している。その神速の一撃でも邪鬼を斬ることはできなかった。


 「無駄じゃ!」

 邪鬼が小脇に抱えていた姫を盾替わりにしたのだ。


 これならば斬れまい? という不敵な笑みを浮かべ、邪鬼は勢三郎から素早く距離をとった。


 「ちっ! 狡賢ずるがしこい」

 勢三郎はさっと屈んで、倒れている奥方の頸に指を触れた。まだ息がある、どうやら気を失っているだけのようだ。


 「けひょひょひょ!」

 奴が逃げた。


 橘姫を抱えたまま縁側を離れに向かって走っていく。


 「待て! 化け物!」

 その正面に現れた屋敷の下人が、鎌を手に邪鬼の行く手を阻んだ。


 「!」

 邪鬼は壁に掛かっていた農具をとっさに掴んで、下人に向かって投げ捨てた。思わぬ行動にひるんだ下人を突き飛ばしたのが見えた。


 下人が農具と一緒に庭に落ち、降り積もった雪が舞い上がって一瞬、邪鬼の姿が視界から消えた。


 「お侍様、屋根の上ですじゃ!」

 突き飛ばされて、庭に倒れた下人の男が雪の中から屋根を指さした。


 「うむ!」

 勢三郎は庭の栗の木の枝に飛び移ると、そこから屋根に向かって跳んだ。


 その身軽さと身のこなしの素早さは、およそ人間のものとは思えない。


 「あの御方はいったい……」

 下人は尻もちをついたまま目を丸くしている。


 勢三郎が庇の屋根に着地した衝撃で、軒先に張り出していた雪が足元の雪を巻き込んでドドドッと落下した。


 それにつられて雪崩のように次々と足元の雪が一気に滑り落ち始めた。


 勢三郎は焦りの表情も見せず巻き込まれぬように跳躍しながら、表層が流れた後に残った堅雪を足掛かりに大屋根の萱の上に着地した。


 後の世では魂が邪鬼と入れ替わってしまった橘姫。

 その歴史を改めるのだ。

 その目に大屋根の上を逃げる邪鬼が映る。


 鬼姫をこの世に生み出し、解き放ってはならない。

 化生の者は年月を重ねるほど力が強大になる。

 少なくともここで封じなければならぬ。


 勢三郎は急いでその後を追った。

 邪鬼は屋根の上を小走りに駆け上がっていく。


 「逃がさん!」

 勢三郎は懐から針を取り出し、念を込めると投げつけた。


 その何本かが姫の着物の裾に突き刺さり、そのまま萱葺かやぶきき屋根の千木ちぎに突き立った。


 「ぬうっ! 邪魔をしおって!」

 ふいにその手から姫の身体がすっぽ抜け、邪鬼がたたらを踏んだ。


 「姫は奪わせはせぬ!」


 勢三郎は、悲鳴を上げ屋根の萱の上を転がっていく橘姫の身体を素早く掴んで抱きかかえた。


 姫は恐怖で気を失ったのか、ぐったりしている。


 「おのれ! そいつを返せ!」

 邪鬼が目を吊り上げ、爪を振りかざして迫った。


 斬る! 勢三郎の目が金色に輝いた。


 その瞬間だった。勢三郎の気配が変わったことに反応したのか、抱えていた橘姫の目がふいに開いた。


 「何ッ!」


 勢三郎は思わず地面の積雪の上に飛び降り、一緒に雪に腰まで沈んだ橘姫の両肩を掴んでその目を見た。


 恐怖で怯えた瞳には勢三郎の真顔が映りこんでいる。さっきの違和感はない。気のせいか?


 姫が気がついた一瞬、姫から何か別の気配が立ち昇ったような気がしたのだ。


 「私の体を返せ!」

 邪鬼だ。


 あの違和感が何か、それを確かめる暇もない。

 大屋根から井戸の近くに雪煙が上がり、着地と同時に邪鬼が叫んで突っ込んできたのである。


 「?」

 その鋭い爪の一閃を刀で弾き返し、勢三郎は橘姫を抱えて後方に下がった。


 今の邪鬼の言葉と、さっき橘姫から感じた何とも言えぬ異質な気配。


 まさか橘姫はとうに体を邪鬼か何者かに奪われていたのだろうか? もしも邪鬼と橘姫、双方の魂が既に入れ替わっているとすれば……。


 「確認しなければなるまい」

 勢三郎は邪鬼の体の奥底に眠る者の正体を見極めようとにらんだ。


 邪鬼は爪を尖らせたまま勢三郎の隙を伺っている。


 危ない所だったのかもしれぬ。


 もし既に魂が入れ替わっていたとすれば、あのまま邪鬼を滅することは魂の入れ替えの完成を意味する。橘姫の魂は、邪鬼の体の中で次第に自我を失い、永遠に消滅してしまったはずだ。


 そうなればまさに鬼姫の思う壺であろう。


 もしかすると、それこそが橘姫の姿をした者の謀略だったのかもしれない。橘姫の魂が宿った邪鬼を誰かに滅ぼさせれば、鬼姫としての存在に一切の揺らぎはなくなる。


 橘姫を背後に守りながら勢三郎は邪鬼に向け油断なく刀を構えた。


 だが、既に入れ替わっていると思わせることが邪鬼の策略と言うことも考えられる。そこが厄介なのだ。


 まだ入れ替わりはなされておらず、さっきの邪鬼の言葉がまったくの虚言であればどうか。


 人を惑わすのは邪鬼の最も得意とするところなのである。


 邪鬼の眼からはそのどちらとも読み取れない。



 「いたぞ! あそこだ! 撃て! 撃て!」

 庭に村の衆を引きつれた長者が姿を現した。


 ドン! ドン!

 硝煙の臭いと共に火縄銃が火をふき、邪鬼の周囲に銃弾が次々と着弾して真っ白な雪煙を上げた。


 「やったか?」


 「まだだ、死骸がない、どこに行った!」

 「化け物がいなくなったぞ!」


 視界を覆った雪煙が風に流されていくと、そこには邪鬼の姿は既になかった。



 「くそっ、逃げられたに違いねえ、屋敷の外だ! 追うぞ!」

 火縄銃を持った男が仲間に向かって叫んだ。


 「姫は無事か! おお、橘姫!」

 「おじいさま!」

 橘姫は勢三郎の元を離れ、おびえたように長者の影に隠れた。


 橘姫が、わざと邪鬼を呼び寄せ、それを退治するように仕向けたのか。


 それとも本当に橘姫を守ることに成功して、邪鬼を撃退しただけなのか。


 どちらが正しいにしても、なんという狡猾さか。


 邪鬼が言い放った「私の体を返せ!」というたった一言が、勢三郎を迷わせた。邪鬼は勢三郎の剣を封じたのだ。


 「面倒なことだ」

 長者が抱きかかえた橘姫を見て、勢三郎は刀を鞘に収めながら唇を噛んだ。


 悔しいが、この初戦は勢三郎の負けと言って良かった。

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