第8夜
荒神鎮送1
谷を越え尻沢村の外れに入ると、雪をかぶった鎮守の森の中にはまだ真新しい
早朝の事ゆえ、寒さは厳しく吐く息は白い。
澄んだ空気に氷の華がちらちらと舞って陽光を反射している。
社からは削った木材の香りが漂ってくるようだ。鳥居すらまだ出来上がっていない。
やはりここがそうか。
雪の踏み固められた石段を駆け上がった勢三郎の足は止まらない。
まだ神は宿っていないらしいが、おそらくあれが後に鬼姫が眠ることになった社なのだろう。後の世にあれを破壊したから鬼姫がよみがえったのだ。
勢三郎は社を横目に見ながら鎮守の森を抜け、つづら折りに続く雪の坂道を足早に村に向かった。
白い雪で覆い尽くされた段々畑の先に点々と家の屋根が見えている。
家々は雪にすっかり埋もれ、外には村人の影もない。
煙突から煙が立ち昇り始めた家が数軒である。刻限からすれば朝餉の準備にでも取り掛かったのであろうか。
勢三郎の目が一層厳しくなった。
あそこだけ何かが違う。
息をなびかせ、勢三郎は見上げた。
集落の一番奥の高台である。
そこにはまるで集落を威圧するかのように切りたつ高石垣が見える。その上には黒い板塀を巡らした大屋敷があった。
勢三郎がいた時代には廃墟になっていたが重厚な佇まいの屋敷である。
あそこには邪鬼に魅入られた少女、橘姫が住んでいるはずであった。
勢三郎はざわりと胸騒ぎを覚えた。
裸の胸のあたりを何か嫌なものが撫でたような感覚である。
既に何か異変が起きてるのは間違いないであろう。
次第に禍々しい化生の者が放つ悪臭に近い気配が漂い始めた。
勢三郎の腕に鳥肌が立った。
大屋敷を囲む堀にかかる石橋を越え、石垣に沿って坂を駆け上がると食い違い虎口を思わせる門は既に開いていた。
朝になったゆえ、使用人が門を開いたものであろうか。門の前後の雪はきれいに片付けられている。
「御免! 誰かおらぬか! 御免!」
勢三郎が大きな声で叫び屋敷の門をくぐった時だった。屋敷の中から切り裂くような悲鳴が上がった。
「くっ、襲われたか!」
勢三郎は刀の柄に指を添え、母屋に向かった。
ーーーーーーーーーー
「ひいっ!」
ガチャガチャンと茶碗が割れた。使用人の女が恐怖で立ちすくんでいる。
「化け物め! 何をするべ!」
その女の夫でもある使用人の佐吉が天秤棒を手に廊下に姿を見せた。棒を両手で握って渾身の力で振り下ろしたが、そいつは片手でその棒を易々と掴むと真っ二つにへし折った。
けけけけけ……と佐吉を前に邪悪な眼が笑っている。
「ぎゃあああ……!」
男の悲鳴と共に障子に血しぶきがバッと降りかかった。一緒にいたはずの女の悲鳴すらももはや聞こえない。
「……………」
いったい廊下で何が起こっているのか。
屋敷の主人の長者は、妻と孫を背にすると壁にかかっていた先祖伝来の槍を手に取った。槍など使ったことはない、だが、今はそんな事は言ってはいられないのだ。
「声を出すな、静かに……」
板壁の打ち破られる音と先ほどの佐吉の悲鳴、もしかすると冬眠から早く目覚め過ぎた空腹の熊であろうか。
ミシリミシリと廊下を何かがこちらにやって来る。
その足音が部屋の板戸の前で止まった。
槍を持つ手に汗がにじむ。
来る!
ぐっと柄を握りしめて身構えた時だった。
突如、目の前にギラギラと血走った大きな眼が現れた!
「うわっ!」
初老の長者は、突然目の前に現れた黒い邪悪な影に恐怖の色を浮かべた。
そいつはいつの間にか天井に登って、からかうように長者の前に飛び降りてきたのだ。
「けけけけけ…………」
黄ばんだ歯を丸出しにして奇怪な笑みを浮かべる邪鬼に、とっさに槍で薙ぎ払おうとするが槍がびくともしない。奴が片手で槍の柄を掴んでいた。
「こんな物で俺を倒せはしない」
そいつはそう言って槍を叩き落した。
「ば、化け物! 何だ! お前は!」
長者は痺れた手首を抑え、尻もちをついて叫んだ。
「あなた!」
「逃げろ! 橘を連れて早くゆけ!」
「おじいさま!」
囲炉裏にかけていた鍋がひっくり返り、湧き上がった水煙が向かい合う邪鬼と長者の間にしゅうしゅうと立ち込めた。
「邪魔だ! ジジイ! そいつを、橘姫を渡すのだ!」
邪鬼が鋭い牙を剥いて飛び掛かった。
「ひいっ!」
目を閉じた長者。
だが、痛みは訪れない。
ガチリ! と銀の刃が邪鬼の口に咥えられていた。
「長者殿、早くこの場から逃げなさい」
いつの間にかそこに見知らぬ浪人者がいた。彼は入ってくるなり刀を抜き、邪鬼に襲われた長者の窮地を救ったのだ。
「橘、こっちです!」
奥方の声がして、橘姫たちが縁側を逃げていくのが邪鬼の目に映った。
「貴様、何者だ? なぜ今日、俺がここを襲うことを知っていたのだ?」
邪鬼は、不健康に出っ張った腹の前で爪を擦り合わせながら、勢三郎を睨んだ。
桜姫の言うように鬼姫ほどの脅威は感じない。
しかし、それでもただイタズラをする程度の邪鬼ではないことは明らかだ。こいつは明確に長者屋敷の者たちを害する気でここに来ている。
「邪悪な鬼め、お前に語ることなどない!」
勢三郎の剣が切っ先鋭く一閃したが、邪鬼が後退する方がわずかに早い。奴はその牙を一本切り落とされただけである。
「ケケケケケケ……」
邪鬼は笑い声を発しながらダダダダと壁を四つ足で走った。
「逃がしはせぬ!」
勢三郎は指の間に挟んで取り出した三本の長い針を邪鬼めがけて放った。
「ギャアッ!」
短い声がしたが、音もなく壁に突き刺さった針には邪気の小指だけが一本残り、緑色の血を滴らせているのみである。
予想外の動きで邪鬼は勢三郎の放った針をかわしたのだ。
「どこに消えた?」
勢三郎が左右に目を配った、その時だ。
きゃーーっ! と娘の悲鳴が聞こえた。
「外か!」
刀を抜き、勢三郎は縁側へと飛び出した。
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