尻沢無残6

 外は少し風が出て来たらしい。戸板に当たる雪の混じった風がわずかな隙間から吹き込んで、背中に冷気を感じさせる。

 風に押された煙は漂うことすらなくなって、追い立てられるように天井の亀裂に吸い込まれていった。


 二人が向き合う火だけが正面から体を温めている。くべられている太い丸太のような薪の先端だけが時折弾けながら赤々と熱を発していた。

 

 「……そうなのですか。貴方のいた世ではそんな事態が起きているのですか、なんとも酷いことです」

 桜姫が長い沈黙のあとつぶやいた。


 「これから起こるであろう一連の惨劇を防ぐのであれば、鬼姫が生まれることこそ、阻止せねばなるまい」

 尻沢にはまだ村があって人々が暮らしているらしい。つまりまだ橘姫が生きていた時代なはずだ。


 「止められるのでしょうか?」


 「この時代、まだ鬼姫が生まれていないならば、止めるしかあるまい。場合によってはその娘を犠牲にせねばなるまいか」

 事と次第によっては鬼姫になる前に橘姫を殺すという決断に迫られることもあるであろう。災いとなる者を放置はできぬ。


 ちょっと難しい顔をした勢三郎は眉を寄せたまま、立ち上がる気配を見せた。


 「勢三郎様、お待ちくださいませ。お聞きした昔話に少々合点がいかぬところがございます」

 桜姫は小首をかしげた。


 「というと?」


 「お話では、姫が生贄として捧げられる途中で棚端山城の領主の跡取りにさらわれ、城で気が狂って鬼姫になったということでした」

 「うむ、そう語り継がれておるようだ」


 「しかしながら、その棚端城は破城されて既に時久しいのです。今は無人の廃城であります。棚端城に代わる城も付近にはございませんし、それに今年は生贄を捧げるほどの大飢饉は起きてはおりませぬ」

 桜姫の瞳は純真で嘘を言っているようには見えない。


 「それは本当か? それが事実とするならば、橘姫が鬼姫となる事件そのものが起きようがない、ということなのだな?」

 「はい。そうなのでございます」


 勢三郎は思案顔で薪の芯が赤く燃える様子を見つめた。

 深い沈黙の中、薪がパチパチっとはぜる音がした。


 では、橘姫と鬼姫は別人であろうか? しかし、橘姫以外に鬼姫になるような姫がこの里に生まれているとも思えない。


 鬼姫は間違いなくこの時代で生まれている。そして橘姫こそ鬼姫だ。鬼姫に噛まれて毒を体内に注がれた影響であろうか、根拠はないが勢三郎は確信めいたものを感じていた。


 「勢三郎様?」

 「なるほど、伝説はあくまで伝説。真実はまた異なるというのだな?」

 袖口に両手を入れ、じっくりと考え込んでいたと見える勢三郎が片手を抜いてその顎を撫でた。


 「はい。真実は違います。ですから伝説をうのみにして行動するのは早計ではないかと思います」

 桜姫は静かにうなずいた。


 「では、いかなる理由で橘姫は鬼姫になるのであろうか? 何か知っておるのではないのか?」


 「実は以前から橘姫をつけ狙っていた邪鬼がおります。奴が橘姫の身体を乗っとるか、或いは話に伝わる荒ぶる山神の怒りによるものか……。山神のことは神の禁忌に触れることゆえ、私の口からはこれ以上詳しく申し上げられませんが……」


 「邪鬼とはどのようなものか?」


 「邪鬼とは、人になり切れなかった悪霊と言われ、小鬼のような醜い姿の山怪であります。普段は山に入った者を迷わせる程度の弱い怪異ですが、人に憑依するか、人の体を乗っ取って受肉すると恐ろしいと言われております」


 「人に憑依する化生の者か……。憑依した相手の能力や相性によってはとんでもない化け物に豹変する場合もあるそうだ、厄介なことにな。鬼姫とはそういう化生なのかもしれぬ」


 「私は村の鎮守の神として祀られ、人にしては強い霊力を持って生まれた橘姫を見守っておりました」

 

 「ですが、私が橘姫を守れたのは幼少の頃まで。長い飢饉で祭が衰退し、私の力が弱っていることを知ると、邪鬼は村人の男をそそのかして祠ごと私をこの異界の谷に投げ込んだのです。そうして私は長らくここに封印されてしまったのでございます」


 「この谷は、時と場が複雑に絡み合って捻じれてしまっておる。神の眷属すら外に出れなかった理由がそれだな?」 


 「さすがでございます。既にお気づきでございましたか」

 「私がここに来たのも一つにはこの谷の性質ゆえであろう?」


 「はい。ですが勢三郎様の出現が時の糸の乱れを断ち切りました。そのおかげで、封印も急速に弱くなってきました」


 「伝説とは違い、橘姫が自ら狂気に駆られ鬼姫と化したのではない。そなたの加護を得られなくなった橘姫に悪霊の類が憑りついて鬼姫が生まれたのかもしれぬということだな?」


 「ええ、橘姫は邪鬼か何かに体を奪われたのではないでしょうか? そして勢三郎様、貴方はその鬼姫に噛まれたことで偶然にも鬼姫と縁を結ぶことになったのです」

 「縁か……、たしかに奴の体液を体内に流し込まれたのだ。強い縁が生じても不思議ではない」


 「きっと勢三郎様がこの時代に呼ばれたのは偶然ではありません。歪んだ歴史を元に戻そうという神秘の力が働いたのかもしれませぬ」

 「それはそなたの買いかぶりであろう。歪んだ歴史を元に戻すなど、そこまでの力は私にあろうはずはない」


 「いいえ、貴方は聖邪の血が等しく交じり合ったお方。その体内に神威に近しい力を秘めておいでです。貴方は邪鬼と会って真実をその目で確かめ、鬼姫を封じなければなりません。私はまだこの谷を出られませぬが、人間である貴方であれば既に問題なくこの谷を出られるはずです」


 「わかった。ならば、すぐに行動を起こすのみであろうな」

 勢三郎は刀を手に取ると、ゆるりと立ち上がって腰に差した。

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