尻沢無残2

 集落の中心にある大きな廃屋にはただならぬ気配が立ち込めていた。他の屋敷の数倍は大きい大屋根は朽ちて雪の重みで陥没している。


 その周囲に渦巻くあまりにも不穏な気配に、造六も穂乃もすぐに気づいた。鬼姫の圧倒的な威圧感とはまた別の種類の寒気と鳥肌が立つような嫌な雰囲気なのである。


 屋敷へ続く石段を駆け上がった時、崩れかかった土塀の犬走りの雪だまりが爆ぜた。そこに身をひそめていた魔物がいたのだ。


 飛び散った無数の粉雪を目隠しに、三人の前方と側面から化け物と化した青シシのような獣が鋭い角を振りかざし、一斉に襲いかかってきた。


 「敵です!」

 「きおったか!」

 「私に続け!」

 素早く勢三郎が道を切り開き、造六と穂乃は側面の敵をなぎ払った。

 

 三人はさらに後方に姿を見せた猪の化け物が追いつく前に廃屋の朽ちた門をくぐった。とっさに造六は竹筒を懐から取り出すと入口の雪の上に何かの粉を撒き散らした。


 ガッ!

 造六を目がけて飛びかかった二匹の皮の剥がれた猪のような化け物がその粉に触れた途端、体中にヒビが入って空中で砕けた。


 「どうじゃ、破邪の粉もたまには役立つであろう?」 

 仁王立ちしていた造六がニヤリと笑った。


 「あれを! 勢三郎様!」

 穂乃がふいに叫んだ。

 見ると、廃屋の前、馬小屋と井戸の見えるやや開けた場所で男が腐った死人にむさぼり食われていた。


 さらわれてきたのだろうか、井戸の傍らには少女が立ちすくんでいた。男を食い終わった化け物が血まみれの口を拭いながら少女を見た。今度は少女が襲われる番であった。


 「助ける!」

 勢三郎が刀に手をかけ、雪を巻き上げて走った。


 「勢三郎! これは罠だ!」

 勢三郎が二人から離れた瞬間、雪の中から狂犬が飛び出し、造六と穂乃を襲った。

 間違いない。こいつらは息をひそめ、一番の強敵である勢三郎が離れる機会を伺っていたのだろう。


 造六が鉄杵を振って腹をなぎ払い、穂乃が木杖でその頭部を突く。二匹の狂犬が吹っ飛んだが、新手がさらに姿を見せて二人を取り囲んだ。


 迫る勢三郎の気配に気づいた化け物が振り返った。

 その刃は化け物に身動きひとつ取らせなかった。

 勢三郎は井戸の前にいた化け物を一刀の元に両断した。その様子を見ながら、井戸の前の少女は恐怖ですくんでいるのか逃げることもできないようだ。


 「仕留めきれなかったか!」

 袈裟懸けに斬られ、その右半身を失いながらも左手を振りかざして襲ってくる死人を勢三郎は睨んだ。


 「その残念を絶つ!」

 勢三郎は刃を向け身構える。

 異様な走りで迫りくる死人に踏み込むや今度は一瞬で死人の首を刎ねた。

 宙をぽーんと飛んだ男の首が緑色の体液を撒き散らし、白い雪の上をごろごろと転がっていった。


 やったか! と造六が思ったその時だった。

 ざざっと突然廃屋の屋根の雪が崩れ落ち、大量の白い雪がもうもうと立ち上った。


 「くっ、目くらましか」

 勢三郎は顔を歪めた。

 「獲ったわい!」

 雪煙の中から音もなく飛びかかった鬼姫が勢三郎の首に牙を突き立て、真っ赤な血しぶきが上がった。

 真白な雪に勢三郎の血が舞い散る。


 「勢三郎様っ!」

 その光景を目撃した穂乃が悲鳴に似た声を上げた。

 「勢三郎!」

 造六もそれに気づいて助けに向かおうとするが、狂犬がその邪魔をして近づけない。


 じゅるるる……と血を啜る音が響いた。

 鬼姫は容赦なくその牙を勢三郎の首筋に埋め、その脈打つ血を啜った。


 「このまま、お主を我が眷属にしてくれようぞ」

 鬼姫がさらに牙を深々と突き立て、勢三郎の血が勢いよく噴き出した。その傷口の周りに緑色の液体が泡立つのが見える。鬼姫は啜った血の分だけ勢三郎に何か緑色のものを注入しているのだ。


 「ぐっ!」

 勢三郎は鬼姫の衣服を掴んで引きはがそうとするが、物凄い力でしがみついており、引きはがすことができない。


 勢三郎の羽織は見る見る鮮血に染まっていく。


 「この機会を待っておったのじゃ」と鬼姫は微笑を浮かべた。

 血を啜りながら、牙から滴る緑色の毒を注入していく。

 

 「これでまもなくお主も我が眷属じゃ」

 「くっ……」

 勢三郎は立ち眩みするようによろけた。


 「甘美、甘美じゃ、これほどの男がおったとはな」

 鬼姫は歓喜に震える。


 「む……?」

 だが、その喜びの表情はすぐに苦悶に変わっていった。


 「な、なんじゃ、これは!」

 鬼姫がふいに口を離して飛び退くと、地面に転がり落ちて悶え苦しみだした。


 じゅうじゅうと何かが溶けるような嫌な臭いがした。

 何かが毒に反応したのか、鬼姫の口の中が焼かれているのだ。


 「こ、こんなことがあろうはずがない。血だ、すぐに別の血で中和せねば」

 苦悶を浮かべた鬼姫の目に井戸端に立つ少女が映った。


 「待てっ!」

 噛まれた首を押さえ、片膝を落として痛みに耐えていた勢三郎がその意図を察して動いた。


 勢三郎の瞳が金色に光った。

 少女に掴みかかった鬼姫の首を後ろから横なぎに払い、勢三郎は少女を抱きかかえた勢いそのままに前方へと転がった。


 「ぎゃあああ!」

 一瞬、苦悶の表情を浮かべた鬼姫の首が宙に舞うのが見えた。


 だが、それがどうなったか、勢三郎には確認することはできなかった。少女を抱いたまま、勢三郎は深い古井戸の底に落ちて行ったのである。

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